第96話 札
「今日は、休む番よ」
朝の宿の廊下でカーラが言った。
「議会は、三日、考えるんでしょう。……考えるのは、向こう。待つのは、こっち。待つのが、仕事の日に、盟主の顔を、してても、しょうがないわ」
ハルトは、何か、言おうとした。
カーラが、ハルトの手のひらに何かを落とした。
銅貨だった。五枚。
「お小遣い」
「え」
「利子は、とるわよ。……そのうち、ね」
カーラは、笑って、行ってしまった。
ノエラは、もういなかった。タデオの帳場で、ポルタの値の帳簿を、見せてもらうのだと、言っていた。ネリは、夜明けにコレットと炉を見に出ていった。サビナは、団の三人と、どこかの酒場で腕の値段を聞いている。
廊下の端に、ユノと、リュネが立っていた。
「行くわよ」
リュネが言った。
「どこへ」
「どこでも。……研究よ。自由都市の人の流れの」
ユノが笑った。
運河のべりは、人で、いっぱいだった。
船から荷を下ろす人。魚を、売る、人。橋のたもとで笛を吹く人。
少し後ろをヤンが歩いていた。
ついてこなくていい、と、ハルトは言った。ヤンは、「はい」と言って、ついてきた。
昨日の廊下のことが、あったからだと、思う。
「ハル、あれ」
ユノが袖を引いた。
橋のたもとに人だかりがあった。
真ん中で、若い男が、木の箱の上に札を三枚並べていた。
二十歳くらい。痩せていて、手足が長かった。袖をまくった腕に、色の褪せた布を何本も巻いていた。
「さあ、さあ、赤は、どれだ」
男は、言った。
よくしゃべる声だった。
「赤を、当てたら、倍。外れたら、それまで。……簡単だろ? 子供でも、わかる。そこの、兄さんでも、わかる」
男がハルトを見た。
目が合った。
男は、にっと、笑った。
「おっと、盾の兄さん。……一枚、どう?」
ハルトは、首を振った。
振った、つもりだった。
気づいたら、箱の前にいた。
ユノが後ろで、「ハル」と言った。リュネが、「ばか」と、言った。
男は、札を三枚見せた。
黒、赤、黒。
裏返した。
それから、手が動いた。
速かった。札が箱の上で滑って、入れ替わって、また入れ替わった。
止まった。
「さあ」
ハルトは、真ん中を指さした。
男がめくった。
黒だった。
「残念」
男は、笑った。
銅貨が、一枚男の手に消えた。
「もう一回、いく?」
ハルトは、もう一回、いった。
右を指さした。
黒だった。
銅貨が、二枚目。
人だかりが笑った。
ハルトの耳が熱くなった。
(……三枚しか、ないのに)
三回に、一回は、当たるはずだった。
ハルトは、三枚目の銅貨を箱に置いた。
男の手が動いた。
今度は、ハルトは、札を見なかった。
男の手を見ていた。
手首を。肘を。肩を。
盾で、受ける、時と同じだった。剣を見るんじゃない。剣を、持つ、手を見る。ゴードンに何べんも言われた。
男の左の手首が、一度だけ内側に返った。
袖のほうへ。
札が止まった。
「さあ」
男が言った。
ハルトは、三枚のどれも指さなかった。
「……左の袖です」
男の笑いが止まった。
「赤は、左の袖の中です」
人だかりが静かになった。
男は、ハルトを見た。
それから、人だかりを見た。
それから、もう一度ハルトを。
「……なんで、わかった」
「手、見てたので」
ハルトは、言った。
「受ける、時は、手を見るんです」
後ろでリュネが言った。
「三回とも、当たりは、なかったのよ。……理論的に」
「わかってたなら、言えよ」
「あんたが、気づくか、研究してたの」
男は、しばらく黙っていた。
それから、左の袖から、赤い札を出した。
箱の上に置いた。
人だかりが、わっと、笑った。誰かが口笛を吹いた。何人かが、男に銅貨を投げ返せと言った。
男の顔が赤くなった。
耳まで。
「……負けた」
男は、言った。
ひどく、悔しそうだった。
いかさまが、ばれた顔では、なかった。
負けた、顔だった。
男は、銅貨を三枚ハルトの手に返した。
乱暴に。
ハルトは、手のひらの銅貨を見た。
