第97話 九
--- ゼノビア視点 ---
ポルタからの早馬の手紙は、議会の四日後に、宿の卓の上に置かれていた。
封は切ってあった。
ハインツが切ったのだ、とゼノビアは思った。切ってから、ここに置いた。読ませるために。
「読んでくれていい」
窓辺の椅子で、ハインツが言った。柔らかい色の上着。手には茶の碗。
「君の帳簿のために、届いたようなものだから」
ゼノビアは手紙を開いた。
書いたのは、東の陣の新しい柵の注文主だった。将軍の館の、新しい主。字は若く、勢いがあり、ところどころ筆圧で紙が破れかけていた。
前腕を斬られた手で書いたのだろう。ゼノビアは、それも数に入れた。
手紙の中身は、整っていた。
ポルタの議会は、両者を同じ部屋に呼んだ。
帝国の申し出は、相場の倍。同盟が焼け跡の鉄を買わないことを条件に。東の陣の柵の仕事も、同盟の組合に任せる。
反乱軍の盟主は、灰色の腕の少年だった。自分で、鉄は帝国の荷車から取ったと言った。御者が一人死んだ、とも。
ゼノビアは、そこで一度、目を止めた。
値を下げる話を、自分からする交渉人はいない。
あの少年は、交渉をしていないのだ。
先を読んだ。
反乱軍の軍師は、倍の値には触れなかった。代わりに、東の谷の話をした。
――軍師は帳面を開かず、東の谷の年寄りの数と、子供の数を言った。谷が残れば来年も塩を買う、帝国の値は一度きりだ、と。議会は三日考えると答えた。
ゼノビアは、その一行を、二度読んだ。
帳面を開かずに。
あの人は、いつも帳面を開いていた。図書室でも、演習の前の晩でも。数は紙の上にあるもので、頭の中にあるものではない、と言っていた。紙の上にある数だけが、間違えずにすむ、と。
その人が、帳面を開かずに、子供の数を言った。
紙を見ずに言える数は、何度も数えた数だけだ。
ゼノビアは、手紙を卓に置いた。
「どう読む」
ハインツが聞いた。
「議会は、反乱軍と取引をします」
ゼノビアは答えた。
「倍の値は、商人には一度きりの儲けです。ポルタは、一度きりの儲けで動く町ではありません。……三日考えると言ったのは、断る理由を探しているのではなく、帝国に角を立てない言い方を探しているのです」
「同じ読みだ」
ハインツは、茶を一口飲んだ。
「止めますか」
「止めない」
ハインツは言った。
あっさりと。
「ポルタは秤の町だ。秤を傾けようとして重りを足すと、向こうも足す。足し合いになる。……それは、商人の土俵だよ。こちらが負ける」
ハインツは碗を置いた。
「取引は、まとまっていい。紙の上では」
「紙の上では」
「荷が届かなければ、取引はなかったのと同じだ」
ハインツは、窓の外を見た。帝都の屋根の向こうに、工匠街の九本の煙突。
「ポルタから焼け跡まで、四日の道だそうだね。最初の荷は、一番、目立つ。ポルタの商人も、反乱軍も、最初の荷が届くかどうかを見ている。……届かなければ、二度目の荷は、出ない」
ゼノビアは、何も言わなかった。
「東の陣は、春の兵で、まだ四百近くある。割れた列は並べ直した。将軍の古い兵は、もういないからね。並べやすくなった」
ハインツは、ゼノビアを見た。
穏やかな目だった。
「それから、焼け跡の東の外れに、将軍の娘がいるそうだ。陣の斥候が見てきた」
「……はい」
「急がなくていい」
ハインツは言った。
「娘は、荷の後でいい。順番は、大事だよ。……一度に二つ取ろうとすると、どちらも、取りこぼす」
宿を出たのは、夕方だった。
工房の回廊へは戻らず、ゼノビアは、自分の部屋で帳簿を開いた。
カインの頁。
日付。流した量。五つの名前。
「ミア」の欄。会った。
その日の行の端に、ゼノビアは、小さく書き足した。
一度で、聞いた。
先日の行だった。五つの名前を、彼は一度で聞いた。五つ目の名前を、口の中で繰り返していた。
覚えたのだ。覚えることに、慣れたのだ。
聞き落とさなくなったのは、聞くことに、もう、痛みがないからかもしれなかった。
ゼノビアは、その考えを書かなかった。
書いたら、正確ではなくなる。
頁をめくった。
ノエラの頁。
一番上に、百四十一。去年の秋、ノエラの策が帳面から消そうとした、川下の村の数。消されずに、全員が村へ帰った数。
その下に、種麦。
ゼノビアは、ペンを持ったまま、長いあいだ、その二つを見ていた。
それから、三つ目を書いた。
九。
東の谷の、子供の数だった。
書いてから、ゼノビアは気づいた。
自分も、子供を、数で書いた。
百四十一と同じ字の大きさで。種麦と同じ並びで。九、と。
あの人は、子供を、数で言った。でも、数のまま言ったのではなかった。塩を買う九人として。来年も、再来年も、そこにいる九人として。
ゼノビアの帳簿には、九、としか書いていない。
ペン先が、頁の上で止まった。
九の横に、何かを書き足そうとした。
何を書けばいいのか、わからなかった。
名前は知らない。顔も知らない。東の谷がどこにあるのかは、地図で知っているだけだ。
ゼノビアは、ペンを置いた。
九、のままにした。
正確な帳簿というのは、こういうことだ、と思った。
知らないことは、書かない。
知らないことしか、ない時も。
夜更け、扉が叩かれた。
将軍の軍の、古い書記だった。
頼まれていない写しを、いつものように一枚だけ持っていた。
「東の陣への、命令です」
書記は言った。
それだけ言って、写しを置き、帰っていった。
ゼノビアは写しを読んだ。
――ポルタより焼け跡へ向かう、最初の荷の列を見張ること。道は四日。荷が焼け跡に着く前に、止めること。荷を守る者は、問わない。
日付は、今日だった。
ゼノビアは、写しを、ノエラの頁に挟んだ。
九、の上に。
伝える相手は、いなかった。
伝える手も、なかった。
ゼノビアにできることは、数えることだけだった。荷の列が何台で、守る者が何人で、四日の道のどこに谷があるか。
数えれば、わかる。
それが、いつも、いちばん、怖かった。




