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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第六章 鉄の値段

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第91話 秤

男は、タデオと名乗った。

朝の倉の前だった。

「名乗るのが遅れました。……昨夜は、盟主どのが、お疲れの、ようでしたので」

タデオは、そう言って、頭を下げた。

明るいところで、見ると、細い人だった。白髪のまじった、短い髪。地味な、旅の外套の下に黒い上着。帳場の人が、着るような。

首から、小さな、真鍮の分銅を一つ下げていた。

指先には、やっぱり、インクの染みがあった。

「ハルトです」

ハルトは、言った。

「知っています」

タデオは、微笑んだ。

「首に、値のついた、お名前ですから」


倉の扉を開けた。

延べ棒は、奥の壁ぎわに積んであった。煤けた、ままのものも、あった。

ノエラが帳面を開いた。

「二百、二」

ノエラは、言った。

「うち、三十二は、サビナさんの預かりです。……売り物では、ありません」

「承知しました」

タデオは、延べ棒の山の前にしゃがんだ。

一本手に取った。

両手で重さを確かめた。指の腹で表を撫でた。煤を少し拭って、色を見た。

それから、首の分銅に指を触れた。

一度だけ。

「帝国の鉄ですね」

「……はい」

「帝国の荷車から」

「はい」

ハルトは、嘘をつかなかった。

タデオは、頷いた。何も驚かなかった。

二本目を取った。三本目。

四本目でタデオの指が止まった。

延べ棒の端に小さな刻印があった。山の形を三つ重ねたような。

タデオは、その印を長く見ていた。

分銅に触れなかった。

「そっちは、だめ」

声がした。

ネリだった。倉の入口に立っていた。前掛けのまま。

「印のあるのは、売らない」

タデオは、ネリを見た。

それから、延べ棒をそっと山に戻した。

「承知しました」

それだけだった。

何も聞かなかった。

ハルトは、ネリを見た。ネリは、ハルトを見なかった。


タデオは、立ち上がった。外套の膝の煤を払った。

「百本で」

タデオは、言った。

「麦を荷車で十二台。塩を樽で六つ。布を二十反。……ポルタの相場です。帝国の印のある、鉄を、買う、危うさの分を引いて」

ノエラの炭筆が動いた。

ハルトは、数字を聞いていた。

麦が、荷車、十二台。

それが多いのか少ないのか、わからなかった。

「何を、いくらでお売りになりますか。盟主どの」

タデオがハルトを見た。

柔らかい目だった。

でも、逃がさない、目だった。

ハルトは、少し考えた。

「……みんなに、聞きます」

タデオの眉が少しだけ上がった。

「盟主どのが、値を決めないのですか」

「一人では、決めないんです」

ハルトは、言った。

「そう、約束したので」

タデオは、しばらくハルトを見ていた。

それから、分銅に触れた。

「……では、私も聞かせて、いただけますか。皆さんの声を」


昼の鍋の列だった。

ピムの鍋から、湯気が上がっていた。

ハルトは、鍋の前に立った。

タデオのことを話した。延べ棒、百本。麦と塩と布。

列が静かになった。

最初に口を開いたのは、ウルリクだった。

杖をついて、樽に座っていた。

「売るのか」

低い声だった。

「冬に、あの鉄を、守るのに、何を払ったか。……忘れたとは、言わせねえぞ」

誰も何も言わなかった。

列の後ろで、帝国の靴の四人が、うつむいていた。鞴(ふいご)を引いた四人だった。

「忘れてないです」

ハルトは、言った。

「だから、聞いてるんです」

ウルリクは、鼻を鳴らした。

でも、それ以上は、言わなかった。

「麦は、要るよ」

ピムが、鍋をかき混ぜながら言った。

「人が、増えたから。……横の人たちの分もある」

イゾルデの窪地にも、昨夜から、鍋を運んでいた。

「ノエラさん」

ハルトは、言った。

ノエラは、帳面を開いていた。

「麦は、このままだと、夏の前に尽きます」

平らな声だった。

「塩は、もっと、早いです。……百本で、麦が、荷車、十二台なら、秋の刈り入れまで届きます。ぎりぎり、ですが」

「なら、売るしか、ねえじゃねえか」

誰かが言った。

「鉄は、食えねえ」

「鉄が、なきゃ、盾も槍もねえ」

別の誰かが言った。

ネリが腕を組んだ。

「百本、出したら、炉に入れる分が減るよ。……ゴードンの盾は、打った。でも、穂先が足りない。若い人の分が」

ベックが杖で地面を叩いた。

「教わる側に、持たせる槍が、ねえのは、困る」

サビナが、椀を空にして、言った。

「預けた、三十二は、数に入れるんじゃないよ」

「入れてません」

ノエラが言った。

「知ってる。言ってみた、だけ」

ハルトは、全員の声を聞いていた。

誰も間違っていなかった。

(……全部、本当だ)

