第92話 足もと
鍋は、重かった。
ピムと二人で棒に通して、担いだ。
焼け跡の東の外れへ。朝の霧が、まだ窪地の底に残っていた。
「こぼさないで、くださいね」
前を、担ぐ、ピムが言った。
「盟主が、こぼしたら、俺が、怒られるんで」
「誰に」
「マーサさんに」
ハルトは、少し笑った。
棒が肩に食いこんだ。左の肩に。右の手は棒を握れないので、肘で押さえていた。
窪地には、天幕がなかった。
副将の旗の色の外套が、枝に渡して、あった。屋根の代わりに。
その下に古い兵たちがいた。
十七人。
火を、起こしている、者。湧き水を、汲んでいる、者。槍の穂先を砥石で研いでいる者。
誰もハルトたちを見て、立ち上がらなかった。
でも、全員が見ていた。
「……来たのね」
イゾルデが、湧き水のそばから、言った。
黒い、三つ編みが肩にかかっていた。袖を、肘まで、まくっていた。
「昨日の夜も来たわ」
「今日の朝の分です」
ハルトは、言った。
ピムが鍋を下ろした。蓋を取った。湯気が上がった。麦と豆と干した、菜っ葉。
古い兵の何人かが鍋を見た。
それから、目をそらした。
イゾルデは、鍋を見なかった。
「ただで、もらう、つもりは、ないわ」
「わかってます」
「わかってないでしょう」
イゾルデは、言った。
「旗団の麦が、足りないのは、知ってる。……昨日、鍋の列で聞こえたわ。夏の前に尽きるって」
ハルトは、黙った。
窪地は、鍋の列から、遠くなかった。
「横にいるって、そういうことよ」
イゾルデは、言った。
「聞こえる、ところにいる。……だから、ただでは、食べない」
年かさの古い兵が立ち上がった。
館に残っていた四人の一人。将軍の背中を、二十年、見てきた人だった。
ハルトは、その人の名前を知っていた。
「お嬢様」
年かさの兵は、言った。
「麦の代わりに、出せるものは、ありますか」
イゾルデは、しばらく黙っていた。
それから、窪地の古い兵たちを見た。
一人ずつ。
「……腕、くらいね」
イゾルデは、言った。
「父の兵よ。槍なら、二十年、振ってる」
ハルトは、昨日のことを思い出した。
ベックが、杖をついて、若い男たちの前に立っていた。槍の持ち方を見せていた。持ち方だけを。
振るところは、見せられなかった。
「……一人、借りても、いいですか」
ハルトは、言った。
稽古場は、倉の裏だった。
ベックが、若い男たちを並ばせていた。東の谷の八人。陣の外れの村の九人のうちの何人か。川下の村の若者たち。
ハルトが年寄りの兵を連れていくと、ベックは顔をしかめた。
谷の出口で列を割った、あの年寄りの兵だった。
「……誰だ」
「将軍の軍にいた人です。槍を、四十年、だそうです」
「四十年」
ベックは、年寄りの兵を上から下まで見た。
「見せる、だけだ」
年寄りの兵が言った。
「教えるのは、あんたの仕事だろう。……俺は、旗団じゃ、ねえ」
ベックは、黙った。
杖を、握った、手が白かった。
ハルトは、何か、言おうとした。
でも、言う前にベックが言った。
「……構えてみろ」
年寄りの兵が槍を構えた。
それだけで、若い男たちが静かになった。
穂先がぶれなかった。腰が低かった。息の音がしなかった。
「突け」
ベックが言った。
年寄りの兵が突いた。
速くは、なかった。でも、引く、ところまで一つの線だった。
「見たか」
ベックが、若い男たちに言った。
「今のが突きだ。……おまえらのは、槍を投げてるだけだ」
若い男たちが笑った。
ベックは、笑わなかった。
「もう一度」
年寄りの兵がもう一度突いた。
ベックは、杖で地面を叩きながら言った。
「腰。……肘。……引く。……ほら、引くのが、遅い奴は、次に突けねえ」
年寄りの兵が突く。ベックが言葉にする。
ハルトは、少し離れて、見ていた。
(……二人で、一人分だ)
ベックの口の端が少しだけ動いた。
稽古場の端に男が一人座っていた。
樽の上に。片方の腿に布を巻いて。
谷の出口で矢を受けた男だった。
杖が、横に立てかけて、あった。ネリが余った木で作った杖だった。
男は、稽古を見ていた。
見ているのは、槍では、なかった。
足だった。
「……三番目の奴」
男が言った。
小さな声だった。
ベックが振り返った。
「何だ」
「三番目の奴。突く時に右の足が浮いてる。……だから、引くのが遅い」
ベックは、三番目の若い男を見た。
若い男が突いた。
右の踵が浮いた。
ベックは、しばらく黙っていた。
それから、男を見た。
「……なんで、わかった」
「足しか、見てねえから」
男は、自分の腿を見た。
「俺の足は、もうこうだから。……人の足ばっかり、見ちまう」
稽古場が静かになった。
ハルトは、男の名前を知っていた。
谷の出口で、糸が、一本跳ねた人だった。
ベックが、杖をついて、男の前まで歩いた。
ゆっくり。
「明日から、ここに座ってろ」
ベックは、言った。
「上は、俺が見る。足は、おまえが、見ろ」
男は、ベックを見上げた。
「……座ってる、だけでいいのか」
「座って、見てる奴が要るんだよ」
