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私がヒロを妃にすると決めた時、最も反対したのは魔女だ。魔女はヒロを元の世界へ帰すべきだと強く主張した。異世界からやって来た世間知らずの小娘に、皇妃の務めは荷が重すぎる。真実少女を愛していると言うのなら、彼女のためにも手放してやることが優しさだと。
―――もっともな正論だった。
我がベルーシ帝国において、皇妃とは後宮で皇帝の訪れを待ち、世継ぎを生むだけの存在ではない。政治に介入する権限はないものの、皇帝と同等に表舞台へ立ち、様々な儀式や式典に参加し、あらゆる公務をこなさなければならない。
しかし、当時のヒロは十七歳という年齢にしては幼く、この世界の同年代の者に比べて精神的にひどく未熟だった。恐らくは、争いのない平和な世界で甘やかされ、優しい人々に囲まれて大切に育てられたのだろう。そんな彼女が不慣れな異世界において、突如背負わされた皇妃の重責に苦労するであろうことは想像に難くなかった。
だが、私は初めて自ら強く欲した少女を、今更手放すなど考えられなかった。身勝手にも己の望みを優先し、ヒロを側に置くことを選んだ。
―――だから、これはその報いなのだろう。
「ヒロ」
届くはずもないと知りながら、吐息だけでその名を口にする。会議室へ向かう途中の廊下からは、隣接する図書館内の様子を垣間見ることができる。私は景色を眺めるふりをして立ち止まり、中庭を挟んだ向こう側に面する窓辺に注目した。そこにはいつもの定位置である長椅子に腰掛け、くつろいだ様子で本を読むヒロの姿があった。読書を趣味とするヒロは、公務のない休日は図書館で一人静かに時間を過ごしていることが多い。もちろん、少し離れた場所に護衛が目立たぬように控えているが、元々交流関係の少ないヒロは、私と距離を置くようになってからますます孤独な時間を好むようになり、自分の殻に閉じ籠るようになっていた。
「あ………」
その時だった。不意に、ヒロの側へ若い男が近づいていくのが見えた。その制服姿から見て、図書館の職員だと分かる。気付いたヒロが顔を上げて微笑むと、純朴そうな顔をしたその青年は、どこか照れくさそうに俯きながら、腕に抱えた数冊の本をヒロに手渡した。笑顔で本を受け取ったヒロは、その中の一冊を開いて見せ、青年に何事かを話しかける。すると、青年は開かれた頁を覗き込み、ヒロもそれに続いて本に顔を近づける。
「―――っ」
限界だった。それ以上、二人の親しげな様子を見ていることができず、私は咄嗟に目をそらしていた。何のことはない、ヒロが読めない文字を訊ね、青年が答えを教えた。恐らくは、ただそれだけの些細なやり取りに、胸の奥がじわじわと昏い嫉妬で塗りつぶされていくのが分かる。かつて、ヒロに文字を教えるのは私の役目だった。この世界に来てヒロが苦労したことの一つは文字の読み書きだ。ヒロの世界とは形も文法も全く異なるという我が国の文字を、真面目な彼女は寝る間を惜しんで必死に勉強していた。夜更けの寝台の上、子供向けの教本を真剣な目で覗き込むヒロを抱き寄せ、その成長を見守る穏やかな時間がこの上なく好きだった。
―――あの頃に戻れたなら。
そう切実に願うと同時に、それは決して許されないことだと思う。ヒロを深く傷つけ、あのように心を閉ざさせたのは他の誰でもない、この私なのだから。
『側室を娶られてはいかがでしょうか?』
重臣の一人から告げられたその言葉。これにより、私達の関係は一変することとなる。
結婚から一年が過ぎた頃、ヒロが懐妊する兆しは未だ見えず、周囲の人間が密かに不満の声を上げていることは承知していた。とはいえ、ヒロはまだ若く、母体となるには不安定な時期にあり、悲観するのはあまりに早急すぎると私は反対した。しかしながら、異世界人のヒロを皇妃に迎えるため、魔女を後見人に据え、かなり強引な手を使ったこともあり、ヒロに対する国の上層部の見方は厳しいところがあった。このまま下手に私がヒロを庇い、臣下の提案を退け続ければ、彼女の立場はますます不利になっていくだろう。私は悩んだ末、本人に意向を尋ねることにした。
愚かにも、当時の私は側室の件を完全に否定していたわけではなかった。ヒロ自身は何も言わないが、周囲から寄せられる過度な期待と失望に神経をすり減らし、私の目が届かないところで密かに泣いていることを、彼女の侍女から報告を受けて知っていた。そのいじらしい姿に心が痛んだと同時に、ヒロを傷つける心ない者達に強い憤りを覚えた。ヒロと結婚したのは世継ぎを作るためではない。勿論、ヒロが産んだ子供は愛しく思うだろうが、例えこのまま子供ができなかったとしても、彼女に対する私の想いが変わることはない。だが、現実問題として考えれば、皇帝である私にとって後継者は絶対に必要な存在でもある。ならば、最悪の場合、臣下の勧め通り側室に産ませればいい。貴族社会ではよくあることだ。実際、私も父帝の側室の子である。あるいは、皇族の傍系から養子を迎えるという手段もある。今すぐではなくとも、もしもの時はいくらでも選択肢が存在する。だから、思いつめる必要はないのだと。そう、伝えたかった。
だが、私の口から『側室』という言葉を聞いた瞬間、ヒロの優しい顔が恐ろしいほどに凍りつき、私はひどく動揺した。この時、すぐにでも発言を取り消し、ヒロを強く抱き寄せて許しを請うべきだったと、思い出すたびに悔やまれる。私の前ではいつでも無邪気な笑顔を浮かべていたヒロが、初めて見せた氷のような青白い無表情に狼狽え、正常な判断を下せなかったのかもしれない。ヒロは最後まで無言で私の話を聞いた後、長い長い沈黙を経て、不自然なほどにこやかに微笑んだ。
『………わたしは、ソニエールの言葉に従います』
そう静かに告げたヒロの闇色の瞳は深い悲しみに濡れ、私に対する失望がありありと見て取れた。
それ以降、ヒロは心を固く閉ざし、私の存在を拒絶するようになった。とはいえ、私が名前を呼べば振り返り、手を伸ばせば大人しく腕に抱かれる。けれど、視線は頑なに伏せられ、重ねた肌は冷たく温度を失ったまま、心はどこまでも遠ざかる一方で。いっそ、大声で泣いて罵ってくれたなら、どんなに残酷な言葉も喜んで受け止めるのに。まるで良くできた人形のように悲しい微笑を浮かべたヒロは、怒りという感情さえ私に与えてくれることはなくなった。
愛されないのなら、いっそ憎まれたいと、そう願うほどに追い詰められた愚かな私は、やがて臣下に勧められるまま側室を娶った。ヒロでないなら、誰でも良かった。多産の家系から適当な娘を選ばせ、相手の顔もろくに見ず書類に判を押した。そして、私は完全にヒロの信頼を失ったのだった。
「………陛下」
背後に控える護衛から遠慮がちに声をかけられ、我に返る。思いの外、長く立ち止まっていたようだ。会議の時間が迫っていた。私は無言で頷くと、何事もなかったかのように歩き出す。最後にもう一度視線を窓辺に戻せば、そこにはすでにヒロの姿はなく、私の心は重く沈んだ。