2 九十九の算
人には、それぞれ得手不得手がある。
誰もが同じ道を歩めるわけではない。
だが、歩めぬ道を知ることもまた、自分の居場所を見つける一歩となる。
「鏡之介さん!」
水絵は叫んだが、遅かった。
「猫又!?」
「この三毛、猫又なの?」
千代が震える声で聞き、新吉が、
「九歳で猫又にならないなら、何歳だとなるんだよう?」
などと叫ぶ。大騒ぎだ。
水絵があきれ顔で自分を見ているのに気づいた鏡之介は、取り繕うように言った。
「ただの迷信だ。さあ、始めるぞ。そろばんの用意。裁縫をする者は、水絵先生のところだ」
寺子たちは「えー!」「もっと猫見たい~!」などと騒いでいたが、祐光師が、
「それでは、この子たちは庫裏で預かりますね」
と、猫たちを連れ去ってしまったので、渋々席に着いた。
それでも、新吉は諦めない。
「なあ、なんで九歳だと猫又にならないんだよ。教えてよー」
と、いつまでもこだわっている。
鏡之介は、にやっと笑うと言った。
「そんなに九が気になるんなら、この算題はどうだ?」
そう言って、鏡之介が出した算題は――。
九十九匹の猫が、九十九箇所の寺で、九十九回ずつ鳴いた時、鳴き声の合計は何回になるか。
聞いた途端、礼次が小さく「あ」と言った。鏡之介は、礼次に目で何か合図をし、礼次が頷く。
「何算か分かる者?」
鏡之介が声を掛けると、礼次の次にそろばんが得意な辰吉が手を上げた。
「掛算。九十九に九十九を掛けて、その答えにまた九十九を掛ければ出る」
「その通りだ」
鏡之介が頷くと、新吉がぼやいた。
「そんな大きな数の掛算、無理だよー」
「そろばん使えば、できる」
辰吉が言う。この頃、礼次に負けまいと、必死にそろばんの稽古をしているのを水絵は何度も見ている。
「よし、それなら、そろばんでできると思う者は算を始めろ」
その時、新吉が礼次に声を掛けた。
「礼次は算木を使うのか?」
礼次は、ちらっと鏡之介を見上げ、
「おれ、暗算でできると思う」
と、言い切った。
鏡之介は、ふっと微笑み、
「では、暗算で出た答えを、ここに書いておけ」
と、反古紙を一枚、礼次に手渡した。
礼次は、ちょっと考えたあと、筆を執り、反古紙に数を書く。
「ええ!? もう答えが出たのか!?」
新吉が叫び、辰吉が唇をかむ。それでも、辰吉はそろばんをはじく手は休めなかった。
「それは俺が預かろう」
鏡之介が礼次の手から反古紙を取り、師匠用の文机の上に伏せておいた。
「水絵姉ちゃんは、今の算、できる?」
縫い物をしていたるいが訊いてくる。兄の礼次のことが、気にかかっていたのだろう。
「そろばんを使えばできると思うけど、自信はないな」
「そんなにむずかしい問題なんだ」
感心したように言うるいは、ちょっと得意そうだ。算法が得意な兄が自慢なのだろう。
やがて――。
「出来ました」
辰吉が手を上げる。
鏡之介はほかの寺子を見回したが、計算途中の者はいない。皆諦めてしまったのだろう。
鏡之介に促されて、辰吉が答える。
「九十七万二百九十九」
「御名算」
鏡之介の言葉に、辰吉は嬉しそうに頬を染めたが……。鏡之介が伏せた反古紙を見せた途端、その笑みが消えた。
そこには同じ数字「九十七万二百九十九」と書かれていた。
寺子たちから驚きの声が上がる。
「礼次兄ちゃん、すごいでしょ?」
るいが得意そうに囁く。
「ええ、ほんとに」
水絵は心からそう思った。一年前までは、礼次と張り合う気持ちが強かったが、今はもう、かなわないと分かっている。くすぶっていた気持ちも、鏡之介が礼次に算木を与えた時に、すっかり消えてしまった。
