灰音・1
『確認完了。これより帰還する』
横に並んだ偵察機を一瞥し、ネロは慣れたように鼻息を吐く。
室内から格好つけてジェスチャーを送った東条に、パイロットもおでこの前で軽く二本指を振ってくれる。東条は離れていく偵察機を見ながら、デジャビュ? と既視感を覚えるのだった。
「パイロットさんも大変だよね〜。いちいち見に来ないといけないなんて」
「誰のせいだ?」
「あ、僕か〜」
そんな彼の隣に座っていた灰音が、てへっと舌を出す。
「でも桐将くんだって、僕のこと言えないでしょ? イギリスから馬持ってきたんだし」
「それはまぁ、仕方なかったんだよ。いいハンターってやつは、動物に好かれちまうからな」
「大地を踏み締〜め〜て〜♪」
「大地を踏み締〜め〜て〜!」
「「大地を踏み締っめ〜て〜、踏み〜締〜め〜て〜!」」
ノリと勢いで歌い出す二人。前のソファで眠っていたノエルがうるさそうに寝返りを打ったのを見て、二人は((シー))と口に人差し指を当てた。
「最近ノエル頑張ってるからな〜、お母さん少し心配かも。ねぇあなた?」
「認知はしないぞ。初めての大規模イベントだし、張り切ってんだろ。頑張らせてやればいいさ」
「それもそうだね。我が家の教育方針は、伸び伸び自由に健康に! だからね!」
「初耳ではあるな」
「にしても。……はぁ〜、見てよあの寝顔。天使だよ天使。蛇天使」
「堕天してるじゃねぇか」
パシャパシャと写メを撮る灰音を笑いながら、東条はお菓子袋を持ったまま眠りこけるノエルを見つめる。
「……でも良かったのか?」
「ん〜? 何がさ?」
「今回の旅行の主役はお前だろ? ノエルがいたら、たぶん二人でゆっくりはできないぜ?」
「まぁ確かに」と人差し指を顎に当てた灰音は、どこか嬉しそうに東条の隣に座り直す。
「でもね桐将くん。僕がしたいのは、あの夏の再現なんだよ。君とノエルが僕を見つけてくれて、朝起きて三人で食料調達に行って、お昼にマングローブを探検して、夜は砂浜でキャンプファイヤーをして、ノエルが寝ちゃった後、君と星空を見ながらお酒を飲んで……。誰にも何にも縛られていない、あのゆったりと流れる時間を、僕はもう一度味わいたい。今の人生もすっごい楽しいけど、やっぱりその楽しさの器は二人なんだなってたまに思うのさ。君とノエルの二人がいて、ようやく僕の人生は成り立っているんだよ。桐将くんが欠けても、ノエルが欠けてもダメなんだ。二人一緒じゃないと意味がない。桐将くんと二人でイチャイチャしたいけど、それはノエルの目を盗んでやることであって、決してノエルを省いてやることじゃないんだ。僕は桐将くんのために生きているし、ノエルのために生きている。他に何もいらないけど、何をするにしても二人がいないとダメなんだよ。……どうだい? 愛だろう?」
穏やかに微笑む灰音の表情に、あの時の、ビーチで彼女を殺しかけた時の恐怖、いや、戦慄と陶酔に近い感情が蘇る。
そうだ。ここまで多くの試練や障害を一緒に乗り越え、親友以上の関係にもなったが、灰音という人間の根底が変わるわけじゃない。落ち着いたように見えても、この女はあの時から何も変わらず、狂ったように俺を、俺とノエルを愛し続けているのだ。
世界で唯一、神にすらできないであろう、俺の根源を捻じ曲げて愛を作った女。その事実だけで、俺が灰音を許し、婚約までして自分のものにしようとした理由には充分である。
……俺の女の趣味も、大概おかしいのかもしれない。
苦笑した東条は、トントンと自身の太ももを叩く。
「いつもはノエルがいるからな、今くらいしか空けてやれないけど」
「ん? あははっ、そんなキャラじゃないでしょ僕。それよりこっちの膝にどうぞ? 僕は甘やかす方が好きゃっ⁉︎」
