第98話 取引
三日目の朝、議会の広間の秤は、やはり空のまま釣り合っていた。
左の椅子には、もう黒い外套の男たちが座っていた。前腕に布を巻いた若い男は、ハルトが入ってきても、こちらを見なかった。
真ん中の議長が、紙を一枚、手に取った。
「同盟は、焼け跡の方と、取引をします」
広間が少しざわめいた。
左の椅子の男は、動かなかった。
「鉄、百本。麦を荷車で十二台、塩を樽で六つ、布を二十反。……使いの言った値の、とおりです」
議長は、卓の端のタデオを見た。タデオは小さく頭を下げた。
「値は、変えません。同盟の秤は、重さと、質と、危うさを量るものです」
ハルトは、膝の上で左手を握った。
隣のノエラは、身じろぎもしなかった。
「ただし」
議長は、紙をめくった。
「二度目からの荷の値を、今日の値で、据え置きます。……東の谷が続くかぎり」
ノエラの指が、帳面の上で止まった。
「数えられないものは、秤には載りません。ですから、値を足すことはできません。……ですが、値を動かさないことは、できます」
議長は、ノエラを見た。
「あなたの数え方を、同盟は、聞かなかったことにはしません。軍師どの」
「代わりに」
議長は続けた。
「同盟の荷は、同盟の護衛では、東の陣の近くを通れません。帝国に睨まれますので」
左の椅子の男が、初めて、薄く笑った。
「最初の荷には、焼け跡の方の腕を、つけていただきます。荷が焼け跡に着くまで。……荷を守る腕の値は、同盟が払います」
後ろの壁ぎわで、サビナが口笛を吹きかけて、やめた。
ハルトは、振り返った。
サビナは、肩をすくめた。
「うちの団の三人で、いいなら」
サビナは言った。
「値段は、昨日、酒場で決めてきた。……雇い主の値段とは、別だよ」
ハルトは、議長に向き直った。
「……いいですか」
自分に聞いたのではなかった。ノエラに。サビナに。後ろのカーラに。
ノエラが頷いた。カーラが笑った。サビナは、もう一度、肩をすくめた。
「はい」
ハルトは言った。
「お願いします」
左の椅子の男が、立ち上がった。
「帝国は、この取引を、覚えておきます」
丁寧な声だった。
それだけ言って、男は広間を出ていった。後ろの二人が続いた。
黒い外套の裾が、扉の向こうに消えた。
秤が、かすかに、きしんだ。
広間の外の廊下で、ハルトはタデオを呼び止めた。
「タデオさん」
タデオは振り返った。
「……窪地の、ことです」
ハルトは言った。
言い方を考えてきたのに、うまく言えなかった。
タデオは、しばらくハルトを見ていた。
それから、首の分銅に指を触れた。
「帝国の方は、私のところにも、聞きにいらっしゃいました」
タデオは言った。
「焼け跡の東の外れに、黒い髪の方がいるか、と。……議会の前の晩です」
「それで」
「値をつけませんでした」
タデオは、分銅から指を離した。
「答えないことが、答えになることも、あります。ですが、今度は、あちらが先に知っておいででした。斥候の方が、ご自分の目で、見てきたそうで」
ハルトは、息を吐いた。
(……ニコの、言ったとおりだ)
「疑われたでしょう」
タデオは言った。
責める声ではなかった。
「……はい。少し」
「それで、よろしいのです」
タデオは微笑んだ。
「中立の者は、両方から、疑われるのが、仕事です。……両方から信じられたら、それはもう、どちらかの味方ですので」
宿に戻ると、入口の前に、荷を背負った小柄な影が座っていた。
赤茶の髪に、鉛筆が一本。
コレットだった。
背中の荷は、ハルトの荷の倍はあった。巻尺と墨壺が、前掛けの腰で揺れていた。
「遅い」
コレットは立ち上がった。
「取引、まとまったんでしょ。……壁、見せてくれるんでしょ」
ハルトは、何か言おうとした。
その前に、ネリが宿から出てきた。
「来たの」
「来たよ」
二人は、それだけ言って、並んで荷の紐を締め直しはじめた。
ハルトは、ノエラを見た。
「……一人、増えます」
ノエラは帳面を開いた。
「食べる人が、一人。……壁を積む人が、一人」
それから、少しだけ、言葉を足した。
「どちらも、数えます」
ポルタを出る朝、東の門の前に、もう一人いた。
橋のたもとの、ニコだった。
肩に、小さな袋を一つ。手に、三枚の札。
「よう、ハルト」
「……どうしたんですか」
「どうもしないよ」
ニコは札を一枚、指でくるくる回した。
「橋の上、飽きたんだ。毎日、同じ顔ばっかり。……焼け跡ってとこには、負けたことのない顔が、いっぱい、いそうだろ」
リュネが、露骨に顔をしかめた。
「いかさま師」
「元、だよ。元」
ニコは笑った。
ハルトは、少し考えた。
「……みんなに、聞きます」
ニコの手が止まった。
「え、聞くの?」
「聞きます」
ハルトは、振り返った。
ノエラ。カーラ。ネリ。コレット。ヤン。ユノ。リュネ。サビナの団の三人は、ポルタに残る。最初の荷と一緒に来るのだ。
「いいと思う」
最初に言ったのは、ユノだった。
「子供たちに、好かれてたもの」
「面白いじゃない」
カーラが言った。
「裏通りの耳は、高いのよ。ただで、ついてくるなら」
「ただじゃないよ」
ニコが言った。
「飯は、食う」
「食べる人が、一人」
ノエラが言った。
「……数えます」
リュネは、まだ顔をしかめていた。
「札は、使わないこと。旗団の中で」
「使わない」
「理論的に?」
「……たぶん」
リュネが、ため息をついた。
それが、答えだった。
ハルトは、ニコを見た。
「焼け跡の門で、もう一度、聞かれます。トマさんに。……どこから来た、って」
「何て、答えればいいの」
「来たところを、そのまま」
ニコは、少し黙った。
それから、札を袖にしまった。
左の袖に。
「……橋から、って、言うよ」
帰りの道は、来た時より、少しだけ重かった。
麦の荷は、まだない。ポルタが荷を揃えるのに十日かかる。最初の荷はその後、サビナの団の三人と一緒に来る。
重いのは、コレットの荷だった。
それから、ハルトの胸の中の何かだった。
帝国は、この取引を、覚えておきます。
二日目の昼、街道が細くなった。
両側が、低い崖のようになっていた。道は一本きり。荷車が一台、やっと通れる幅だった。
コレットが、足を止めた。
巻尺を出して、道の幅を測った。崖の高さを、目で測った。
「ここ」
コレットは言った。
「荷を狙うなら、ここだよ。……私が帝国の側なら、ここに柵を引く」
ノエラが、崖の上を見上げた。
長いあいだ、黙っていた。
炭筆が、帳面の上で動いていた。
それから、ノエラは、帳面を閉じた。
「……私でも、ここを、選びます」
小さな声だった。
崖の上を、風が渡っていった。
ハルトは、左手で盾の縁に触れた。
四つのへこみが、指に当たった。




