呪いの力
ダンジョンの中は、相変わらず殺伐とした空気に満ちていた。
湿った岩肌、薄闇の通路、どこからともなく漂ってくる血と腐臭のような臭い。ここは決して、一人で足を踏み入れていい場所じゃない。
ダンジョン――それは本来、一定以上の実力を持つ者か、教師の許可を得た者だけに立ち入りが認められる危険地帯だ。
魔物が徘徊し、地形は複雑に入り組み、何かあっても救援が間に合わないことも珍しくない。未熟な者が単独で潜れば、命を落とす可能性のほうが高い。
だが、魔法を持たない俺には特例として、単位取得の手段としてダンジョンへの立ち入りが許されていた。
もっとも、それは配慮なんかじゃない。
おそらく学校側にとっては、俺みたいな存在が情報も救助も届きにくい場所で死んだところで、何の問題もないというだけの話なのだろう。
「今いるのは、まだ第三階層か。三級のデビル・ビーストが出るのは第四階層から……いや」
足を止め、薄闇の奥を見据える。
「少し背伸びして、第五階層まで行ってみるか」
※ ※ ※
第五階層までの道のりは、思っていたよりもずっと楽だった。
この魔法学校に入学してからの一年、俺はほとんど毎日のようにこのダンジョンへ潜ってきた。正規の攻略法なんて知らないが、その代わりに、遠回りになる道と近道、危険な場所と比較的安全な場所くらいは、嫌でも身体に叩き込まれている。
その結果、普通なら五日ほどかかるとされる第五階層に、俺はわずか五時間でたどり着いていた。
第五階層。
ここまで来ると、地上との連絡もほとんど期待できない。冒険者も、学校関係者も、めったに立ち入らない領域だ。
つまり、誰の目もない。
「さてと……ここなら、アレを使っても大丈夫そうだな」
俺は一人で呟きながら、自分の髪を一本だけ抜き取った。
そして、それを無造作に地面へ落とす。
髪の毛が石床に触れた、その瞬間だった。
じわり、と。
まるで血が滲むように、紫色の光が地面へと広がっていく。複雑怪奇な紋様が幾重にも連なり、やがて巨大な呪術陣を描き出した。
禍々しく、不気味で、それでいてどこか神聖ですらある光景。
その円陣の中心から、ゆっくりと二つの影が姿を現す。
俺には魔力がない。
当然、魔法も使えない。
だが――呪術なら使える。
この理不尽で、不条理で、魔法だけがすべてを決める世界で。
俺だけが唯一、呪いの力を行使できる人間として生まれた。
「お久しぶりです、ウィリス様」
先に口を開いたのは、背中まで流れる銀髪を揺らした女の眷属だった。
整った目鼻立ちに、凍えるような冷たい美貌。けれど、その声音には主へ向ける絶対の忠誠が滲んでいる。
アビス。
呪いの力を宿した、俺の眷属の一人だ。
「またこうして呼び出していただけるなんて……感銘です! 感激ですっ!」
もう一人は対照的だった。
目をきらきらと輝かせ、勢いよく俺に抱きついてくる。肩口で揺れる金髪と、犬みたいに懐っこい笑顔がやけに目立つ。
ランカ。
同じく、呪いによって俺に従う眷属の一人。
静と動。
性格はまるで正反対だが、どちらも俺の力の一部であり、誰にも知られてはならない秘密だった。
「ランカ、苦しい。離れろ」
「えへへ、嫌です。だってウィリス様が久しぶりに呼んでくれたので」
「つい昨日も呼んだだろ」
「昨日と今日では尊さが違います!」
胸を張って何を言ってるんだ、こいつは。
呆れていると、アビスがすっと一歩前に出る。
「ランカ、主の腕に胸を押しつけるのはやめなさい。見苦しいです」
「はぁ!? 押しつけてませんー! たまたまですー!」
「たまたまで、そこまで密着するわけがないでしょう」
「アビスこそ、さりげなくウィリス様の隣の一番いい位置を取るのやめてもらえます!?」
「護衛として最適位置にいるだけです」
無表情で言い返しているが、アビスの立ち位置はどう見ても俺のすぐ横だった。しかも微妙に肩が触れそうな距離だ。
「……お前ら、仲がいいのか悪いのか分からないな」
「仲がいいわけありません」
「仲がいいわけないです!」
声が綺麗に重なった。
そこだけ息が合っているのが余計に腹立たしい。
「ラブラブなご主人大好き選手権なら、わたしの圧勝ですけど!」
「黙りなさい、犬女」
「銀髪すました女に言われたくありませんー!」
「よし、もういい。仕事だ」
俺が短く言うと、二人はぴたりと口を閉ざした。
どれだけ騒がしくても、命令には絶対に逆らわない。そのあたりだけは、本当に優秀だ。
「アビス、ランカ。いつも通りだ。周囲の三級以下は全部狩る。騒ぎは最小限、痕跡もできるだけ残すな」
俺が指示を出すと、アビスは静かに胸へ手を当て、ランカは尻尾でも振りそうな勢いで身を乗り出した。
