プロローグ
もしこの世界から魔法が消え去る日が来るのなら、俺はきっと、誰よりもその世界を歓迎する。
魔法絶対主義――それが、この世界の掟だった。
魔法を持つ者は尊ばれ、持たぬ者は人として扱われない。
権利も、尊厳も、未来さえも。魔法を持たないというだけで、すべてを奪われる。
そして俺は、この世界でただ一人――魔法を持たない人間として生まれた。
※ ※ ※
「おい、見ろよ。まだアイツ、雑用やらされてるぜ」
「当然だろ。魔法を持たずに生まれた出来損ないなんだから」
「剣術も半端、魔法もなし。あれでよくこの学校にいられるよな」
背後から飛んでくる、悪意に満ちた嘲笑。
俺はそれを聞き流しながら、グラム王国が運営する魔法科学校の石畳の廊下を歩いていた。
生まれつき、俺には魔法がなかった。
この世界では、たいていの子どもが五歳を迎える頃に魔法を発現する。火を灯す者、水を操る者、風を纏う者。力の形はそれぞれ違えど、誰もが必ず何かしらの魔法を授かる。
だが、俺には何もなかった。
だからこの学校では、生徒からも教師からも、俺は一様にこう呼ばれている。
――役立たずの無能。
もっとも、そんな俺にも課題だけは平等に与えられる。
両手に抱えた大量の紙束。その一番上には、俺の名前がはっきりと記されていた。
ウィリス・アストレア。
アストレア――それは王国でも指折りの魔法名門貴族の姓だ。
強大な魔法を代々受け継ぎ、国家にも深く関わってきた誉れ高き家系。そんな一族に生まれながら、俺だけが魔法を持たなかった。
その時点で、俺に居場所などあるはずがない。
家でも、学校でも、与えられる役目は雑用ばかり。無能の烙印を押されたまま、それでもこの国の制度上、どんな人間であれ魔法科学校に籍だけは置かなければならなかった。
「お、ウィリスじゃん!」
そんな俺にも、この学校でたった一人だけ、普通に声をかけてくれる相手がいる。
アイリス・フィッツ。
アストレア家と縁の深いフィッツ家の令嬢であり、誰もが認める才女。
そして、俺の幼馴染でもあった。
「こんにちは、アイリス」
声をかけられ、俺は足を止める。
アイリスは陽光を受けて輝く金髪を揺らしながら、こちらへ駆け寄ってきた。明るい笑顔はいつも通りで、それだけで周囲の空気が少しだけ柔らかくなる気がした。
「ねえ、今日もダンジョンで課題なの?」
「そうだよ。俺みたいに魔法を持たない人間は、そこでしか単位を稼げないからね」
自嘲気味に答えると、彼女はあからさまに頬を膨らませた。
「またそうやって自分を下げる。ウィリスには魔法がなくても、ちゃんといいところがあるのに」
「いいところって、例えば?」
「えっ」
軽く聞き返しただけなのに、なぜかアイリスは言葉に詰まった。
さっきまで勢いよく怒っていたくせに、急に視線を逸らし、指先で制服の裾をいじり始める。
「そ、それは……その……優しいところとか、ちゃんと約束守るところとか、あと、昔から私が転びそうになるとさりげなく支えてくれるところとか……」
「ずいぶん細かいな」
「う、うるさいっ。見てれば分かるの!」
顔を赤くしたままそう言い切る。
相変わらず、優しい。こんな俺にまで、変わらずまっすぐな言葉を向けてくれる。
だからこそ、余計に眩しい。
しかも本人は無自覚なのか、そう言いながら俺の制服の襟元を勝手に整え始めた。
指先が首筋に触れて、ほんの少しだけ身体が強張る。
「……アイリス、近い」
「え、あっ……ご、ごめん!」
慌てて手を引っ込める仕草までいちいち目立つ。
そのせいで、近くを通った何人かの生徒が妙ににやついた顔でこちらを見ていた。
「またフィッツ様、あの無能に構ってるぞ」
「幼馴染ってだけであそこまで世話焼くか普通?」
「もしかして本当に――」
「聞こえてるからやめろ」
俺が低く呟くと、生徒たちは肩をすくめて去っていく。
その隣で、アイリスはますます顔を赤くしていた。
「べ、別に変な意味じゃないからね!? 昔からほっとくとウィリス、すぐ無茶するし!」
「分かってるよ」
「ほんとに?」
「ほんとに」
そう返すと、彼女は少しだけ安心したように息をついた。