それから、一枚を男に差し出した。
男が目を丸くした。
「……何それ」
「教えてもらった、分です」
ハルトは、言った。
「袖の使い方。……二回、負けないと、わからなかったので。半分、より、少ないですけど」
男は、銅貨を見た。
ハルトを見た。
受け取らなかった。
それから、急に笑い出した。
大きな声で。箱を叩いて。
「変な、やつ!」
男は、言った。
「いかさま師に、授業料、払う、やつ、初めて、見た」
男は、銅貨を受け取った。
指で弾いて、空中でつかんだ。
「ニコ」
男は、言った。
「この橋のニコ。……盾の兄さんは?」
「ハルトです」
「ハルトね」
ニコは、口の中で繰り返した。
「覚えた。……覚えるのは、得意なんだ。顔と、名前と負けた相手は」
昼過ぎ、運河の石段に子供たちが集まっていた。
ニコが、連れてきた、子供たちだった。橋のたもとで、いつもニコの皿回しを見ている子供たち。
「お姉ちゃん、水の人なんでしょ」
一番、小さな女の子が、リュネの外套を引っぱった。
ニコが、しゃべったのだ。たぶん。
リュネは、困った、顔をした。
「……一回だけよ」
リュネは、長杖を運河の水に向けた。
目を細めた。
水面から、細い霧が立った。
日の光が霧に当たった。
虹が出た。
小さな虹だった。運河の上に、橋みたいに、かかった。
子供たちが声を上げた。
ハルトは、虹を見ていた。
それから、リュネの手を見た。
長杖を、握った、指の先が白くなっていた。
小さく震えていた。
ユノが、何も言わずに、リュネの手を両手で包んだ。
「……大げさ」
リュネが言った。
「一回だけ、だもの。指先が、冷えた、だけ」
でも、手は、引かなかった。
小さな女の子が、ハルトの手を引いた。
左の手を。
「お兄ちゃんも、もっと、近くで」
ハルトは、引かれるまま石段を一段下りた。
その時だった。
手を、引かれる、感じが。
前にも、あった、気がした。
小さな手に。どこかの町で。日の当たる、石の道を。
何かが、ひらひら、していた。
赤い、ものが。
ハルトは、足を止めた。
思い出そうとした。
何も出てこなかった。
手を、引かれた感じだけが、手のひらに残っていた。
「……ハル?」
ユノが見ていた。
リュネの手を包んだまま。
「前にも」
ハルトは、言った。
「こういうの、あった?」
ユノは、少しの間、黙っていた。
リュネがユノを見た。
「……うん」
ユノは、言った。
「あったよ。ベルナで」
それ以上、言わなかった。
ハルトも聞かなかった。
聞いても、たぶん、戻ってこない。それは、わかっていた。
でも、手のひらは、温かかった。
ユノが笑った。
泣きそうな顔で。
「今度は、覚えててね」
「……うん」
虹は、もう消えかけていた。
日が傾いた頃、ニコがまだついてきていた。
宿の近くまで。
「あんたら、どこに帰るの」
ニコが聞いた。
「焼け跡です」
「遠い?」
「四日」
ニコは、口笛を吹いた。
「遠い」
それから、ニコは、少し黙った。
札を一枚、指でくるくる回していた。
「……あのさ」
ニコは、言った。
軽い声のままだった。でも、札の回る、速さが落ちていた。
「向かいの宿の黒い、外套の連中。……あいつら、十日も、前から、来てるんだよ。ポルタに」
ハルトは、足を止めた。
後ろでヤンも止まった。
「裏の酒場で、毎晩、飲んでる。……で一人混じってたんだ。外套じゃ、ない、男が。旅のなりの」
ニコは、札を止めた。
「そいつ、酔うと、言うんだよ。焼け跡の東の外れまで、見てきた、って。……副将の旗の色の外套が、枝に、干してあった、って」
ハルトの息が止まった。
(……タデオさんじゃ、ない)
「そいつがね」
ニコは、言った。
「昨日の夜、東の門から、出てった。……急いでたよ。馬で」
ニコは、赤い札を指で弾いた。
「負けた、相手には、教えることに、してるんだ。……ハルト」
運河の向こうで鐘が鳴った。
夕方の鐘だった。




