1 桜の下の九つ
花は毎年咲くものだが、同じ春は二度と来ない。
気づかぬうちに過ぎていく日もあれば、心に残る朝もある。
この春、水絵にとって忘れられぬ出来事は、
一匹の猫と、九つの小さな命から始まった。
「綺麗……」
眞性寺に向かう中山道沿いには、しだれ桜が咲き誇っていた。おそらく、数日前から満開になっていたのだろうが、水絵はそれに気づけなかった。
昨日まで、寺子屋の師匠仲間の賢木鏡之介が、寺子屋を留守にしていたからだ。水絵は、一人で寺子屋を切り回さなければならず、花を見るゆとりさえなかった。もちろん、忙しさもその理由だったが、それ以上に、本当に鏡之介は帰ってきてくれるだろうか? という不安が、水絵の余裕を奪っていた。
眞性寺の中に入ると、表門脇のしだれ桜も満開。思わず立ち止まり、見とれてしまう。
この桜にさえ気づかなかったのだから、自分は相当うろたえていたんだな、とあらためて思う。でも、もうその心配はない。
昨日の夕方、鏡之介は戻ってきた。そして、「俺は寺子屋師匠だ」と言ってくれたのだから。そんなことを考えていた水絵は、思いのほか長い時間ぼんやりしていたことに気づいた。
「いけない、遅れちゃう!」
急いで本堂に向かうと、すぐに大騒ぎする寺子たちの声が聞こえてきた。
騒ぎの中心にいるのは鏡之介。その姿を見て、水絵は、
「着てくれたんだ……」
とつぶやく。鏡之介が身にまとっているのは、紫鳶に淡銀の七宝柄の袷。水絵が縫って、昨日、渡した着物だ。
「どうしたんだよ、この着物? 新しいじゃねえか」
鏡之介の着物の袖を遠慮なく引っ張っているのは、新吉だ。
「引っ張るな。俺だって、新しい着物くらい着る」
「いつもの藍より、こっちの色のほうが似合ってるよ。柄も洒落てる」
おませなことを言うのは、るい。
「七宝って言うんだよ。七つの宝って書いて七宝」
などと解説しているのは、るいの兄、礼次だ。
「銀色の丸の模様、きれい。千代はこの着物好き」
うっとりと見上げられ、鏡之介は困ったような顔をする。
「騒いでないで、そろそろ座れ。手習いを始めるぞ」
だが、寺子たちは、いっこうに座ろうとしない。
「いつもの着物より、丈も裄も鏡之介先生に合っているみたい」
「縫い目も、すごくきれいよ」
などと、少し年長のおきぬとおふみが言い……その時、新吉が叫んだ。
「分かった! これ、縫ったの水絵姉ちゃんだよ、きっと!」
新吉の言葉が本堂に響いた途端、鏡之介がむせて、咳き込んだ。
「……大丈夫?」
近くにいた礼次が、背中をさするが、咳き込んでいる鏡之介は、答えることもできない。
すると、おきぬが鏡之介に近づき、肩の辺りをまじまじと見る。
「うん。水絵姉ちゃんだね。だって、こんなに細かい七宝柄なのに、ちゃんと柄合わせができてるもん」
水絵は、少し離れたところでそんなやりとりを聞きながら、これは助けに入るべきかどうか、悩んでいた。
鏡之介は明らかに困っているが、今、自分が行ったら、火に油を注ぐことになりそうだ。
その時、後ろから柔らかい声が聞こえた。
「鏡之介さんの着物、色は分かりましたが、柄はよく見えなかったんです。七宝だったんですね」
振り返るまでもなく、この寺の僧侶である祐光師だ。ずっと寺子屋の師匠をしていたが、最近目を患ったため、教えることはほとんどなくなっていた。
「はい、七宝です」
答えてしまってから、これでは自分が縫ったと白状したも同然だなと焦ったが、祐光師にはすでにお見通しだったらしく、ふっと微笑んで、
「よい見立てです。七宝は、ご縁が無限につながっていくことを教えてくれる柄ですから」
と言った。
その時、祐光師が抱えていた木箱から、「みゃあ」という声が聞こえた。
のぞき込んでみると、十匹近い子猫と、その母親と思われる三毛猫がいた。
「どうしたんですか、この猫?」
「仏様からの預かり物です」
そういうことか……と、水絵は思った。色々な事情で飼えなくなった猫を寺に託す者は多い。この猫も、おそらく、一度にたくさんの子どもが生まれてしまったから、飼い主の手に余り、寺に託したのだ。
寺がいったん預かることによって、その猫は仏のご加護を受けた猫となる。そうして、新しい飼い主を捜すのだ。
「ずいぶんたくさんいますね。……ひい、ふう、みい……」
数えてみると、子猫は九匹いた。
「母猫のミケは、九歳だそうですよ」
九歳といえば、かなり高齢だ。その歳で、九匹も産んだとなれば、飼い主がうろたえるのもうなずける。
「もらい手を捜さなければなりませんね」
と、祐光師が言った。つまり、預けた飼い主にもらい手を捜す気はないのだろう。
その時、水絵はひらめいた。
「祐光先生、その猫、貸してください」
祐光師から木箱を受け取ると、水絵は本堂の縁側にそれを置いた。そして、寺子たちに向かって大声で言う。
「みんなー、猫ちゃん見たい人、いる?」
鏡之介を取り巻いていた寺子たちが一斉に振り向き、水絵が置いた木箱に気づくと、それに突進した。
「まだ子猫だから、触っちゃ駄目よ。見るだけ」
釘を刺しておいて、ほっとした顔で座り込んだ鏡之介の所に行く。
「おはようございます……と言うか、お疲れ様」
鏡之介は、苦笑した。
「こんな騒ぎになると分かっていたら、着てこなかったんだが」
「最初だけですよ。すぐに見慣れます」
「だといいが……。で、あの猫はなんだ?」
祐光師から聞いた事情を話す。
「ああ、なるほど。九歳の猫が、九匹の子猫を産んだから、自分の家には置いときたくねぇってわけか」
「まあ…そうなんでしょうけど」
すると、その話が耳に入ったのか、新吉が振り返った。
「九歳の猫が九匹の子猫の、どこが悪いんだ?」
「それは……」
全く耳聡いんだからと思いながら、どう説明しようか悩んでいたら、礼次が小さな声で新吉に囁いた。
「九って数は『苦』つまり『苦しい』って字と同じだから、縁起が悪いって言う人もいるんだよ」
「えー! じゃあ、この猫、縁起悪いのか?」
礼次が小声で言った心遣いを無駄にする大声で新吉が言い、寺子たちが一斉にこちらを振り向いた。
鏡之介は立ち上がり、木箱の中の猫をのぞき込んだ。
「九は縁起の悪い数ではない。九は陽の極み。唐ではめでたい数だ」
すると、寺子と一緒に猫を見ていた祐光師が言った。
「この子たちは、仏様からの預かり物です。乳離れが済むまでに、飼ってくださる人を見つけたいのです」
「だから、おうちの人に飼えないかどうか聞いてみて。あと、近所で猫を飼いたいって人がいたら、教えてあげてね」
言いながら、水絵も木箱の猫をのぞき込む。みゃあみゃあ鳴いている猫は、文句なしにかわいい。思わず笑みがこぼれる。
その時、鏡之介がとんでもないことを口走った。
「母猫もまだ九歳だから、猫又にはならねえしな」
九つの命。
九という数。
そして、猫又という言葉。
それらがただ重なっただけなのか、
それとも――意味を持っていたのか。
答えは、まだ誰も知らない。




