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17.知らせ

その知らせは突然だった。


「ジェシカ・トールキン殿、ジャスパー殿下から昨日の夜に連絡がありました。チャールズ・トールキン殿が帰還されるとのことです」


一人残されたジェシカの面倒はエドマンドが。後見人として国王が立つことになった。城で面倒を見るという国王の申し出を有り難くも拒否した彼女だったが、年頃の女の子が一人で暮らすなどと、エドマンドが半ば強制的に城へとジェシカを連行した。それでも、週に一回は彼と暮らした家に戻ることが許された。

もしかしたら、彼がふらりと帰って来るかもしれない…そんな思いがあったからのかもしれない。思い出が詰まった薄汚れた赤煉瓦の家こそがジェシカの唯一の家であるから、エドマンドもあまり強く言えなかったのもある。


彼が居なくなった二年半はとても長かった。それこそ、毎日泣いて過ごした半年と抜け殻のように過ごした一年間は、辛くて辛くてどうしようもなかったと彼女は友人であるアリスにぼやいた事がある。


その日は、エドマンドと弟のヘンリーと共に、ロベルトとフランツの母であるテレサという女性に会いに来ていた。物静かなヘンリーとは直ぐに仲良くなったジェシカ。気さくに話が出来るまでになったのは、婚約の話は互いに時間を置こうということに落ち着いたからであろうか。彼がテレサに会いに行くと言うので、ジェシカもエドマンドと共に朝日の光で満ちた部屋にお邪魔したのだ。

初めて会った彼女は長い黒髪と黒い瞳を持つ異国の雰囲気を纏った美しい女性で、女の子が欲しかったのだと初対面のジェシカを大層可愛がってくれた。足の悪い彼女の隣に腰掛けて刺繍を習っていたジェシカは、目を見開いて駆け寄ると伝言を言付かってきた女性を見上げた。


「…本当に?」


「はい」


「いつ、いつ帰ってくるの?」


彼女を出迎えたエドマンドを押しのけて、ジェシカは縋るように尋ねた。しかし、年配の女性は困ったように眉を寄せて俯いた。


「具体的な事は、私は何も聞かされておりませんので。…申し訳ございません」



「ジェシカちゃん、困らせたら駄目でしょう?彼女は言付けを頼まれただけなんだから」


助け舟を出したエドマンドに静かに礼をして、彼女はそれではと去った。


「昨日の夜の連絡ならば、早くて一週間、遅くとも二週間といったところかしら」


のんびりとそう言ったテレサに駆け寄りながら、ジェシカは髪を気にしてそわそわとしだした。


「どうしよう、テレサ様。わたし髪型が変では?何を着て彼を出迎えればいいのかしら。あ、家を掃除しなくちゃ。煮込み料理を作って、それから…」


「まぁまぁ、ジェシカちゃん。落ち着きなさいな。彼が帰ってくるまでまだ一週間、それ以上あるのよ」


苦笑を交えたテレサが優しい面差しで、ジェシカの頭を撫でた。今年の夏に十七を迎えた彼女は、美しい金髪を腰まで伸ばして清楚な女性となっていた。途端に年頃の女の子となった彼女を優しく見つめるエドマンドとテレサの視線があった時、彼女はジェシカに分からない程度に嬉しそうに小さく笑い、エドマンドはジェシカの背後で意味ありげな笑みを一瞬だけ浮かべた。


「…とにかく、出迎える準備をしなくっちゃ。テレサ様、今日はこれで失礼します。エドマンドも手伝って!」


くるりと踵を返してぱたぱたと走って行ったジェシカを追うため、戸口に体を向けたエドマンドは、嬉しさを堪えた笑みの隣でひらひらと右手を振って部屋を出て行った。その一部始終を見ていたヘンリーは、何かを悟ったように小さく笑って手元の本に視線を戻した。


嬉しい知らせが届いて、幸せな一時に酔いしれるジェシカ。…だが、一週間が経ち、二週間が経った後もチャールズは帰って来なかった。ひと月が過ぎて、季節はすっかり涼しくなって冬へと向かっていた。


「帰還?」


「そうだ、お前は充分に今回の戦で貢献した。一足先に帰還するように。王宮には既に連絡をしてある」


緑も無い戦場の跡地から少し外れた林の中に呼び出されたチャールズは、訳が分からないと首を傾げてジャスパーが言った言葉を繰り返した。


戦場跡地は、あまりにも地面が脆くなっているために、しばらく立ち入り禁止地区になっている。負傷した兵士や戦で疲れた者達の休憩場所などに使われている組み立て式の小屋は、少し離れた草原にずらりと並んでいる。

