灰音・2
満点の星空へと、火の粉が立ち上る。
巨大なキャンプファイヤーが周囲の闇を煌々と照らし、アコースティックギターを弾き語る灰音と一緒に、ノエルも体を揺らしながら歌を歌う。
目を瞑りリラックスしているネロに背中を預けながら、東条は二人のデュエットに耳を澄ましていた。
低音と高音を巧みに使い分ける灰音の美声と、抑揚のない可愛らしさ全振りの声の、奇怪で心地良いマリアージュ。
歌い終わった二人の後ろで、拍手をするようにパチパチと焚き木が弾けて火の粉を飛ばす。
料理を取りに走るノエル。拍手をしながら休んでいる東条。灰音はゆるりと二人の顔を見回し、夜空に向かって一息吐いた。
灰音は心から思う。
僕がこんな幸せになるなんて、昔の僕には想像もできなかっただろうね。
その興奮と幸せを乗せるように、彼女の指が力強く弦を弾いた。
響き渡る激しいスラップ奏法に、ネロが目を開け、東条もニヤけ漆黒を薄く展開する。
激しいギターに合流する重低音。棒切れで漆黒ドラムを叩く東条と、立ち上がる灰音。二人で互いに笑い合い、叫ぶように歌う。
細波と虫の声、獣の遠吠えを掻き消して、即興セッションが空気を揺らす。
「ほい、ほい、ほい」
両手に肉串を持ったノエルが奇怪な動きで踊りながら、燃え盛るキャンプファイヤーを周回する。
ネロが喉を鳴らし、夜天に向けて炎を吐いた。
「おいノエルー、変な虫見つけた」
「しー」
人差し指を唇に当てる灰音に、東条も口を閉じる。
彼女は小さな寝息を立てるノエルを愛おしげに見つめ、まつ毛にかかる前髪をそっと指で払った。
「……寝ちゃった」
「さっきまであんなに騒いでたのに、忙しい奴だな」
「ね。……ふふっ」
東条は変な虫を放り投げ、後片付けを始めた。
漆黒を器用に使ってゴミだの何だのを回収した東条と灰音は、来た時よりも綺麗になったビーチを眺めて満足気に頷く。
「ノエル頼むわ」
「はーい」
足並みを揃え、二人はヴィラへと歩いていく。
細波の音に耳を傾け、何を語るでもなく、心地良い間を二人して楽しむ。
焚き火に照らされる、二人の背中と寄り添う足跡。
ネロは鼻を鳴らして、再び目を閉じた。
灰音がノエルを寝室に運んでいる間、東条は冷蔵庫から取り出した水を呷って酔いを醒ましていた。
元々強い体質ってわけじゃないのに、テンションに流されて飲んでしまう。俺の悪い癖だ。久しぶりにはっちゃけすぎた。
キッチンに寄りかかり、ほっと一息吐いていたところに、灰音も戻ってくる。静かにリビングのドアを閉めた彼女に向かって、東条はペットボトルを掲げた。
「お疲れ、水飲むか?」
「……(スタスタ)」
「いらん? お前酒強いもんなぁ」
「……(スタスタスタ)」
「? 灰ぬぇ――っ⁉︎」
近づいてきた灰音にいきなり唇を奪われ、東条は落としてしまったペットボトルを慌てて漆黒でキャッチした。
背伸びした灰音は彼の下唇を甘噛みし、離す。
「……ふふっ、やっと二人きりになれたね?」
「言うとしたら俺じゃない? そのセリフ」
強引に手を引かれて別の寝室へと連れていかれた東条は、これまた強引にベッドに押し倒されて服を破り捨てられる。
「もう、我慢の限界なんだ。いいよね? もういいよね⁉︎」
「服を破る前に聞いてほしかったかなー」
覆い被さってきた灰音の充血した目を前に、東条は一切の抵抗を諦めた。
「お手柔らかに頼むよ」
「アハッ」
情事とは、性欲と忍耐の乗算である。
我慢すればするほど、結果に付随する快楽の値も跳ね上がるのだ。
灰音はこの旅行中、深夜のみ隠れてイチャつかなければならないという制約と誓約を自らに課し、東条を独占できる優越感、ノエルに隠し事をする背徳感、沖縄の開放感、そこに娘がいる夫婦の営みというシチュエーションを掛け合わせて、莫大な快楽を生成したのだ。
まさにドMの心理。常軌を逸した妄想の現実化。
シーツが歪み、ベッドが軋む。
極度の興奮に魔力が明滅し、飛び散る汗が弾けて蒸発する。