「承知しました、ウィリス様」
「はいっ! 今日は何体でも殺してきます! ウィリス様のためなら百でも千でも!」
「千はいい。課題の必要数を超えて無駄に目立つな」
ぴしゃりと言うと、ランカはしゅんと肩を落とした。
「うう……ウィリス様に怒られました……」
「怒られてません。注意されただけです」
「アビス、なんでちょっと嬉しそうなんだよ」
「気のせいです」
即答だった。
そのくせ、ほんの僅かに口元が緩んでいる。自分だけ冷静に命令を受けたことが嬉しいらしい。面倒くさい。
次の瞬間、二人の姿が掻き消える。
ただ速いだけじゃない。呪いで存在の輪郭そのものを薄くしている。魔力探知にも引っかからない、俺の眷属だけが使える隠形だ。
その直後だった。
通路の先から、獣の断末魔が一つ。
続いて、二つ、三つ。
鈍い肉の裂ける音が、静かな第五階層に淡々と響いていく。
俺は慌てず、学校から支給されている記録結晶を取り出した。
討伐対象の魔物を一定数以上、学生本人の支配下にある戦力で仕留めれば、単位として自動記録される仕組みだ。魔法至上主義の学校らしく、こんな道具だけは妙に精巧だった。
淡く光る結晶面に数字が浮かぶ。
三級デビル・ビースト討伐数――七。
十二。
二十一。
数分で、この調子だ。
「相変わらず、手際がいいな」
俺が呟くと、背後の闇からアビスが音もなく現れた。銀髪にも服にも血が一滴もついていない。
「右手側の大通路に群れがいましたので、先に処理しておきました。ランカは左側で遊……いえ、討伐を続行中です」
「今、遊ぶって言いかけたな」
「気のせいです」
無表情のまま言い切るあたり、図太い。
その瞬間、左奥からひときわ大きい爆音が轟いた。岩壁が揺れ、細かな砂がぱらぱらと落ちてくる。
「あーっ! ごめんなさーい! 一体だけちょっと弾けましたー!」
遠くから聞こえてくる間延びした声に、俺は額を押さえた。
「最小限って言っただろ……」
「申し訳ありません、ウィリス様。今度きつく躾けておきます」
「おい待て。お前、その言い方だと妙な方向に喜ぶぞ」
「えっ、ウィリス様が直々にお仕置きを……!?」
がさがさと瓦礫の向こうからランカが顔だけ出した。
どういう耳をしてるんだ。
「違う。だから戻って仕事しろ」
「はいっ! でも今の“お仕置き”発言はメモしました!」
「してないで狩れ!」
叫んだ直後、また向こうで断末魔が増えた。
だが、そのおかげで討伐数は一気に跳ね上がる。
記録結晶の表示は三十七、四十四、五十へと到達した。
本来なら、これで今日の課題は達成だ。
ここで引き返してもいい。
それでも、俺は結晶をしまわなかった。
第五階層の空気が変わっていた。
ねっとりと重く、肺に絡みつくような圧。魔物の瘴気にしては濃すぎる。壁面を覆う苔が黒ずみ、床のひび割れから濁った蒸気が漏れている。
「……来るな」
アビスの声がわずかに低くなる。
普段は冷静な彼女が、僅かに警戒をにじませた。
次の瞬間、通路の先の闇が、ぐらりと揺れた。
現れたのは、二本の巨大な角だった。
続いて、岩のような筋肉に覆われた漆黒の巨体。全長は三メートルを優に超え、両腕は丸太のように太い。牛頭に似たその化け物は、口から白い息を吐きながら、床を砕いて一歩ずつ近づいてきた。
「……一級災害種、《冥角鬼バロウズ》」
アビスが即座に名を告げる。
学校の教材で一度だけ見たことがある。第五階層どころか、本来は第七階層以降で確認される怪物だ。学生が遭遇すれば、逃走を最優先。教師でも単独討伐は推奨されない。
だが、俺はむしろ口元を緩めた。
「ちょうどいい」
「ウィリス様?」
「三級五十体じゃ、せいぜい及第点止まりだ。けど一級討伐なら話は別だ」
この学校は魔法しか見ない。
だからこそ、記録として残る結果だけは利用価値がある。
一級を落とせば、今日一日どころか、下手をすれば一ヶ月分の最大単位すらまとめて叩き取れる。雑用係の無能に与えるには過剰すぎる成果だ。
もっとも、連中はどうせ「偶然」だの「誰かの手柄を盗んだ」だの好き勝手に言うだろう。
なら、それでいい。
今はまだ、牙を隠しておく。
「アビス、ランカ。手を出すな」
「えええっ!?」
いつの間にか戻ってきていたランカが、あからさまに不満の声を上げる。
だが俺は、巨体を睨んだまま言葉を重ねた。
「これは俺がやる。お前たちは周囲の結界維持。瘴気も衝撃も外に漏らすな」
「……御意」
「はーい……でも危なくなったらすぐ助けますからね!」
ランカがそう言って俺の袖を軽く掴む。
珍しく、その声にはふざけた調子が少なかった。
「信じてないわけじゃないです。でも、ちょっとだけ心配なので」
