アリス
「……ふぁ〜あ、むにゃむにゃ、んぅ〜〜ん、ふぅ」
ベッドから起き上がり、大きく体を伸ばしたアリスは……妙に開放的な視界と澄んだ空気、騒々しい蝉の合唱を耳に固まる。
「…………ん?」
眼前に広がる湖と、天を突く富士の威容。
自然の中にポツンと置かれた、ベッドと自分。
停止していた彼女の思考が、一気に覚醒する。
自分がどういう状況にあるのか? 誰がこんなことにしたのか? 彼女は既に分かっていた。
「っっっ、東条くーーんッ‼︎ この野郎っ‼︎ どこだ⁉︎ どこにいやがる⁉︎ 今日という今日は許さないぞ! 出てこいぶっとばしてやる‼︎ ウァアアア――」
「相変わらず良い反応するなぁ」
「アアアヒャィンッ⁉︎」
普通に歩いてきた東条に驚いたアリスが、カエルのように飛び跳ねてベチャッと落ちる。
彼女はボサボサの髪の隙間から、ケラケラと笑っている東条を睨め上げた。
「よっ、おはよ」
「……おはよぅ」
東条は肩に担いでいた大荷物を地面に下ろし、キャンピングチェアに腰掛けた。
「朝飯何食うよ?」
「いや説明は⁉︎」
ギャーギャーと喚いているアリスを無視して、東条は荷物の中からキャンプ用調理器具一式を取り出す。
「説明も何も、腹減ったから飯食おうぜって。え、朝抜く派?」
「うぇ〜ん話通じないよぉ〜! 助けてゆまさん〜うぇ〜ん」
「泣いちゃった……。ほら、涙拭きな」
「ひん、ありがと。じゃないよバカ! 東条君のせいでしょ⁉︎ てか何ここ⁉︎ どこ⁉︎」
「本栖湖。山梨の」
「山梨のっ、本栖湖⁉︎ あ、やっぱあれ富士山?」
「そ。こうして見ると、やっぱ綺麗だよなぁ」
「だねぇ……」
二人並んで、日本が誇る名山を眺める。
「んじゃなくてぇ⁉︎ だからなぜ⁉︎ 今! 私は本栖湖にいるの⁉︎」
「そりゃお前、俺が運んできたからだろ」
「そうだよね⁉ それしかないもんね⁉︎ はぁ、はぁ、はぁ、何なのもうっ、疲れた」
肩で息をするアリスに振り返り、東条は不満気な顔をする。
「あのさ、文句を言うのはいいけど、朝食の準備くらい手伝ってくれる? それとも本当にいらないの? ならいいけど」
「……うぅ、私が悪いの? 私が悪いのこれ? ぐすんっ」
「ほら、口じゃなくて手動かして」
「はいぃ」
スキレットの中で、大ぶりなソーセージ四本と目玉焼き二個が良い音を立てている。醤油を回しかけると、ジュゥウッと香ばしい香りが立ち上った。ちょうど炊けたご飯をステンレス皿によそい、ソーセージと目玉焼きを乗せる。
市販の味噌汁を溶かし、二人して手を合わせた。
「はふっ、あふっ」
「こういうので良いんだよこういうので」
「「ズズ……ほっ」」
味噌汁を啜り、富士を前にホッと一息吐いた。
東条はクーラーボックスからコーラを取り出し、アリスに渡す。
「で、どうなんだ最近?」
「ん?」
「楽しくやれているか? 何か困っていることとかないか?」
「え? お父さん?」
「お父さんだぞ」
「お父さんじゃないよ? お父さん今も田舎でお米育ててるから」
「その節はどうも。いつも送っていただいて、夫婦共々助かっています」
「いえいえ」
お辞儀し合い、アリスはソーセージを齧る。
「え、どゆこと?」
「最近あんま二人で話せていなかったろ?」
「うん、おかげで心安らかなりだったけど」
「日本の夏、蝉の声、白い砂浜、美女の尻、木の下に宿れるなり、イチジクのタルト、カブトムシ、螺旋階段、美女の尻、行ってきます!」
「オトウサンカッコイイ!」
「お父さんだよ」
「お父さんじゃないが? あと色々混ざってるよ」
東条はソーセージを齧り、飯を掻き込む。
「社内アンケートだよ。不満とかないか?」
「あーね、そういう」
富士を見ながらモグついている東条を横目に、アリスは頬を緩める。
「あるわけなくない?」
「そうか?」
「そうだとも。農家を継ぎたくなくて東京に出てきたはいいものの、社不すぎて就職なんてできそうになかった私が、今や世界が認める英雄の裏方だよ?
