3,恋するフォーチュンティースプーン
弘春と顔を合わせたくなくて、朝、逃げるように早く家を出た。
お店の鍵を持っているのは私と山室君だけだけど、殆どいつも山室君が開けてくれている。
早く珈琲を一杯……
渇望しながら、オフィスに急ぐ。
(あれ?)
閉まったシャッターに寄りかかりながら、少年が携帯をいじっている。
「昴君?」
「あ、瑠璃」
「瑠璃じゃなくて、店長ね」
窘めながら、なんだってこんな時間に来ているのかが気になる。
「なにか気になることでもあるの?まだ出勤まで時間あるよね?」
7時の開店時間に合わせて、社員は6時20分に来ればいい。
今はまだ、6時にもなっていない。
「別に」
「あ、そ」
相手をするのも面倒なので、無言でシャッターを開けた。
更衣室に入って着替える。
とにかく、一刻でも早く珈琲を……
「なにしてんの?」
厨房で昴君が私服のまま珈琲をドリップしていた。
「見て分かんないんですか?」
なにその馬鹿にした言い方。
見ればわかるよ。
だから……
「勝手なことしないでくれる?まだあなたに珈琲を淹れる資格ないから」
感じの悪い言い方をした自覚はある。
だけど……
「別に売りもんじゃねえし」
言葉とは裏腹に、昴君は優しい表情をしていた。
なんなら少し微笑んでる?
「珈琲淹れるの好きなんだね」
「じゃなきゃ、こんなの仕事に選ばねーし」
「だね」
少し可愛く思えてきて、カウンターの向かいに立った。
「私にも一杯ちょうだい」
「は?断る」
思わず吹き出す。
「断ることはできません。一杯よこしなさい」
昴君はLサイズの珈琲カップになみなみと注いでくれた。
色
香り
とろみ
最高級だと、珈琲が物語っている。
一口……
「はあぁ~おいしい」
心の底から出た本音。
「上手だね」
「資格はないけど」
拗ねてるの?可愛い。
ぶすっとした顔で珈琲カップを口に運ぶ昴君。
一見問題児だけど、やりたいことに従順な素直な子なのかも知れない。
「ねえ……もしかして……前髪切った?」
昨日は全く見えなかった目が、少し見えてる気がする。
「丸出しは最悪」
「なら、あと2mm。明日、切ってきて」
『はあ?』って得意のパグ顔全開の昴君に睨まれた。
***
6時を少し過ぎて、山室君が出勤してきた。
「なに?今日、早くない?彼氏と喧嘩でもした?」
返す言葉もなく黙る。
「やべ……まじか。気にすんな。俺ごときの言う事なんて聞く耳持たなくていいから。ホント、ごめん、今の忘れて」
山室君は黙って珈琲を飲んでいた昴君の首根っこを捕まえて控室に入って行った。
「ふぅ」
昴君の珈琲を飲みながら椅子に座った。
山室君は結婚して15~16年の奥さんがいる。子どもはいなくて、共働きで、パッと見は私と弘春の関係と変わらない。だけど、婚姻関係というのは明らかに法律上の括りが違うようで……
「実はさ、離婚を迫られてるんだよな」
そう相談されたのはもう2~3年前のこと。
「どうして?」
「妻の浮気」
女の人も浮気すんだって、初めて思った。
その後、何回かその話をしたけど、進展はないようでいわゆる『家庭内別居』状態だそうだ。
離婚が成立するのは双方の同意が必要だ。
でも、恋人同士であれば、一方の都合で別れることは簡単。
「入籍しとくんだったな」
プロポーズをされたことがあった。
その時は、家からだいぶ離れた店舗の副店長をしていて、通勤と業務改善命令に四苦八苦していた時だったから、プライベートについて考える余裕なんてなかった。
その後、ここの店長候補に名前が上がってると知り、私は益々仕事にのめり込んでいった。
よくよく考えてみると、最後にエッチをしたのは……
うーん。
今年はないから……
去年のクリスマスも忙しくって……
何だかんだで8ヵ月?いやもっとかな?