その横で、アビスも静かに膝をつく。
「ご武運を。ですが、無理だと判断した瞬間は、命令違反でも介入します」
「お前までそう言うのか」
「主を失う趣味はありません」
淡々とした口調のくせに、言っている内容は思ったより重い。
俺が返す言葉に迷った、その一瞬だった。
「……帰ったら、褒めてくださいね」
ぽつりと、ランカが言う。
アビスも何も言わないまま、ほんの少しだけこちらを見上げた。その目は、否定していなかった。
思わず息が漏れる。
「分かった。終わったら、二人ともちゃんと褒めてやる」
「ほんとですかっ!?」
「……承知しました」
片方は満面の笑み。もう片方は無表情を装いながら、耳が少しだけ赤い。
こんな状況で何をやってるんだ、俺たちは。
だが、不思議と悪くなかった。
冥角鬼バロウズが咆哮した。
音圧だけで空気が震え、通路の壁が剥がれ落ちる。直後、巨体に似合わぬ速度で突進。床石を砕きながら、必殺の勢いで拳を振り下ろしてきた。
俺は避けない。
右手の人差し指を噛み、滲んだ血を宙へ払う。
「呪術――《縛界・黒棘》」
血が散った空間から、無数の黒い杭が出現した。
一本一本が影を凝縮したような質量を持ち、四方八方から冥角鬼の身体へ突き刺さる。筋肉を裂き、骨を穿ち、巨体を空中で磔にした。
だが、一級災害種はそれでも止まらない。
絶叫と共に杭を引き千切り、瘴気を爆発させる。普通の術師なら、その時点で術式ごと押し潰されるだろう。
けれど。
「遅いな」
俺はすでに、その懐へ入り込んでいた。
魔法が使えないからこそ磨いた体術。
ダンジョンで一年、死ぬように鍛えた剣。
そして、それを何倍にも底上げする呪い。
腰の剣を抜く。
魔剣でも名剣でもない、支給品の安物。だが刀身には、俺の黒い文字が這っていた。
「《呪装・断罪》」
一閃。
剣は冥角鬼の右腕を根元から斬り飛ばした。
紫黒の血が噴き上がり、遅れて巨体が悲鳴を上げる。続けざまに左脚。肩。角。再生が始まるより速く、再生の核を刻み潰す。
冥角鬼はなおも俺を噛み砕こうと大口を開いた。
なら、その口ごと終わらせるだけだ。
「呪術――《喰牢》」
俺が掌を向けると、冥角鬼の足元に巨大な口のような闇が開いた。
呪いを呪いで食う術。暴れ狂う一級の瘴気を、底なしの黒が一滴残らず飲み込んでいく。巨体は抵抗する暇もなく膝まで、胴まで、首まで沈み――最後には核ごと噛み砕かれた。
静寂。
残ったのは、ひび割れた床の中央に転がる、拳大の黒紅色の核だけだった。
「終わった……?」
ランカがぽかんと口を開ける。
アビスは最初から分かっていたように、静かに目を伏せた。
「さすがです、ウィリス様」
俺は剣を振って血を払い、核を拾い上げる。
手の中で重く脈打つそれは、間違いなく一級災害種の討伐証明だ。
直後、記録結晶が眩く光を放った。
表示が書き換わっていく。
三級デビル・ビースト五十体討伐――達成。
一級災害種討伐――確認。
本日取得単位――上限到達。
思わず、笑みが漏れた。
「これで最大単位か」
明日、学校の連中は目を剥くだろう。
無能、役立たず、出来損ない。散々そう呼んできた奴らが、信じられないものを見る顔をする。
まだ足りない。
こんなものは、ほんの始まりにすぎない。
魔法だけが絶対だと信じているこの世界に、俺は呪いで穴を穿つ。
見下してきた連中を、上から踏み潰せる位置まで這い上がる。
そして、いつか必ず証明してやる。
最強の力は、魔法なんかじゃない。
「帰るぞ」
俺が踵を返した瞬間、予想通りランカが嬉しそうに腕へ抱きついてきた。
「約束ですからね! 褒めてください! いっぱい! できれば撫でてください!」
「調子に乗るな、歩きにくい」
「えへへ、でも怒ってないですよね?」
その反対側に、今度はアビスが無言で並ぶ。
何も言わないくせに、さっきより距離が近い。
「……アビス」
「何でしょう」
「お前も何か言え」
「では一つだけ。帰還後の褒賞は、平等にお願いします」
淡々としているが、要するに自分も褒めろということだ。
こいつら、本当に戦闘中との落差が酷い。
「分かったよ。二人ともちゃんと褒める」
「やったー!」
「……ありがとうございます」
第五階層の闇を背に、俺は二人を連れて地上への道を歩き出した。
片腕には無邪気に絡みつく温もり。隣には無表情のまま寄り添う静かな気配。
手の中の一級核は、ひどく冷たかった。
なのに今は、その冷たさだけじゃない別の熱が、妙に鬱陶しくて――少しだけ、悪くないと思ってしまった。
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