何故こんなところに呼び出されたのかと不審がっていたチャールズは、そういうことかと溜め息を零した。


「帰る場所など、もうない」


「…お前は帰るのだ。お前の帰りをあの家で待つ者がいるのだから」


額から左眼にかけて大きな傷をつけたジャスパー、他にも沢山の傷を顔につけたその容姿は誰もが恐れるようなものであるが、彼はその時確かに微笑んだ。


「俺は、戦が終わればヴィクトリアの所に婿入りするはずだろう」


そう決めたのはあなただと言わんばかりに、チャールズはジャスパーに食ってかかった。本人はその言葉に物怖じせずに言い返した。


「その話は流れた。向こうは一人娘だからな、家を継げる者がよい。その条件にぴったりな者がいた」


なんだそれは、と呆れたように溜め息を零したチャールズを優しく見やって、ジャスパーは続けた。


「エドマンドから、矢のような催促も来ている。用が済んだならば、チャールズを早く王宮に戻せとな…これ以上、厄介事はごめんだ」


そう言って、引き連れていた艶やかな栗毛の馬を撫でて、手綱を引いてチャールズに突き出した。


「…帰るつもりはない」


チャールズの荷物を乗せた馬の手綱を受け取ろうとしない彼は、ゆっくりと首を振った。チャールズはまるで逃げるように、ふらつく足で一歩下がった。


「…逃げるな、チャールズ。男ならば、面と向かって言いたい事を言うのだ」


ジャスパーは厳しくそう言って、無理矢理手綱を押し付けた。夏の終わりを告げるような少し肌寒くなった風が、ジャスパーの背後から勢い良く吹き付けた。周りの木々が不気味に葉を揺らし、すっかり長くなったチャールズの藍色の癖付いた髪とボロボロの外套を舞上げた。自然の災害から身を守ってくれたり、防寒具や野宿の際に寝具という様々な役割を果たした外套は、元の原型を留めずに穴があき、長い裾は半分が千切れて黒色であったその色は血を含んで全く違う色へと変わっていた。

そんな戦の名残が見受けられるチャールズから視線を外して、もう一頭の黒色の馬にひらりと飛び乗ったジャスパーは背後を振り向いて彼を見やった。


「礼を言うぞ、チャールズ。我について来てくれたことに。おぬしがいなければ、我が国は勝てなかったかもしれん。今後も我が国に力を貸してくれ、期待しているぞ。…ではな、気をつけて帰れ」


立ってるのもやっとだというようなチャールズをその場に残し、砂埃を上げて彼は去って行ってしまった。残されたのは、呆然とその場に佇むチャールズと物静かな馬が一頭。


「…全く」


困ったものだというように小さく笑ったチャールズは、馬を見やってゆっくりと歩き出した。ちなみに、チャールズは馬術は出来ない。彼の友人のように馬が嫌いという訳ではないのだが、彼の祖母が馬術を覚える暇を与えなかったからである。

戦で力を使い果たした彼。従って、歩いて帰ることになる。


「…どうしたものか」


少しばかり歩いた道の脇にある大きな木の根元で腰を落ち着けたチャールズは、外套とは言えぬ形になった布にくるまって考えた。


「待っているならば、帰らねばならないか」


最終的にその考えに行き着いて、身を木に委ねた。


冷たい鼻面を顔に押し付けられてチャールズは眼を覚ました。眼を擦りながら辺りを見やれば、すっかり日が昇って朝日が照りつけていた。


「…お前は賢いな」


身を起こしながら、チャールズは馬にそう言った。しばし馬の黒い瞳を見つめていたチャールズは、轡と手綱を取り除いてやってから背中に乗っていた少ない荷物を下ろした。


「ここからなら、帰れるだろう」


鼻面を撫でてやりながら、彼は静かにそう言った。賢い馬は渋るように首を振ったが、さぁ、と促すチャールズに渋々従って元来た道を戻り始めた。年老いた馬にとって、長い道のりを戻ることは苦痛であろうと、チャールズは一人で都市部へと戻ることにしたのだ。

馬が戻って来ないことを確認してから、彼は反対の道を進み始めた。


疲労が頂点に達している彼にとって、気が遠くなるような道のりを歩いて帰ることは並大抵なことではなかった。金銭類は全てジェシカのために置いてきた。魔法を使おうにも、そんな気力は既に無い。少し進んでは休み、いつしか戦地となった場所を出発してからひと月が経っていた。


寂れた家々が並ぶ町外れの路地で、座り込んだままのチャールズは星が綺麗な夜空を見上げていた。もう立ち上がる体力もない。


ここまでかと死を覚悟した。


「…歩いて帰ろうなんて、無謀なことをする。チャールズ」


不意に聞こえた懐かしい声に視線を目の前の人物に向けた。


「ポール…」


「君を迎えに来たよ。さぁ、帰ろう」


珍しく覆いを被っていない彼は、優しく微笑んでそう言った。


魔法を使えば、彼が慣れ親しんだ街に着くのはあっという間だった。目の前には、祖母が残してくれた赤煉瓦の家が。灯りもついていない真っ暗な闇の中に佇むその家は、何も変わらずに彼を出迎えた。