堪らず逃げようとした東条の手が、ドアの隙間から壁の縁を掴んだ。しかし抵抗虚しく、再度闇の中へと引き摺り込まれていくのだった。
数時間後。
「はぁ、はぁ、はぁ、」
「はぁ、はぁ、……はぁ〜アハハっ、ちょっと張り切りすぎちゃったね?」
穴が空き、壁紙が剥がれ、ボロボロになった壁と天井。
シーツとブランケットはどこかへ消え、床板は真っ二つに折れている。
ゆっくりと体を起こした東条は、汗で湿った髪を掻き上げ立ち上がった。
「ったく、カマキリでももう少し上品だぞ?」
「食べられなかっただけ良かったじゃん?」
「食べられてんだよなぁ、ある意味。……はぁ、水持ってくるわ。脱水症状なるてこれ」
「ありがと〜」
腕に抱えられるだけの二ℓペットボトルを持って帰ってきた東条を見て、灰音は吹き出してしまう。
「アハハっ、うわぁ何〜? 桐将くんまだまだやる気じゃ〜ん」
「当然だろ。やられっぱなしで終われるかよ。ほれ」
投げ渡された水を飲もうとした灰音の唇が、キャップに触れる寸前で止まる。
鼻腔を抜ける、甘ったるい臭い。隠す気もないほど露骨に、何かが混ぜられている。
仄かに虹色がかっている中身を目に、灰音は口の端を挑戦的に歪めた。
彼女は心の内で企む。弛緩剤? いや、媚薬かな? 途中で逆に飲ませて遊んじゃお。
「どうした? 俺の水が飲めないってのか?」
「タチ悪い上司みたいな言い方しないの。いいよ? 僕にとってはご褒美だもん」
ゴクゴクと喉を鳴らす灰音を見て、東条は「……さて、どうかな?」と極悪人の笑みを浮かべる。
「ぷふぅ。ほら、飲んだよ? いったい何を混ぜたの、か……ぇ」
直後、灰音は自身の体を掻き抱き、目を見開いて固まった。
それを飲み込んで数秒後、彼女は自分の腹の奥に何か重い物が落ちたのを感じた。
遅れて、背骨の内側をなぞるように熱が走る。
細い電流のようなものが、首筋から肩、腕、指先へと枝分かれしながら拡散していく。
呼吸が一拍遅れた。肺がうまく動かない。空気が質量を持ち、しつこく、艶めかしく全身に纏わりついてくる。
首筋に僅かに風が当たるだけで、びくりと肩が揺れた。
「な、に……こぇ」
立とうとする灰音の膝が抜ける。
力が入らないのではない。入れようとすると、別の感覚が先に割り込んでくるのだ。筋肉が収縮するたび、その動き自体が過剰に増幅され、脳へと押し返される。視界が滲む。輪郭が僅かに揺れ、色が一段階濃く見える。音も同じだ。遠くの雑音まで、やけに鮮明に耳に刺さる。
「や、ぁ、なぃこぇ? やぁ、ぁああ」
言葉が続かない。舌がもつれ、それすらも快感に変わってしまう。全身を巡る波のような感覚が、一定の間隔で押し寄せてくる。立っているのか、座っているのか、その境界が曖昧になる。ただ、自分の体が、自分のものではないように勝手に反応し続けている。
そんな異常事態に、灰音は驚愕と恐怖と恍惚をグチャグチャに混ぜ合わせたような顔を上げた。
彼女のジットリと汗ばんだ額に張り付いた髪を、東条は優しく耳にかけてやる。
「ヤベェだろ? 俺も慣れるまで丸一日かかったからな」
「ッ、きり、ましゃくん! ふぅ、ふぅっ、何っ、これ⁉︎ ぅくっ」
「あんまデカい声出さない方がいいぞ? 響くだろ」
「いぎぃ⁉︎」
東条は灰音の肩をデコピンし、嗜虐的な笑みを浮かべる。
「紗命が作った劇薬だよ。摂取した人間の感度を三千倍にしてくれるらしい」
「ッ⁉︎ う、そ」
「で、何だっけ? お前にとってはご褒美なんだっけ? そら良かった。思う存分楽しんでくれ」
「ま、待っへ! ダメっ、今はダメだから⁉︎ はぁっ、はぁっ、やめてっ、やめてよぉ」
涙を流し、懇願する灰音。……しかし、
「……何でこの状況で、その顔ができるんだよ?」
おおよそやめてほしいとは微塵も思っていなさそうな顔を見下ろし、東条は呆れて笑った。
翌日の昼頃。
「……んん、……マサぁ? はいねぇ? ふわぁ〜……むにゃむにゃ」
目を覚ましたノエルが、二人の臭いを辿って寝室を出る。
