18.涙の訳
「…それじゃあ、テレサ様。おやすみなさい」
そろそろ人々が寝静まろうかという夜の時間帯に、ジェシカはとある部屋の戸口に立って室内にいる人物に声を掛けていた。ジャスパーの妻であるテレサの話相手として、今日もたわいもない話をしていたジェシカ。部屋の暖炉の上にある大きな時計は、午後十一時を指し示していた。弾む話を切り上げて、部屋に戻って休むとテレサに告げた。
静かに扉を閉めて広い廊下を歩き始めたジェシカの背後から、不意に柔らかな声が掛けられた。
「ジェシカ…トールキンさん」
その声に促されるように振り向いたジェシカは、その人物を見て首を傾げた。
「ポール?」
二人いる王宮魔法使いの内、一番目の魔法使いであるポールが、いつも被っている覆いを外して微笑んだ。彼は今、私用で宮殿を開けているはずではなかったか。エドマンドからそう聞いていたジェシカは、不思議そうに彼を見やっている。そんなジェシカを優しく見つめて、彼は言った。
「チャールズが帰ってきたよ」
待ち望んでいたその言葉を突然耳にして、ジェシカは動揺を隠せずにビクリと身体を震わせて瞳を見開いた。
聞きたいことは沢山ある。けれども、どんな言葉も口から発せられることはなかった。その様子をじっと見つめていたポールは、ゆっくりと言葉を選ぶように口を開いた。
「…今は自宅にいるよ。いきなり王宮に連れてくるより、向こうの方が彼にとって良いのではないかと思ってね。大きな怪我はしていないようだけど、疲労が激しいようで衰弱している」
話を一言ずつ聞く度に、胸の鼓動は激しくなり息が浅くなった。
その時、廊下を慌ただしく掛けてくる音が響き、ポールの背後から一人の人物が姿を現した。
「ポール!」
見れば、そろそろ休もうかとしていたのだろうエドマンドが、白い襟付きの肌着と暖かな毛糸で編まれた紺色の上着を纏った姿で廊下を駆けてくる。ポールが、その姿に気を取られているうちにというように、ジェシカは踵を返して駆け出そうとした。
「お待ちなさい」
低く制するその声に、反射的にビクリと身体を震わせて思わず足を止めた。何を言われるのかと内心怯えながら、ジェシカはそろりと背後を振り返った。身体の左半身はエドマンドに向いてはいるが、右半身と顔はしっかりとジェシカに向いていた。焦げ茶色の瞳と視線が合うと、柔らかな笑顔を浮かべて彼が言った。
「あなたが走って家に行くよりも、もっと早い方法がありますよ」
「え?」
どういう意味だと聞き返すより早く、彼は右手で何やら複雑な文を金色の文字で宙に書き出した。そして、ふわふわとまるで蜘蛛の糸のような呪文に、ふぅと優しく息を吹きかけた。その呪文は意志を持ったようにジェシカに向かい、霧となって彼女を包んだ。半ば無理やりにして身体を押されるような感覚の末に、視界は霧に隠れて見えなくなった。霧が晴れた後、ジェシカは真っ暗な廊下に一人佇んでいた。
眼が闇になれるまで、しばし瞬いたジェシカは見覚えのある静かな家の中を見渡して、強張っていた表情を緩めた。そこは、彼女が育った懐かしい家だった。家の中は、チャールズが居なくなってからさっぱりと綺麗に片付けられたというだけで、以前と変わったところはない。が、先日ジェシカがやって来た時にはしっかりと閉めたはずの居間の扉が中途半端に開いていた。
――チャールズが帰ってきたよ。
ポールが言った言葉が頭をよぎった。
早まる鼓動を抑えて、物音を立てないようにそっと居間の扉へと近づいた。開いている扉の隙間から中を窺えば、台所と居間の間を仕切る台の近くに人影がある。
くたびれた外套を羽織る、背の高い人物。背中を向けて佇むために、顔は分からないがジェシカにはそれが誰だか直ぐにわかった。ふらふらと居間に入っていくと戸口に置かれた置物に彼女の身体がぶつかり、小さな音を立てた。
その音を耳にした人物が、ゆっくりと振り返った。
「…ジェシカか?」
汚れた外套を羽織り、今にも消えてしまいそうな彼が問いかけるように、しばしの沈黙の後にそう言った。
「…お父様」
滲んだ視界の先に移る人物にそう呟いて、腕の中へ思いっきり飛び込んだ。想いが溢れて言葉を伝えられない彼女を彼は優しく抱きしめていた。
穏やかな再会も、気を失ったチャールズのおかげで一変した。
半狂乱になるジェシカを落ち着かさせながら、エドマンドが医者を呼ぶべく踵を返した。そこに現れたのはポールで、役に立たないエドマンドとジェシカの代わりにチャールズを魔法で王宮へと運び出した。
「ここは…?」
目を覚ませば、見慣れぬ天蓋付きの寝台に寝かされていた。チャールズは、自身の自宅とは明らかに違う景色に戸惑って思わずそう呟いた。
閉めきられた薄い幕の向こうで、小さな会話をかわしていた人物がサッと幕の片側を捲って覗き込んできた。
「あぁトールキンさん、目を覚まされましたか。エドマンド様」
全く面識が無い、初老の男性に戸惑うチャールズを置き去りに、彼は広い部屋へと声を掛けた。その白髪頭の初老の後ろから、やや不機嫌そうなエドマンドがひょっこり顔を出した。
「…おはよう、チャールズ。君、帰って来て早々にぶっ倒れたんだよ…覚えてる?」