無理やり灰音の体を倒した東条は、膝枕した彼女の顔を上から覗き込む。朱色に染まった頬と、ぎこちなく固まった表情を笑ってやった。
「……お、思ったよりも恥ずかしいね。これ」
「やめるか?」
「……やめない」
東条はフカフカのソファに座りながら、彼女の顎下を優しくくすぐる。
「んっ……んふふっ、ガウガウ〜」
「ァァァァァァァァ」
二人きりの時にしか見せない、完全に無防備な灰音。
誘うような目つきで犬の真似をする彼女に、危うく意識と理性が飛びそうになり、声にならない悲鳴が漏れる。
東条は天を見上げて心を落ち着かせ、膝の上でへそ天する犬に慈愛の微笑みを向けた。
「……本当に可愛いなお前」
「っ、……」
ストレートに好感情をぶつけてくる東条が新鮮で、灰音のいたずら心がくすぐられる。
今すぐ襲いたいという獣心を抱きつつも、灰音は目を瞑って心を落ち着かせ、健気な瞳で見つめてくる飼い主に慈愛の微笑みを向けた。
「ありがと、嬉しい。……頭撫でて?」
「へいへい」
東条はサラサラのショートヘアを堪能しながら、灰音は大きな手を堪能しながら、ノエルはそんな二人を薄めでジトーっと見つめながら。
「……」「……」
「……続けて」
一時間後。
砂浜に降り立ったネロから、三人が滑り降りる。
耳心地の良い波のさざめきと、柔らかいパウダーサンド。青と白の高級ヴィラを前にして、三人は全てが新鮮だったあの頃を思い出していた。
そう、ここは宮古島。
東条とノエルにとっては約二週間。灰音にとっては半年近くお世話になった、懐かしの家である。
「いつもありがとね〜。ネロもゆっくりしてくでしょ?」
「ゴルルゥ」
「あははっ、くすぐったいって〜。ここら辺は人も来ないから、好きに過ごしていいよ」
灰音に頬ずりするネロを見て、東条は感心する。
あんな甘え方、ノエルにも紗命にもしないからな、やっぱりネロの親は灰音ってことだ。
「ネロありがとなー」
「ん。褒めて遣わす」
「ゴルルゥ〜」
ザブザブと海に入って水浴びをするネロに礼を言い、三人は荷物をヴィラに運ぶ。
「ただまー」
「「おかえりー」」
「おぉ、めっちゃ綺麗じゃん」
「ボスさんが定期的にお掃除の人送ってくれてるんだって。僕達がいつでも帰って来れるように」
「もうやってることお父さんじゃね?」
「ふふっ、ね」
ソファに荷物を置いた灰音は、どこか嬉しそうに伸びをする。
「どうせ本州行くし、藜に土産の一つでも買っとけばよかったな」
「いいでしょ。僕達が来るだけで喜ぶと思うよ、あの人」
「間違いないな」
「マサ! 灰音! 海!」
いつの間に着替えたのか、奥の部屋から水着と浮き輪とシュノーケリングと網とクーラボックスを装備したノエルが走ってくる。
シュコー、シュコーと跳ね回るノエルを見て、二人も顔を見合わせて吹き出す。
「だな! 行くか!」
「あ、あれやる? 誰が一番美味しそうなお魚取れるか勝負!」
「やる! やる!」
「となれば、笹食ってる場合じゃねぇっ」
「ゴー!」
「あっちょっ⁉︎ 待ってよ! 僕まだ着替えてなっ」
「ヒャッハー!」
走りながら服を脱いだ東条が、全裸で玄関から飛び出していく。
その尻を追うノエルの背中を笑いながら、灰音も急いで水着に着替えるのだった。
「あんま沖まで行くなよー」
「潮の流れは怖いんだからね〜」
「んー」
ビーチで休んでいる二人に手を振り、ノエルは銛を片手に潜水する。
斑ら模様に差し込む光に照らされながら、カラフルな珊瑚礁トレントの間を抜け、魚の群れを追っていく。
一ヶ月ほど前までイカれた海にいた彼女にとって、沖縄の南国はとても静かで落ち着く場所であった。
「……ん?」