好きなことをやっているだけで皆に褒めてもらえるし、お金に困ることもない。こんな生活のどこに不満を抱けって言うのさ?
強いて言うなら、周りに異常者しかいなくて困っているくらいかな?」
「分かった、その異常者には俺から言っとくよ」
「うん、異常者筆頭の君から言ってくれるなら安心だよ」
「乾杯」
「乾杯」
コーラを呷り「「ぷはぁ」」と喉を潤す。
「気分転換にはなったよ。ありがと」
「ん? おう」
「じゃあそろそろ帰ろうよ? 暑いし」
「何言ってんだ? 今日はここでキャンプだぞ?」
「は?」
「何のために、わざわざこんな大荷物持ってきたと思ってんだ?」
「え? 嘘でしょ? スマホは? クーラーは?」
「そんな物はない。お前の両親にも頼まれたんだよ。
《あの子は皆さんと仲良くできていますか? どうせ一日中家にこもってゲームをやっているのだと思います。たまにでいいので、外に連れ出してあげてください》
ってな。
このキャンプはデジタルデトックスも兼ねているんだ。たまにはブルーライトじゃなくてお日様の光を浴びろ」
「嫌だっ、嫌だ! もうすぐイベントも近いのにっ、東条君だって練習しないとでしょ⁉︎ それにログボが、ログボ受け取らないと! お願い東条君! 五分でいいからスマホ触らせてよぉ⁉︎」
「バっカもーん‼︎」
「ふげぇ⁉︎」フカフカの芝生の上にズシャァ!
「目を覚ませ! 自然の中でお前の中に溜まった毒を抜くんだ!」
「ふへぇ、東条君がスピっちゃったぁ」
「おら来い! 手伝え! ここをキャンプ地とする‼︎」
「ふへぇ〜」
顔中土だらけにしたアリスが、ハンマーを置いて尻餅を突く。
「づ、づがれだぁ」
「……作ったはいいけど、ほとんどベッドで埋まっちまうな」
「東条君がベッドごと持ってくるからでしょ⁉︎」
「だってお前言ったらついてこないだろ?」
「当たり前でしょ!」
「だから俺は、アリスと出かける時はドッキリを仕掛け続ける」
「それはもうドッキリじゃなくて嫌がらせだよ!」
「よし! アクティビティ行くぞ!」
「は⁉︎ ちょっと休もうよ⁉︎ あぁああああ」
超次元川下り。
「ギャアアアア⁉︎」
爆速カヌー。
「ヒィイイイイ⁉︎」
肩車富士登山。
「ピギィイイイ⁉︎」
銭湯で汗を流し、夕飯にアヒージョを作る。
「あっふ、あっふ」
「ニンニクなんて入れれば入れるだけ美味いからな」
「チーズ入れよチーズ!」
「おうどんどん入れろ。肉と海老と、あ、これ沖縄で貰ったスパム」
ドポン
「アッツ⁉︎」
富士の向こうに日が沈み、手前からグラデーションのように暗くなっていく空を眺めながら、東条は一人コーヒーを啜る。
夜になりかけの薄明るい空は、太陽と星が共存する不思議な色で染まっていた。
『しもしもー』
「おう、どしたぁ?」
画面に映るノエルが、トングを振っている。
『アリスどだった?』
「楽しんでたよ。後で動画送ってやるよ」
『ん』
「そっちは今」
『女子会中』『うぇ〜い、桐将くん見ってる〜?』『ちょぉ、灰音邪魔!』
「ハハっ、楽しそうだな」
『東条様、アリス様を日の元に連れ出していただいてありがとうございます。最近引きこもり癖が特に酷くなっていましたので、助かりました』
「もうすぐイベントだし、あいつも気合い入ってたんだろ。まぁ一ヶ月外に出ないのは病気だからな、こういう奴にはショック療法が一番なんだよ。実際ほら、気持ち良さそうに寝てるだろ?」
ベッドでヨダレを垂らしているアリスを映し、ついでに写メって彼女の両親に送ってからSNSに挙げる。
『あなた? 分かってるとは思うけど、一緒のベッドで寝ようなんて考えたらあかんよ?』
「え、でも寝る場所ないし」
『下空いてるじゃん? ほらそこの隙間。ね!』
「え、狭い」
『アリスはんだから良いなんて思わないことやね。いつでも監視の目があることは忘れちゃあかんよ?』
「……はい」
深夜トイレに行きたくて目を覚ましたアリスが、ベッドの下から飛び出た腕に腰を抜かしてちょっと漏らしたのは、また別のお話。