ベックは、言った。
「俺も、半分しか、できねえ。そいつも」
ベックは、年寄りの兵を顎で示した。
「旗団じゃねえから、半分だ。……三人で、やっと一人分の師匠だ」
年寄りの兵が鼻を鳴らした。
男は、しばらく何も言わなかった。
それから、杖を握った。
握った、手が震えていた。
「……三番目。また、浮いてる」
昼過ぎ、ゴードンが、窪地へ歩いていった。
マーサの杖の速さで。
ハルトは、後ろからついていこうとして、やめた。
ゴードンが、振り返らずに、手を振ったからだ。
来るな、の手だった。
でも、窪地は、遠くなかった。
声は聞こえなくても、姿は見えた。
ゴードンは、湧き水のそばの石に座った。座るまで少し時間がかかった。
イゾルデが、その横に立っていた。
長いこと、二人は何か話していた。
ゴードンが左の手首を見せた。
組み紐は、もうそこにはなかった。盾の裏に留めてある。
それでも、ゴードンは、手首を見せていた。
イゾルデが少し笑った。
ハルトが、初めて、見る顔だった。
それから、イゾルデは、窪地の外を指さした。
沢のある、ほうだった。
ずっと遠くの。
ゴードンは、イゾルデの指の先を長く見ていた。
それから、何か、短く言った。
イゾルデが頷いた。
夕方、ゴードンが戻ってきた。
ハルトは、門の近くで待っていた。待っていない、ふりをして。
「……何を話したんですか」
結局、聞いた。
ゴードンは、門柱に手をついた。息が少し上がっていた。
「娘の礼だ」
「それだけ、ですか」
ゴードンは、しばらく黙っていた。
「あの嬢ちゃん、いつか、沢の道を見に行くそうだ」
ハルトは、息を止めた。
沢の道。
ガルドが一人で下りていった道。
「親父の下りた、道を、自分の足で、歩いてみたいんだと。……弔うのは、それからだ、って」
ゴードンは、門柱から、手を離した。
「だから、言っといた」
「何て」
「行く時は、言ってから、行け」
ゴードンは、門柱の横のトマを見た。
トマは、聞こえない、ふりをしていた。
「ここの、決まりだろう」
夜、鍋の列で、ハルトは、また全員に聞いた。
ポルタへ行くか。誰が行くか。
行くことは、すぐに決まった。
タデオの条件だった。盟主が、自分で、来ること。
「麦が要る」
ノエラが言った。
「行かない、という、数は、ありません」
誰が行くかは、時間がかかった。
ノエラが行く。値段の話を、するのは、ノエラだった。
カーラが行く。
「ポルタには、顔が利くのよ。……利きすぎるくらい」
ネリが行く。
「印のない、鉄がどこに流れてるか。……ポルタの炉を見てみたい」
それだけしか、言わなかった。
サビナが、団の三人を連れて、行く。
「腕を買いたいって、言ったろう。……うちの、団の値段を聞きに行くのさ。雇い主の値段とは、別だよ」
ヤンが行く。道を見る者が要る。
ユノが、行く、と言った。
「ハルが、行くなら、行く」
それだけだった。
リュネは、少し黙っていた。
鍋の向こうのゴードンを見ていた。
「……ポルタには、本があるのよ」
リュネは、言った。
「紋の本。帝国のものじゃ、ない、本。……境目のことが、書いて、あるかも、しれない」
それから、ゴードンを見たまま、言った。
「でも、留守にしたら」
「行け」
ゴードンが言った。
椀を膝に置いたまま。
「本を読んで、帰ってこい。……俺の境目は、逃げねえ」
リュネは、唇を噛んだ。
「……逃げないって、わかってるから、行きたくないのよ」
小さな声だった。
マーサが、リュネの背中に手を置いた。
「行ってらっしゃい」
マーサは、言った。
「帰ってきたら、ちゃんと、言いなさい。……ただいま、って」
リュネは、長いこと、黙っていた。
それから、頷いた。
残る者も決まった。
焼け跡は、またウルリクが預かる。セラが門を見る。ベックが稽古場を見る。
その横に、樽に座った男と、年寄りの兵がいる。
「腕は」
最後にウルリクが言った。
「貸すのか」
ハルトは、首を振った。
「まだ決めません。……向こうで、値段を、聞いてから、帰ってきて、みんなに、言います」
ウルリクは、鼻を鳴らした。
「決めたら、全部、見せろ」
「はい」
それが、三つ目の約束だった。
天幕に戻ろうとした時、カーラがハルトの袖を引いた。
いつもの、笑い方では、なかった。
「盾の坊や」
カーラは、声を落とした。
「タデオがね。……今日、窪地を見に行ってたわよ」
ハルトは、振り返った。
窪地のほうに、小さな火が見えた。
「副将の旗の色の外套。将軍の古い兵。……それから、黒髪の三つ編みの娘」
カーラは、左手の指輪を一つ指で回した。
「あの人はね。見たものには、全部、値をつけるのよ」
「でも、首には、つけないって」
「首には、ね」
カーラは、言った。
「でも、将軍の娘がどこにいるか。……それは、首じゃ、ないでしょう」
ハルトは、窪地の火を見ていた。
ポルタには、今、銀の鎖の者たちがいる。
同じ秤で値をつける、と、タデオは言った。
どちらにも。