二人の忠告を既に忘れていたノエルは、暗い海の底を見つめながら立ち泳ぎする。
「ぅお」
直後伸びてきた触手に手足を絡め取られ、一気に海面まで押し上げられた。
盛大に海面から出てきた巨大イカを眺めながら、東条と灰音はアイスクリームを齧る。
「でっけー」
「あれは食べきれないね〜」
「うぉお、うおお、助けてーわぷっ」
「ちょっと交換しようぜ?」
「いいよ。はい、あ〜ん」
「あーん。うまっ」
「でしょぉ」
「助けてー、ぶぇっぶぇっぶえっ」
ノエルの間の抜けた悲鳴をBGMに、東条は巨大イカを見て溜息を吐く。
「デカい触手は腹いっぱいなのによぉ」
「あはは、見たばっかりだもんね。……ノエルのお姉ちゃん、僕も会ってみたいなぁ」
「お姉ちゃんって言っても、自称だけどな。性格はノエルよりガキっぽいぞ?」
「可愛いじゃん?」
「ハハっ、どうだか」
「ネットでも大人気らしいじゃん? 一部では既にファンクラブもあるとか」
東条もそれは知っていた。
ペルルの類稀なる暴虐性は、一部の界隈から途轍もない人気を集めている。天然物のメスガキが現れたと、世の紳士の間では大騒ぎになっているのだ。
「いやだから日本でだけだって! この国やっぱりおかしいんだよ!
仮にも国何個も滅ぼして、人類文明を海に沈めようとした張本人だぞ? 何でお祭り騒ぎになれんだよ⁉︎ 俺聞いたぜ? 世界中が阿鼻叫喚して緊急事態宣言まで出してたのに、日本だけ俺が終わらせた翌日には、皆普通に出社したりいつも通りの街に戻ってたんだろ⁉︎」
「あー、そういえば確かに。僕もヘアサロン行ったね」
「イカれてんだろ⁉︎ 人類が滅びるとこだったんだぞ⁉︎ 人類が!」
「うん。今や僕の旦那様は救国の英雄だからね。鼻が高いや!」
「んん〜違くて‼︎ そうじゃなくて! 神話の邪神だろあんなもん! ファンクラブって大丈夫なのかそれ? 変な宗教じゃねぇだろうな? ペルルを崇拝する怪しい宗教団体が多発してるって、今アメリカでも結構問題になってんだぞ?」
「あ〜、あそこクトゥルフ神話発祥の地だもんね」
巨大イカと大蛇の怪獣大戦争を眺めながら、東条はレジャーシートの上に寝っ転がる。
「ただでさえ廻星教なんてダルい団体が世間賑わしてんのに、これ以上は国も勘弁してほしいだろ」
「あはは、……あの猫女ね〜」
灰音の笑顔に若干の影が落ちる。
「僕あの子嫌いだから、もう連れてこないでよ?」
「俺だって嫌いだよ! 俺が好き好んであんな狂人と絡むわけないだろ?」
「でも可愛いじゃん。顔は」
「……まぁ、顔はな。っいででで!」
無言でつねってくる灰音を後ろから羽交締めにし、動けないようにする。
「顔の良さを打ち消して余りあるくらい狂ってんだよ、あいつは。俺らとは別の生き物と思った方がいい」
「そんな?」
「そんなだ。何でか俺には一切の害がないし、協力的だから生かしているだけで、もし敵対するようなら、今度こそ本気で殺すよ」
「でも強いんでしょ?」
「ムカつくほどな。初めて、本当に互角の奴と会ったよ」
どこか楽し気に笑う東条を見上げ、灰音の頬が膨らむ。
「っいででで⁉︎ 何⁉︎」
「デート中に他の女のことを考えるのは御法度だよ」
「ごめんて!」
とそこへ、激戦を制したノエルが、巨大な触手を一本引きずってビーチに上がってくる。
「おー、終わったか?」
「おかえりノエル〜」
「……二人とも薄情。ノエル助けてって呼んだ」
「えーマジで? ごめん聞こえなかったわ。にしてもデカい触手だな。本体は?」
「……。仲良くなったから、一本だけ譲ってもらった」
ムスッとした顔で触手差し出すノエルに、灰音が吹き出す。
「アハハっ、仲良くなったんだ?」