いじけているわけではない。算法が苦手でも、読み書きなら誰にも負けない。鏡之介が認めてくれたその力を伸ばすことに力を注ごう、そう思うようになったのだ。
そろばん組がいる方から、礼次が暗算のやり方を説明している声が聞こえてくる。
礼次の説明はこうだ――。
九十九は一を足せば百になる。だから、まず九十九掛ける百の計算をする。これは簡単だ。桁を二つあげればいいだけなので、九千九百。
さっき一を足したので、ここから九十九を引く。つまり九千八百一。これが九十九掛ける九十九の答え。
さらにこの数に九十九を掛けるのだが、さっきと同じことを繰り返す。つまり、まず百を掛けて、九十八万百。ここから、九千八百一を引く。
「答えは、九十七万二百九十九」
礼次の口調は、心なしか、鏡之介に似てきている。寺子屋の師匠が出来るようになる日も近いのかもしれない。
そう思った瞬間、水絵は、心がざわっとするのを感じた。何故そう感じたのか、わかった気はしたが、あえて突き詰めるのはやめた。
「今日はこれまで」
鏡之介が言い、「ありがとうございました」と、寺子たちが帰り支度を始める。
支度をしながら、新吉が礼次に声を掛ける。
「なあなあ、なんであんなすごい掛算、暗算でできるんだよ」
礼次は、ちょっと照れくさそうに笑いながら、
「『塵劫記』って本に、同じような問題があったんだよ」
「へぇ、だから答えを憶えてたのか」
感心したような新吉の言葉に、礼次は苦笑したが、なにも言わなかった。そこに、鏡之介が声を掛ける。
「『塵劫記』にあるからす算は、もっと難しいぞ。九十九じゃなくて、九百九十九を三回掛けるんだ」
「ええ!? そんなの、おいらにはやっぱり無理だよぉ」
しょんぼりした新吉を、礼次が慰めようとするが、その前に、新吉はあっさり立ち直った。
「まあ、いいか、青物売りに、そんな大きな数いらないもんな。じゃ、鏡之介先生、また明日!」
そう言って、ぺこんと頭を下げると、あっという間に走り去ってしまう。
「確かに、あいつは、いい商売人になりそうだ」
見送りながら、鏡之介がつぶやいた。
寺子たちが皆去り、鏡之介とふたりで後片付けをしながら、水絵はさっきの「ざわっ」の正体が、はっきりとした形になったことに気づかされた。
きっかけは「塵劫記」。寺子屋にある算の本だが、水絵には難しいものが多かった。読んでも分からないところばかりで、いつの間にか手に取らなくなっていた。
算法が苦手だからこそ、分からない子の顔を見れば、どこでつまずいているのかは分かる。伝える言葉なら、自然と口をついて出る。鏡之介が認めてくれたのも、きっとそんなところだ。
祐光師は、「算法に勝ち負けはありません」とよく言っていた。その言葉はその通りだと思う。だが、自分が会得していない算の道は、伝えられない。そんな当たり前のことが、水絵の心を重くしていた。
「礼次はすごいですね。『塵劫記』を、すべて心得ているんですね」
さりげなく鏡之介に言ってみる。
「そのようだな。あれは、算の才がある」
さらっと言われて、また胸がざわつく。
「もう少ししたら、寺子屋の師匠になれますね」
すると、鏡之介がははっと笑った。
「もう少ししなくても、今でも十分な力があると思うぞ?」
水絵はためらって……でも、どうしても訊きたくて、口を開いた。
「もし、礼次が正式に寺子屋の師匠になったとしたら、鏡之介さんは、どうするんです?」
九十九の算は、やがて答えにたどり着く。
だが、人の心の中にある問いには、すぐに答えが出るとは限らない。
この日、水絵の胸に残ったものもまた、まだ名のつかぬままであった。




