第95話 同じ秤
議会の広間には、秤があった。
大きな秤だった。
天井から、太い鎖で吊るされていた。左右の皿は、人が、一人乗れるくらいの大きさだった。
皿は、どちらも空だった。
空のまま、釣り合っていた。
ハルトは、その下を通った。
見上げずには、いられなかった。
広間の奥に長い卓があった。
卓の向こうに、十人と、少しが座っていた。胸に青い布。年を、とった、人が多かった。真ん中に、白い髪を結い上げた年寄りの女がいた。
卓のこちら側に椅子が並んでいた。
左右に分けて。
右の椅子に、ハルトとノエラが座った。カーラは、後ろの壁ぎわに立った。
タデオは、卓の端に立っていた。使いの席だった。
左の椅子は、まだ空いていた。
「……向こう、ですか」
ハルトは、小さく言った。
ノエラは、答えなかった。
扉が開いた。
黒い、外套の男たちが三人入ってきた。
胸に細い銀の鎖。
先頭の男は、若かった。
外套の袖の下に、白い布がのぞいていた。片方の前腕に巻いた布が。
男は、左の椅子へ歩きながら、ハルトを見た。
灰色の腕を。
薄く、笑った。
ハルトは、その笑い方を知っていた。
谷の出口で、霧の向こうから来た笑い方だった。
(……あの時の)
男は、椅子に座った。
ハルトとの間には、秤の影が落ちていた。
「同盟は、中立です」
真ん中の年寄りの女が言った。
よく通る声だった。
「どちらの話も、同じ部屋で同じ秤で聞きます。……隠れて、値を、つけては、商いに、なりませんので」
女は、左を見た。
「帝国の方から」
若い男が立ち上がった。
「焼け跡の鉄は」
男は、言った。
柔らかい声では、なかった。でも、丁寧だった。
「帝国の荷車から、奪われた鉄です。帝国の刻印がある」
男は、ハルトを見なかった。
卓だけを見ていた。
「同盟が、反乱軍から、その鉄を買うなら。……同盟は、盗品を、買う、ことに、なります」
広間が少しざわついた。
「ですから、帝国は、申し出ます。同盟が、焼け跡の鉄を、買わない、ならば」
男は、間を置いた。
「帝国が、同じ重さの鉄を、同盟から、買います。……相場の倍で」
ざわめきが大きくなった。
ハルトは、ノエラを見た。
ノエラの炭筆が止まっていた。
「さらに」
男は、言った。
「東の陣の新しい、柵の仕事も、同盟の組合にお任せします。……石も職人も同盟から」
男は、座った。
座る、前に一度だけハルトを見た。
首のあたりを。
「焼け跡の方」
年寄りの女が言った。
ハルトは、立ち上がった。
膝が少し震えていた。
広間の全員がハルトを見ていた。
(……何て、言えば)
わからなかった。
倍、と、言われた。盗品、と、言われた。
全部、本当だった。
ハルトは、秤を見上げた。
空の皿を。
「……鉄は、帝国の荷車から、取りました」
ハルトは、言った。
「本当です。……御者が一人死にました。鎖で繋がれた北の村の人でした」
広間が静かになった。
「だから、売りに、来たんじゃ、ないです。……値段を聞きに来ました」
年寄りの女の眉が少し動いた。
「値段を、決めるのは、俺じゃ、ないので。……みんなで、決めるので」
ハルトは、言った。
「数は、ノエラさんが言います」
ハルトは、座った。
座ってから、手が震えていることに気づいた。
ノエラが立ち上がった。
「帝国の申し出は、相場の倍です」
ノエラは、言った。
平らな声だった。
「私たちは、倍は、出せません。……タデオさんの、値のとおりです。百本で、麦、十二台」
卓の何人かが頷いた。当たり前だ、という、顔だった。
「ですから、倍の話は、しません」
ノエラは、言った。
「東の谷の話を、させてください」
若い、男の顔が少しだけ動いた。
「新しい柵の図面を見ました」
ノエラは、言った。
「組合の城壁で。……谷を、見下ろす、丘の上の砦。兵は、四百。井戸は、一つ」
ノエラは、卓を見た。
一人ずつ。
「井戸、一つでは、四百は、夏を越せません。水は、下の谷から、運ぶことに、なります。……谷の人が」
広間が静かになった。
「東の谷は、去年の秋に、麦と、男を徴発されました」
