第94話 壁
四日目の朝だった。
丘の上に、出た、時。
ハルトは、足を止めた。
止めた、つもりは、なかった。足が勝手に止まった。
下に都市があった。
白い、石の城壁が二重に巡っていた。その内側に、屋根が数えきれないほど並んでいた。赤い屋根。灰色の屋根。屋根の間を、細い、水の筋が何本も走っていた。
水の上に船がいた。
帆を、張った、船が。
煙が、何本も上がっていた。炊事の煙と炉の煙。
焼け跡の煙とは、数が違った。
「……口」
リュネが言った。
「え」
「口、開いてる。閉じなさい。盟主でしょ」
ハルトは、口を閉じた。
ユノが横で笑った。
ユノもさっきまで口が開いていた。ハルトは、見ていた。
「ポルタです」
タデオが言った。
いつもの、柔らかい声で。
「同盟で、一番、大きな都市です。……ようこそ、盟主どの」
門で止められた。
槍を持った門番が、二人。胸に青い布を巻いていた。
「何を、売りに」
門番は、言った。
どこから来た、では、なかった。
ハルトは、少し考えた。
「……売りに、来たんじゃ、ないです」
門番が眉を寄せた。
「値段を聞きに来ました」
門番は、ハルトの灰色の腕を見た。
背中の剣を見た。
それから、後ろのタデオを見た。
タデオが小さく頷いた。
門番は、槍を引いた。
「……なら、通れ」
ハルトは、門をくぐった。
(……トマさんなら、何て、言うかな)
少し思った。
門の内側は、音で、いっぱいだった。
人の声。車輪の音。槌の音。誰かが笛を吹いていた。
道の両側に店があった。
塩が、山になって、売られていた。白い山が、いくつも。
ハルトは、また足を止めた。
「あれ、全部、塩ですか」
「全部、塩よ」
カーラが言った。
「坊やの一年分くらいね。……一番、小さい山で」
その隣の店には、布が吊るされていた。橙、青、赤、黄。金の糸の縁取り。
カーラの外套の下の布と同じ色だった。
サビナが鼻で笑った。
「南の布だ。……ここで、買うと、倍の値だよ」
「詳しいんですね」
「売ってた、からね。昔」
サビナは、それ以上、言わなかった。
ネリは、店を見ていなかった。
道の向こうの炉の煙を見ていた。
ノエラは、塩の山の横の札を見ていた。値の札だった。炭筆が動いていた。
ヤンは、人を見ていた。
ユノは、ハルトの袖をつかんでいた。はぐれないように。
ハルトは、全部を見ていた。
見きれなかった。
宿へ、向かう、途中だった。
城壁の内側の一部が崩れていた。足場が組んであった。石を、積む、人たちがいた。
その足場の下で怒鳴り声がした。
「だから、引けないって、言ってるでしょ!」
女の声だった。
若い声だった。
ハルトは、振り返った。
足場の下に小柄な女が立っていた。
赤茶の髪を短く結んで、そこに鉛筆を一本挿していた。煤けた、革の前掛け。前掛けの腰に、巻尺と黒い、小さな壺が下がっていた。
女は、紙を一枚突き出していた。
相手は、太った、年かさの男だった。腕を組んでいた。
「引けない、じゃない。引くんだ」
男が言った。
「金を、払うのは、向こうだ」
「向こうが、何に、使うか、わかってて、言ってる?」
女は、紙を男の胸に押しつけた。
男は、受け取らなかった。
紙が地面に落ちた。
ハルトの足もとまで滑ってきた。
ハルトは、拾った。
左手で。
図面だった。
線が、細かく、引いてあった。四角い壁。四隅に塔。真ん中に井戸の印が一つ。
端に字があった。
ハルトは、読んだ。
東の陣。新しい柵。
「それ、返して」
女が言った。
ハルトの前に来ていた。
背は、ハルトより、少し低かった。目が大きかった。
「……東の陣って」
ハルトは、言った。
「帝国のですか」
女は、ハルトを見た。
灰色の腕を見た。
少し目を細めた。
「そうだよ。銀の鎖の人たちからの注文」
女は、図面をハルトの手から取った。
「谷を、見下ろす、丘の上に、建てる、砦。……下の谷には、村がある。畑がある」