「ん。あのイカ遠くから旅行に来たって。ここ気に入ったから住んでいい? って」
「んー、別にいいんじゃない?」
「ん」
ノエルが海に向かって大きな丸を作ると、遠海でイカが同じポーズをする。
おもしろ。
「旅行ねぇ。やっぱりペルルの黒海が影響してんだろうな」
「ん」
「最近海洋モンスターが強くなってるってニュース? 海での事故も増えてるしね」
「そうそう」
「ん。でも厳密には強くなってるんじゃない。元に戻ってるだけ」
「と言うと?」
東条はバーベキューセットを運びながら、灰音はイカの触手を洗いながら、日向ぼっこをするノエルに話を促す。
「今まで海が安全だったのは、強力なモンスターがペルルに呼ばれてたから。皆ルルイエ周辺に集まって、力を蓄えてた」
「この前の戦争のために?」
「ん。でも負けたから、もうお疲れ様って返された」
「人間にもモンスターにもいい迷惑すぎるだろ」
「だってペルルだもん」
「納得だわ」
東条は笑いながらイカ焼きを作る。
「にしても、ペルルちゃんは凄いね。それって、海全域に命令できるってことでしょ? ノエルもそういうことできるの?」
「無理。地上にはたぶん、ノエルより強い生物まだまだいる。でも海で一番強いのは、間違いなくペルル。突き抜けた力には、誰も逆らわなくなる。その分ノエルのとこに使徒いっぱい来るから、ちょっとやだ」
「ハハハッ、間違いねえわ。にしても強すぎだけどなあいつ。危うく死にかけたし」
「海は万物の根源。生物も大地より海を恐れる。そういう正と負の概念が全部合わさって生まれたから、ペルルは強い。さすが長女」
「長女なんだあいつ。イカ食うか?」
「食う!」
「僕も欲し〜。ネロも食べるー?」
「グルルッ」
サーフィンをして、バナナボートで吹っ飛んで、最後のゲソを賭けてバレーボールを殴り飛ばす。
二面ではなく三面の円形フィールドの中で繰り広げられる、化物達の一対一対一。
砂を飛ばしてジャンプした東条に、二人は腰を落としてボールの軌道を予測する。
「オッラァッ‼︎」
グーパンで殴り落とされたボールを、灰音はレシーブすると同時に後ろに転がって威力を完全に殺す。彼女は真上に上がったボールを自分でネット前にトスしてジャンプ、東条のコートに向けて叩き落とす。
「よッ!」
「っ、」
直前で体の向きを変え、ノエルのコートにスマッシュを放った。
しかし横に飛んだノエルが、危なげなく足でボールをレシーブする。リフティングでボールキープしながら、トスからのボレーシュート。
灰音の胸トラップからの、オーバーヘット。
ノエルの胸トラップからの、踵落とし。
飛び散る砂と破裂音の応酬。東条は熱くなる二人を目に、ポリポリと頬を掻く。
「おーい、俺もいるぞー」
直後自分側のネットにトスを上げた灰音に、東条も即座に反応してレシーブの構えを取る。
ジャンプした灰音と、東条の目が交差する。
(いくよ)
(来い)
東条の視線と意識が完全に自分に向いた瞬間、灰音はジャンピングスマッシュの体勢から無理やり体を捻り、真横にトスを飛ばした。
「ッ⁉︎ くっ」
東条が反応すると同時に、ズダァン! とボールが砂にめり込む。
変人速攻を決めたノエルが、悔しそうな東条を「ふっ」と嘲笑った。
「ナイスノエル〜」
「いぇい」
「テメェら……」
ボールを掴んだ東条の周囲に、漆黒の球がポツポツと現れ始める。
それを見たノエルの足元から、樹木がワサワサと生え出す。
バチバチと髪を揺らめかせる灰音が指笛を吹くと、彼女の隣にネロが盛大に着地する。
「……第二ラウンドといこうか」
「上等」
「ハハッ。ネロ、二人にブレス」
横薙ぎの火炎放射を皮切りに、超次元バレーボールが始まった。