ひっそりとずらりと並ぶ家々に隠れるように佇む煉瓦造りの家は、今にも消え失せてしまいそうだ。


「…チャールズ、家の中に入って待っていて。僕はエドマンドに君が帰ったことを伝えてくるから」


そっと優しく背中を押した彼は、そうチャールズに言い残して踵を返した。残されたチャールズは、静かに取っ手に手をかけて慣れ親しんだ重い焦げ茶色の扉を押し開けた。外のひんやりとした空気が、チャールズと共に家の中へと入り込んだ。ふらふらと覚束無い足取りでゆっくりと居間に向かった彼は、戸口にたどり着くと綺麗に片付けられたその部屋を眺めた。


二年と半年。家主である彼が家を空けていたにもかかわらず、塵一つ積もっていない。さらには、彼が家を空ける前よりも綺麗に片付けられた居間は、家具の配置さえ変わらずに以前のままであった。しかし、いつの頃か自分の帰りを待っててくれた愛らしい娘の姿はない。その娘がいないだけで、慣れ親しんだ家は急によそよそしく感じられるのだから不思議だと彼はぼんやりと思った。


その中に、居間と台所を仕切る収納台があり、台の上には何枚かの写真が写真立てに収まって綺麗に並べてある。吸い寄せられるように近づくいたチャールズは左から二番目に置かれた、写真が抜き取られた写真立てを手にとった。

それは、彼が戦に発つ際に抜き取った写真が飾られていた。胸元から一枚の写真を取り出したチャールズは、愛おしそうに写真を一撫でして写真立てにはめ込んだ。


彼が戦場で何度も見つめていた写真は、そのたびに汚れボロボロとなったが、僅かばかりの魔法を使って愛情をかけて綺麗に保っていたために、少しばかりの汚れさえない。

満足げに写真立てを元の位置にそっと戻した彼の背後で、不意にカタンと小さな物音がした。


今、家の中には自分しか居ないはず。そう不審に思って振り返れば、美しい金髪を腰まで伸ばした一人の女性が戸口に佇んでいた。彼女は大きな茶色の瞳を見開き、驚きを隠せない様子で彼を見やっていた。暖かそうな淡い黄色の一枚生地である上から踝まで一つなぎの服の上に、深緑色をした前開きの毛糸で編んだ上着を来ている。そんな彼女を静かに眺めていたチャールズが、小さく声を掛けた。


「…ジェシカか?」


愛らしい小さな娘であった少女は、年頃の美しい女性へと姿を変えていた。一瞬、誰だか分からなかったチャールズ。数秒の間考えて、彼女をまじまじと見やった。幼い頃の面影が全くないと言うわけではないが、立派に成長した彼女を見れば見るほど、自分が酷く年を取ったように感じられた。そんなチャールズを見ていたジェシカが、ぽつりと小さく呟いた。


「…お父様」


くしゃりと顔を歪め、その言葉と共に真っ直ぐにチャールズに駆け寄ると、速度を緩めずに抱きついた。立っていることがやっとだったチャールズ。体当たりで抱きついてきたジェシカを当然のことながら抱き留める事など出来ず、二人揃って床に崩れ込んだ。上半身を起こしたチャールズに、ジェシカは涙をこらえて言葉を口にした。


「おとうさまっ、ずっと…ずっと…待ってた」


――あなたの帰りを待っていた。

そう言いたかったのだろう、最後は嗚咽へと変わり、チャールズの胸元にすがりついてジェシカは泣き出した。酷く泣きじゃくる娘をおろおろと抱きしめると、そっと頭を撫でてやった。髪を梳くようにあやす仕草は、いつの頃か彼女が珍しい我が儘を言った時と同じだ。愛おしそうにジェシカを見つめていたチャールズが、不意に視線を上げた。


「…エドマンド」


居間の戸口から中ほどまで入ったやや空間があるその場所で、腕を組んでチャールズを見下ろす友人の姿があった。顔には、なんと言って怒ってやろうかと怒りを露わにして書いてある。その様子を静かに眺めるくたびれた友人をしばし見やり、彼は大きく溜め息をついて組んでいた腕を解いた。右手を腰に当てて床に視線をやったエドマンドは、ほんの少しばかり表情を崩して言った。


「おかえり…チャールズ」


そう言った彼の声はまるで泣きそうで。


「おかえりなさい」


顔を上げてそう言った彼女は、涙が伝うその頬を緩めて笑った。そんな二人を交互に見やっていたチャールズ。やがて、穏やかな表情を見せて言った。


「…あぁ、ただいま」


愛おしい人と懐かしい友人。その二人に会えて気がゆるんだのか、チャールズは身体の力を抜いて意識を手放した。



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