その言葉に、はてと首を傾げた。取りあえず身体を起こすべく、チャールズは思うように動かない身体に力を入れて頭をもたげた。
「あぁ、トールキンさん。そのまま…」
それを慌てて止めたのは、白衣を纏った初老の男性。怪訝そうに見つめるチャールズの代わりに、エドマンドが呆れたように答えた。
「しばらくの間は絶対安静だってさ。過労、極度の貧血、おまけに肺炎になりかけてた。医者である彼がそう言ったんだ」
その言葉を聞きながら、広すぎる寝台から脱出するべく、もぞもぞと身体を動かせていたチャールズは珍しげに男性を見やった。
「…医者?」
「そうだよ、王宮の医師団に所属する腕利きの内科医でね。君の主治医だから、彼の言うことを良く聞くんだよ?」
両手で数えきれない程の医師を持つ王宮での治療費は、一般人が一生働いても返せないような額だ。そのことに抗議しようと口を開いたチャールズの言葉を遮るように、荒々しく扉が開く音が部屋に響いた。
「いけません、ジェシカ様!」
ぱたぱたと走る足音を追いかけるように、焦った声がその後を追った。
「お父様っ」
何事だと戸口を見やる男三人の目の前に、寝間着姿のジェシカが息を上げて寝台へと駆け寄った。その後を困りきった衛兵が直立不動の体制でエドマンドを見やった。
「申し訳ありません、トールキン殿は絶対安静ですとお伝えしたのですが」
「構いやしないよ、面会謝絶っていう訳じゃないから。ありがとう、君は下がっていいよ」
そんな衛兵を見やりながから、エドマンドはひらひらと手を振って苦笑を漏らした。視線を寝台に戻せば、チャールズを甲斐甲斐しく世話するジェシカの姿があった。
「ジェシカちゃんも心配したんだ…これ以上、ジェシカちゃんを泣かせたら承知しないからね」
その様子を満足げに見やっていたエドマンドが、チャールズに釘を刺すように言った。そんなエドマンドを振り返ってジェシカは嬉しそうに笑い、チャールズはじっと彼女を静かに見つめた。
「…あぁ」
しばしの無言の後、瞳を閉じたチャールズが小さくそう答えた。
その年の冬は、とても穏やかなものだった。いつの頃かの懐かしい思い出が蘇るような日々が、いくつか過ぎた頃。
エドマンドが部屋を去る間際にチャールズに声を掛けた。
「今日は冷えるから、暖かくして寝るんだよ。それじゃあ、チャールズ。おやすみ」
「あぁ」
扉を閉めてからしばらく経って、彼が完全に去ったのを確認したチャールズは、そっと寝台を抜け出して手早く着替えた。すっかり身体の調子は良いというのに、なかなか寝台から出してくれない医者やエドマンドをすっかり警戒していたチャールズ。自身がそれほど重傷ではないと気付くのに、時間はかからなかった。
すぐ側にあるポールが新しく用意してくれた真っ黒な外套を羽織って、そっと部屋を抜け出した。美しい三日月が照らす暗い廊下を足音を立てずに早足で行く。ひっそりと静まり返った王宮は、不気味なほどだ。
明かりも灯らぬ暗い廊下をいくつも通り過ぎ、月光が照らす静かな階段を降りていった。
ひんやりと肌寒い空気が包む広い正面玄関を通り過ぎ、すぐ脇にある小さな扉を開いた。鮮やかなステンドグラスの天井が、月光を通して輝いている。分厚く大きな王宮の両扉はしっかりと閉じられているため、時間外の出入りの際はすぐ脇にある通常の大きさの扉を使う。
「…お父様、どこに行くの?」
そっと身体を滑り込まそうとしていたチャールズの背後から、小さな声が響いた。寝間着の上にゆったりとした長い上着を羽織っただけのジェシカが、背後の階段中ほどで立ち止まって彼を見やっていた。
「少し出掛けてくる…エドマンドには直ぐに戻るからと伝えてくれ」
そんな彼女に、扉を開け放したままそう言ってぎこちなく微笑んだ。チャールズをじっと見つめていたジェシカは、ゆっくりと階段を降りきると月光が差す玄関に降り立ち、彼の目の前に立ちはだかった。
「どうして、そんな嘘を付くの?」
びくりと身体を震わせたチャールズを見上げていたジェシカの瞳から、大きな雫がこぼれ落ちた。
「何故泣いているんだ?」
「何故って?お父様が、わたしを置いて行くからじゃないっ!…一人にしないでよ」
涙を流しながら、声を張り上げてジェシカが叫んだ。
「…好きなの。この想いはそんなに迷惑なもの?」
胸にすがりついて尋ねるジェシカを静かに見つめていたチャールズが、低く言い放った。
「…ジェシカには、もっとふさわしい相手がいる」
「それを決めるのはチャールズじゃないわ。わたし自身でしょう?結婚も、誰と一生を過ごすかなんて、誰にも決めさせやしないから」
強い意志を宿した瞳を向けて、そう言い放った。
「…わたしの事、好き?正直な気持ちを聞かせて。お願い」
幼い頃の面影を脱ぎ捨てた一人の女性を前に、彼が大きな溜め息を付いた。
「君を拾って育てると決めた頃、立派な女性に育て上げると心に誓った。あくまで、父と娘の関係だと言い聞かせて。…日々美しくなっていくジェシカを手放したくないと思ったのも、一度や二度じゃない。だけど、俺は君の保護者で、唯一の家族だ…」
そっとジェシカを抱きしめて、肩に顔をうずめた。
「好きだと分かったから、もう二度と会わない」
そっと呟いた彼の声が、まるで泣いているように聞こえた。