ノエラは、帳面を開かなかった。
開かなくても言えるのだと、ハルトは思った。
「年寄りが、六人。子供が、九人。冬を、山の炭焼き小屋で越して、春に戻りました。……そこに、今は、別の村の人もいます。種麦を持って」
ノエラは、少し息を吸った。
「その谷が、秋に、何を、買うか、ご存じですか」
卓の誰も答えなかった。
「塩です」
ノエラは、言った。
「冬を、越すための塩と布と鍋の鉄。……谷が、残っていれば、来年も再来年も買います。同盟から」
年寄りの女がノエラを見ていた。
「帝国の倍の値は、一度きりの値です」
ノエラは、言った。
「鉄を買って、柵を建てて、谷の人に水を運ばせます。……運ぶ、人は、塩を買えません。次の秋には、谷は、空です」
ノエラは、指を一本立てた。
「帝国の値は、一度」
それから、二本目を立てなかった。
手を下ろした。
「私たちの値は、谷が、続く、かぎり、続きます。……何年、続くかは、数えられません。人が、いる、かぎり、ですから」
誰も何も言わなかった。
天井の秤が、かすかに、きしんだ。
風のせいだった。
それとも。
ハルトは、見上げた。
皿は、空のまま、釣り合っていた。
年寄りの女が口を開いた。
「面白い数え方をなさる」
タデオと同じ言葉だった。
ハルトは、タデオを見た。
タデオは、卓の端で首の分銅に指を触れていた。
触れて、少し笑っていた。
「人が、いる、かぎり、続く、値。……商人の耳には、甘い話です」
年寄りの女は、言った。
「甘い話には、たいてい毒がある」
ノエラは、黙っていた。
「数えられない、ものは、秤には、載りません。……ですが、聞かなかった、ことにも、できません」
女は、卓の両側を見た。
「議会は、三日、考えます。……どちらの方も、それまでポルタにいて、ください」
広間を出た。
廊下は、長かった。高い窓から、運河の光が入っていた。
ノエラは、黙って歩いていた。
帳面を胸に抱えて。
「……勝てましたか」
ハルトは、聞いた。
「わかりません」
ノエラは、言った。
「倍の値には、勝てません。……数では」
ノエラは、少し歩いてから言った。
「でも、谷の子供の数を言った時。……卓の、三人が目をそらしました」
「三人」
「目を、そらす、人は、数えています。……自分の頭の中で」
ノエラは、ハルトを見なかった。
前を見ていた。
「前の私なら、谷の子供の数は、言いませんでした。……値段の話では、なかったので」
ハルトは、何も言わなかった。
横を歩いた。
ノエラの指は、帳面を抱えていても、白くなかった。
廊下の角で足音がした。
黒い外套だった。
若い、男が一人で立っていた。後ろの二人は、いなかった。
男は、ハルトの前で止まった。
近くで、見ると、本当に若かった。ハルトといくつも、違わないかも、しれなかった。
前腕の布に、血はもうにじんでいなかった。
「盟主どの」
男は、言った。
薄く、笑って。
「谷の出口では、ご挨拶が、できませんでした」
ハルトは、答えなかった。
左手が、盾の縁に触れていた。
男は、ハルトの盾を見た。
へこみを四つ。
「一つ、伝えて、いただけますか」
男は、言った。
「焼け跡の東の外れの窪地に。……黒い、髪の方が、いらっしゃる、でしょう」
ハルトの指が盾の縁で止まった。
ノエラが、息を止めた音がした。
「お迎えは、まだ、あきらめていない、と」
男は、前腕の布に指を触れた。
「今度は、お嬢様の足で帰って、いただきます。……こちらへ」
男は、頭を下げた。
丁寧に。
それから、廊下の奥へ歩いていった。
黒い外套の裾が、角を曲がって消えた。
ハルトは、動けなかった。
窓の外で運河の水が光っていた。
(……どうして、窪地を)
知っている、はずがなかった。
焼け跡の外の誰も。
カーラの声を思い出した。
あの人はね。見たものには、全部、値をつけるのよ。
ハルトは、振り返った。
廊下のずっと向こう。広間の扉の前にタデオが立っていた。
こちらを見ていた。
柔らかい目で。
何も、言わずに。




