最終話 胸に残る
誰かのために書かれた話は、
読まれたあと、そっと手を離れていきます。
けれど――そのぬくもりは、どこへ行くのでしょうか。
猫又双紙、最終話です。
寺子屋にやってきたるいは、幾分頬はこけているものの、いつもの元気な顔がそこにはあった。
「おはよう、るいちゃん」
水絵が声をかけると、るいは「猫又双紙」を水絵に差し出した。
「水絵姉ちゃん、これ、『誠太郎文庫』に入れて。みんなにも、読んでほしいから」
自分のものにしてもいいのに、それをしない。優しくて強い、いつものるいがそこにいた。
「ありがとう」
なんだか泣きそうな気持ちで水絵が言うと、るいがくすっと笑った。
「へんなの。ありがとうって言わなきゃいけないのは、あたしなのに」
るいはそう言うと、ぺこっと頭をひとつ下げ、寺子屋に駆け上がる。放り出された下駄を、後から来た礼次が苦笑しながら、片付ける。
見ると、るいは「猫又双紙」を一度だけきゅっと抱きしめると、大事そうに「誠太郎文庫」の棚に並べた。
寺子屋に、いつもの日常が戻って、数日後。
鏡之介が、源氏香の単衣を身につけて現れた。
また大騒ぎになるのではないかと水絵ははらはらしていたのだが、それは杞憂だった。
目ざといおきぬは、
「水絵姉ちゃんが縫ったんだね」
と言ったが、鏡之介が、
「腕がいいからな」
とあっさり答えると、それ以上はなにも言わなかった。
それを聞いた新吉が、
「鏡之介先生が、新しい着物着てるぞー」
と、騒いだが、寺子たちがそれに乗じることはなかった。
水絵がほっとした顔を見せたのに気づいた鏡之介は、「大丈夫だったろう?」とでも言いたげに、にやりと笑った。
だが、騒ぎは別のところで起こった。
そろばんの稽古をしている時――。
その日は、全員がそろばんの稽古をしていた。簡単な足し算引き算を習う寺子には水絵が、難しい計算と算木を使う礼次は鏡之介が教えていた。
鏡之介が礼次の前に座り算木の扱いを教えている時、本堂をうろうろしていたミケが、ひょいと鏡之介の膝の上に乗った。
気づいた礼次は思わず顔を上げたが、鏡之介は何事もなかったように算木を動かしている。ただし、右手は算木を動かしているが、左手はミケを撫でていた。
それに気づいた礼次が思わずくすっと笑ったが、鏡之介は眉を少し上げただけで、素知らぬ顔で算木を動かしている。
その時、後方の席でそろばんの稽古をしていた新吉が、大声を上げた。
「鏡之介せんせーい! なんか、ぐちゃぐちゃになっちゃったよー!」
鏡之介は顔を上げ、軽くため息を吐いた。
「ぐちゃぐちゃになったんじゃなくて、おまえがぐちゃぐちゃにしたんだろうが……」
そう言いながら、ミケを抱いたまま立ち上がり、新吉のそばまで来た時――。
にゃあっ!
ミケが、するりと鏡之介の手から逃げた――だけでなく、鏡之介の懐に足を引っかけたのか、ミケと同時に、算木袋が床に落ちた。
「あれ?」
拾った新吉は、まじまじとそれを見ると、にやっと笑った。
「新しい算木袋だ! この模様、どっかで見たことがあるなあ」
あいにく、新吉の隣は目ざといおきぬが座っていた。
「七宝柄だね。水絵姉ちゃんが、鏡之介先生に誂えた着物の柄だよ」
おきぬが新吉の手から算木袋を取って、まじまじと見る。
「袷のついでに、算木袋も新しくしてもらったんだね」
「袷のついでじゃない、算木袋のついでに袷を作ってもらったんだ」
そう言いながら、鏡之介は算木袋を取り返そうとしたが、それより先に新吉がおきぬからそれを取り上げた。
「はあ? なんだよそれ、逆じゃん」
周りの寺子たちが「見せて見せて」と騒ぎ出し、算木袋は寺子たちの手から手へ……。
「ほら、いい加減に返せ」
寺子たちに囲まれ、困り果てている鏡之介の顔が可笑しくて、水絵はくすくすと笑っていたが、不意に気づいた。
群がっている子どもたちの中に、るいの姿がない。
「え?」
慌てて周りを見回すと、縁側にるいの姿を見つけた。
しゃがみ込んでいるるいの前には、ひなたぼっこをしているミケ。
水絵は一瞬ひやっとしたが、るいの手は愛おしげにミケを撫でていた。
「この前は、ごめんね。大っ嫌いなんて言っちゃって……」
言われている意味が分かっているのか、ミケはおとなしく撫でられている。
「ミケは分かってたんだよね。クロが天の遣いだったってこと」
るいは、ミケを抱き上げ、ぎゅっと抱きしめる。
「ミケ、大好きだよ」
強く抱きしめられても、ミケは逃げない。
ただ、「にゃあ」とひと鳴き。
「うん。淋しいね。クロに会いたいね」
るいの涙がひとつぶ、ミケの毛並みの上に落ちる。
「でも、大丈夫。クロは、ずっとずっと、あたしたちのことを見ていてくれるから。空の上から、見守ってくれるから」
寺子たちは相変わらず、大騒ぎをしていた。
困り果てた鏡之介が、こちらを見ている。
それに気づきながら、水絵は動けなかった。
――そして、袂でそっと頬を押さえた。
終
物語は、本を閉じたあとも、消えてしまうわけではありません。
読んだ人の中で、形を変えながら、生き続けます。
水絵の書いた一冊も、きっと――そうなのでしょう。