しかし少し進んだところで、ノエルは気づく。二人の臭いが、異常に濃いのだ。甘ったるくて、しょっぱい臭いが、ヴィラ全体に充満している。
ノエルは臭いの出所となっている部屋のドアの前に立ち、息を呑む。
――ピチャ
「……?」
何か踏んでしまい、足を上げる。ドアの下から漏れ出ていた大量の液体を不思議に思いながらも、ノエルは恐る恐るドアノブに手を伸ばす。
しかしその時。
「っ⁉︎」
悲鳴に似た嬌声が耳を貫き、ノエルの手がビクッと止まる。
中で何をしているのかなど、とうに想像がついている。ナニをしているのだろう。引き返すべきか、後学のために観察するべきか……。
一瞬悩んだノエルは、ハワイで見たあの光景を思い出してしまい、興味に負けてドアノブを引いてしまった。
……その先に待っているのが、淫靡な地獄だとも知らずに。
十八時を回った頃。
「ねぇノエル、今日は休まない? ほら、みんなでゆっくりするのも」
「や。マングローブ行く。カニ取る」
「一人で遊んできていいぞー」
「や!」
麦わら帽子を被って準備万端のノエルが、虫取り網で東条を捕まえる。
「磯臭ぇ⁉︎」と悶える東条の頭を振り回しながら、ノエルは頬を膨らませて灰音を睨んだ。
「だってノエル、今日まだ何もしてない! つまんない!」
「あー……」
「ビーチでネロと砂遊びしてたじゃねぇか!」
「気使ってあげたの! マサは感謝して!」
「うるせぇ覗いてたくせに! ぷぇっゔぁ⁉︎ 悪かった悪かった!」
面倒臭そうに溜息を吐く東条と、少し恥ずかしそうに頬を掻く灰音。ソファに座る彼らの顔には、隠しようのない疲労が浮かんでいた。もう今日は一歩も動きたくない、そんな大人の事情など、子供には関係ないのである。
「よしっ、じゃあ行こっか!」と立ち上がる灰音に目配せされ、東条も渋々立ち上がる。
「やった! マサはテントとカヌー持ってきて」
「えー泊まんの?」
「ん。灰音は車持ってきて」
「はいは〜い」
荷物を積み込み、いざ出発。
「元気出してこー」
「おー……」「お〜! ふふっ」
ノエルが掲げた右手に、覇気のない手が続いた。
「マサ! ここいる! デカいカニ! デカニ!」
「ん〜、深いな。棒くれ棒」
「ん」
「おら出てこい! オラっオラっオラ!」
「ノエルもやる! ふんっふんっふんっグェ――」
「ノエルー⁉︎」
穴に引き摺り込まれたノエルを慌てて救助したり。
「あ、暑苦しい」
「狭いぃ」
「あははっ、ノエルもっとくっつこ〜?」
「やぁ」
小さなテントの中、川の字で寝っ転がる三人。
天井に投影されたホラー映画に絶叫したり、甘ったるいラブストーリーを笑った東条を二人が縛り上げたり、無双アクション映画で爆笑したり、いつの間に三人揃って眠ってしまっていたり。
風を切る純白のオープンカー。
熱唱する東条の声にノリながら、サングラスを掛けた灰音が片手でハンドルを操る。
車体から身を乗り出したノエルは、髪を靡かせ、気持ち良さそうに日差しに目を細めた。
あの日、三人で逃げた道。
思いの丈を吐き出し、灰音という人間が仮面を外した日。
初めて彼女が二人と繋がった場所を、再び二人を連れて走り巡る。
「……ハハっ」
流れていく景色を横目に、灰音は記憶をなぞるようにハンドルを切る。
込み上げてくる感情を誤魔化すように、彼女は音楽の音量を上げ、東条の歌声に乱入した。
本島に入り、リゾート都市を突っ切り、驚き湧く宿泊者に手を振り、決戦の地となった北部基地に到着。
大量の血肉はトレントに食われ、基地は緑に呑み込まれている。
しかし並べられたトラックのバリケードや、爆発で抉れた地面からは、まだ硝煙と血の香りが漂ってくる。
ノエルは防空壕の上に登り、放置されて蔦だらけになった機関銃や迫撃砲を撫でて、懐かしの景色を見渡した。
「桐将くん、これも食べる?」
「んぁ〜。ふんふん、おっ、うま!」
「んまんま。……ん」
「バゥワ!」「ガゥ!」「クゥン」
青空の下、並んで昼飯を食べる三人と、その周りでくつろぐボスシーサー一行。
今年の夏は、まだ始まったばかりである。