女は、図面の線を指で叩いた。
「壁ってのは、守るために、引くもんだよ。……これは、見下ろすための壁だ」
後ろで男が言った。
「見下ろそうが、何だろうが、壁は、壁だ」
「なら、親方が、引けば」
「引くとも。……おまえは、明日から、来なくていい」
女は、黙った。
図面を、握った、指が白かった。
「この砦」
声がした。
ノエラだった。
いつの間にか、ハルトの横にいた。図面を覗きこんでいた。
「井戸が一つですね」
女がノエラを見た。
「そう、だけど」
「この広さなら、兵は、四百は、入ります。……井戸、一つでは、夏を越せません」
ノエラは、平らな声で言った。
「水を、下の谷から、運ばせる、つもりでしょう。……村の人に」
女の目が大きくなった。
「でしょ!?」
女は、言った。
「親方にも、言ったの! 井戸が、足りないって! そしたら、水は、向こうが、何とかするって。……何とかするって、そういう、ことでしょ」
女は、図面をノエラに突き出した。
「あんた、誰」
「ノエラです」
「何を、する、人」
ノエラは、少し黙った。
「……数える、人です」
ネリは、図面を見ていなかった。
崩れた、城壁のほうを見ていた。
足場の下の積みかけの壁を。
「あれ」
ネリが言った。
「あんたが、積んだ?」
女は、振り返った。
「……そうだけど」
「古い石と新しい石、混ぜてる」
ネリは、壁に近づいた。
継ぎ目に指を当てた。
古い黒ずんだ石と、切り出したばかりの白い石が、互い違いに積まれていた。
「全部、新しいのに、したほうが、きれいなのに」
「きれいだけど、割れる」
女は、言った。
「古い石は、もう、どこに、力が、かかるか、知ってるの。……何十年も、ここにいたから。新しいのだけで、積むと、力の逃げ場がない」
ネリが振り向いた。
ハルトは、ネリの顔を見た。
知っている、顔だった。
夏に、ゴードンの盾の鋲を、見た時の顔だった。
「……混ざってるから、割れない」
ネリが言った。
「違う、のが、並んでると、ひびが迷う」
女は、しばらくネリを見ていた。
それから、笑った。
大きな口で。
「あんた、わかる人だ」
女は、コレットと名乗った。
城壁工の組合にいた。今日、までは。
「明日から、来なくて、いいんだってさ」
コレットは、鉛筆を髪から抜いて、また挿した。
「まあ、いいよ。……あの、図面を引くくらいなら」
ハルトは、何か、言おうとした。
何を言えばいいのか、わからなかった。
「あんたたち、どこから、来たの」
コレットが聞いた。
ハルトは、答えた。
「焼け跡から、です」
コレットの目が動いた。
「焼け跡。……帝国の鉄の荷車を、奪った、とこ?」
「……はい」
「冬に、副将の兵を、追い返した、とこ?」
「はい」
コレットは、ハルトの灰色の腕をもう一度見た。
背中の剣の柄を。
「じゃあ、あんたが盟主か。……首に値のついた」
「はい」
「ふうん」
コレットは、ハルトを上から下まで見た。
それから、聞いた。
「壁、ある?」
「え」
「焼け跡。壁、あるの」
ハルトは、少し考えた。
焼けた、門柱。雪の季節に、積んだ、壁。焼け残った、柵。
「……焼けた、柵と。冬に、積んだ、雪と土の壁だけ、です」
コレットの目が光った。
大きな目が。
「見せて」
コレットは、言った。
「焼け跡の壁。……見せて」
宿の窓から、城壁が見えた。
足場の上で親方が図面を広げていた。
コレットが引けないと言った図面を。
東の陣の新しい、柵。谷を、見下ろす、丘の上の砦。
ハルトは、窓枠を左手で握っていた。
ノエラが横に来た。
「ヤンさんが、宿の者から、聞いてきました」
ノエラは、言った。
「あの、注文を出した銀の鎖の人たち。……この、宿の向かいの宿にいるそうです」
ハルトは、向かいの宿を見た。
二階の窓に灯りがあった。
その窓の前を、黒い、外套の影が一度だけ横切った。