ふられるのも当然かも、と反省したところで遅いか。
「おはざーす」
京介君が出社してきた。
「おはようございます」
「あの、店長、アイツ今日来るんすかね?」
「昴君?ならもう来てるよ」
「はあ?まじっすか?」
京介君が走って行った。
未来ある若者を2人もお預かりしたんだ。
しっかり一人前にしてあげなくちゃ。
京介君にはバリスタとしての知識を。
昴君には大人としての一般教育を……
悩んでもしょうがない。
動きながら考えよう。
***
今日出て行くと言った、弘春。
さすがにいないだろうと覚悟を決めてドアを開ける。
「お帰り」
あ、まだいた。
「もう出るところ。よければ……だけど……最後に少し話をしないか?」
黙ってダイニングテーブルに着く。
まだ学生だった20歳の頃から付き合っている。
目の前に座っている中年男性が、よく見れば見るほど同一人物とは思えなくなってくる。
「あのさ、分かって欲しいんだけど、俺、瑠璃のこと愛してたよ」
それを聞いて、どうして欲しい?
喜べばいいの?
「ずっと自然体で一緒にいられたし、癒されたり、楽しかったり良い思い出ばかりなんだ」
センチメンタルを気取ってる元彼に苛立ってくる。
「瑠璃も幸せになれよな」
余計なお世話だ!と怒鳴ってやりたい気分。
「このティースプーンだけど……」
友人の結婚式の引き出物で貰った、可愛いお気に入り。全部で6本ある。
「俺、半分貰って行っていい?」
「は?」
「3本だけ持って行っていいよな?あとは置いてくから瑠璃が使いなよ」
確かに気に入ってるけど、半分ずつ持つってのはどうなんだろう。
「全部持って行っていいよ」
All or nothingの方がすっきりする。
「いや。3本でいい。瑠璃が要らないなら処分していいよ」
意味不明な頑固で、私を嫌な気分にさせないで欲しい。
「分かった」
さっさとこの悲劇ごっこを終わらせたい。
「よかった。じゃ、俺の荷物は引っ越し先が決まったら引き取りに来るから、それまで預かっててくれるか?瑠璃も新居が決まり次第教えてくれよな。さすがに何カ月も住んでない部屋の家賃払うのきついから、その辺分かって欲しい」
そう言って、弘春はスーツケースにボストンバッグを乗っけた。
どこに行くのかは敢えて聞かない。
結婚を考えている女性のところに行くのだろうから。
そんな馬鹿な真似はしない。
泣いてすがるような惨めな真似もしない。
そもそもラブラブな恋人関係ではなかったのだから。
別れは必然と言えなくもない。
「さようなら」
聞こえたかどうか分からない。
返事がなかったから。
一人になった部屋で、涙を堪える必要が無くなった。
私はキッチンに立ち、泣きながら豆を挽いた。
ゴリゴリと心地よい振動と共に、鼻から癒しの香りが忍び込んでくる。
別れて正解だったんだ。
何度そう自分を納得させようとしたことか。
過去への未練と同時に未来への不安が頭を過る。
だって、もう恋とか始められる歳じゃないもの。
挽いた豆をフィルターをセットしたドリッパーに入れる。
沸かしたばかりのお湯を、やかんの細い口からそろりとこぼす。
むくむくと豆が膨らみ、香りを含んだ湯気が一気に広がりだす。
少しずつお湯を注いで、珈琲のエキスを抽出させ落としていく。
(嗚呼、この時間が何よりも幸せ)
丁寧に淹れた珈琲に適う美味しいものはこの世にはないと思う。
今日はブラックでいただく。
(……?)
まさかそんなはずはないと思った。
私だって、20年近くコーヒーショップで働いて、バリスタの資格も持っている。
なのに……
なのになんで……
今朝の昴君の珈琲の方が美味しいんだろう。