その表情が、昔と何も変わっていなくて――少しだけ胸の奥が温かくなる。
そんなふうに思った矢先、俺たちの前に一人の男が立ち塞がった。
「おいおい、アイリス。まだそんな奴の相手をしてるのか?」
黒髪をかき上げながら、鼻で笑う。
ケレン・アレス。名家アレス家の嫡男であり、この学校でも上位の実力を誇る男だ。
その背後には、取り巻きらしい男女が何人も並び、そろって俺を見て薄ら笑いを浮かべていた。
「いずれ俺の嫁になる女が、何をしてるんだよ」
その言葉に、アイリスの表情が一気に曇る。
「は? 私、別にあんたの嫁になるなんて言ってないんだけど」
「忘れたのか? お前の父親と俺の父親の間で、そういう話になってるだろ」
「それは親同士が勝手に決めたことじゃない! 私は認めてない!」
「認める認めないの問題じゃないんだよ」
ケレンは肩をすくめると、まるで自分の所有物でも扱うみたいに、アイリスの顎へ手を伸ばした。
その瞬間、アイリスは露骨に身を引いた。
けれど、完全には避けきれない。
胸の奥がざらつく。
だが、俺は動けない。
ケレンはそのまま俺に視線を移し、見下した笑みを浮かべた。
「こんな落ちこぼれのどこがいいんだかな」
吐き捨てるようにそう言い残し、ケレンたちは去っていく。
取り巻きたちの嘲るような笑い声だけが、その場にしばらく残った。
「ちょっと! ウィリス、なんで言い返さないの!?」
悔しさを隠しきれない声で、アイリスが俺を見る。
その目は怒っているのに、同時に泣きそうでもあった。
けれど、俺はただ小さく息を吐いた。
「俺が何を言ったところで、結果は変わらないよ」
「でも……!」
「俺は魔法を持たない人間だ。ケレンからすれば、何を返したって負け犬の遠吠えにしか聞こえない」
その現実だけは、嫌というほど思い知らされてきた。
言葉に力が宿るのは、力ある者だけだ。この世界では、それが当たり前だった。
アイリスは言い返せず、唇を噛む。
それでもなお何か言おうとして、でも結局言葉を飲み込んだ。
代わりに、彼女は俺の袖をそっと掴む。
「……私は、そう思わない」
小さな声だった。
けれど、さっきの誰の嘲笑よりも強く、胸に残った。
「ウィリスは負け犬なんかじゃない。ちゃんと、すごいところだってある。今はみんなが見てないだけで……そのうち絶対、分かるから」
まっすぐな瞳だった。
そんな目で見られる資格なんて、今の俺にはないはずなのに。
「それじゃ、俺はダンジョンに行ってくる」
「え、ちょっと、話を逸らさないでよ」
「逸らしてない。今日中に最低でも三級の魔物を五十体、討伐しないといけない」
「五十体!? 今日中に!? 無茶すぎるでしょ、それ!」
「でも課題だから」
短く答え、俺は腰の剣の位置を直した。
魔法を持たない俺に許された、唯一の手段。みじめでも、泥臭くても、それに縋るしかない。
すると、アイリスは少し考え込むように目を伏せ、それから意を決したように顔を上げた。
「じゃあ、帰ってきたら報告して」
「報告?」
「そう。何体倒したか、ちゃんと私に最初に教えること。約束」
「なんだそれ」
「いいから。幼馴染命令」
「そんな命令権、初めて聞いたぞ」
「今作ったの。ほら、早く返事」
妙に得意げに言われて、思わず苦笑が漏れる。
こういうところは昔から変わらない。落ち込んでいる空気を、自分勝手なくらい明るく塗り替えてくる。
「……分かったよ。覚えてたらな」
「覚えててよ!?」
「努力はする」
「もうっ……絶対だからね!」
頬を膨らませる彼女に背を向けながら、俺は軽く手を振った。
その瞬間、背後からまた声が飛んでくる。
「あと、無事に帰ってきて!」
足が、一瞬だけ止まりかける。
「約束破ったら、ほんとに怒るんだから!」
振り返らないまま、俺は小さく息をついた。
「善処するよ」
「そこは“する”って言ってよ!」
そんな抗議の声を背中で聞きながら、俺は歩き出す。
廊下の先、ダンジョンへ続く薄暗い通路は相変わらず冷たい。
それでも――ほんの少しだけ。
さっきまでより、足取りは軽かった。
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