そう、思った。

麦も塩も要る。槍も要る。冬に、払ったものも、本当だ。

列の端でタデオが聞いていた。

椀を両手で持って。

ピムが、黙って渡した椀だった。


「値段を、言っても、いいですか」

ノエラが言った。

ハルトは、頷いた。

ノエラは、帳面を閉じずに、タデオを見た。

「百本で、麦、十二台。……ポルタの相場、と、おっしゃいました」

「はい」

「ベルナの去年の秋の相場なら、十五台です」

タデオは、微笑んだ。

「ベルナは、帝国の町です。帝国の鉄を、帝国の町で、売るのと、同じ値には、なりません」

「印の危うさの分を、三台、と、見たのですね」

「そのとおりです」

「なら、印のない、鉄を混ぜれば」

「この倉に、印のない、鉄は、ありません。……先ほど、拝見しました」

ノエラは、黙った。

炭筆が、帳面の上で止まった。

ハルトは、ノエラの横顔を見ていた。

数で負けた顔だった。

前にも見たことがある気がした。

タデオは、首の分銅に触れた。

「重さと、質と危うさ。……私の秤に、載るのは、それだけです。軍師どの」

ノエラは、しばらく動かなかった。

それから、帳面の頁をめくった。

前へ。ずっと前へ。

ハルトは、その手を見ていた。

ノエラの指が止まった。

夏の頁だった。字が少し乱れていた。

ノエラは、その頁を開いたまま、タデオの前に置いた。

「この鉄は、まだ軽すぎます」

ノエラは、言った。

「私の帳面では」

タデオが頁を見た。

ハルトも見た。

知っている、頁だった。

死者、一。

御者。北の村の人。名前、まだ。

「この鉄を、帝国の陣へ、運んでいた荷車の御者です」

ノエラは、言った。

「鎖で、御者台に繋がれていました。……私の策で、荷車が、落ちて、死にました」

列が静かになった。

ノエラの声は、平らだった。

でも、炭筆を持つ指が白かった。

「私は、計画の時に、その人を、荷車の数で数えていました」

ノエラは、頁をめくった。

今度は、冬の頁だった。

契約の頁。日付の書かれた、一つの名前。

サビナが椀を置いた。

「冬に、この鉄を、守った、戦いで、死んだ、人です」

ノエラは、言った。

「それから、鞴を、引いた、人たち。……革を、出した、人たち。煤の中から、一本ずつ、拾った、人たち」

ノエラは、列を見た。

ウルリクを。帝国の靴の四人を。ネリを。

一人ずつ。

「この鉄には、もう、払った、人がいます」

ノエラは、タデオに向き直った。

「重さで値をつけるなら。……その分も量って、ください」


誰も何も言わなかった。

鍋の湯気だけが上がっていた。

タデオは、頁を見ていた。

名前、まだのところを。

長く。

それから、首の分銅に指を伸ばした。

触れなかった。

指は、分銅の手前で止まった。

「……面白い、帳簿をおつけになる」

タデオは、言った。

柔らかい声のままだった。

「申し上げた、とおり、私の秤には、載りません。重さと、質と危うさ。……それ以外のものを、載せたら、秤が狂います」

ノエラは、黙っていた。

「ですから、値は、変えません。百本で、麦、十二台」

ハルトは、ノエラを見た。

ノエラは、動かなかった。

「ただ」

タデオは、帳面を閉じて、ノエラに返した。

丁寧に。両手で。

「人に、値を、つけるのは、私の仕事では、ありません。……議会の仕事です」

「議会」

ハルトは、言った。

「ポルタの商人組合の議会です」

タデオは、ハルトを見た。

「鉄の値は、私が決めました。でも、この倉の鉄には、それとは、別に、値が、ついている、らしい。……それを、量る秤は、ポルタに、しか、ありません」

タデオは、少し間を置いた。

「盟主どの。ご自分でポルタへ来て、いただけますか」

「俺がですか」

「はい。……人の値は、顔を、見なければ、つけられませんので」

タデオは、微笑んだ。

「それと、もう一つ。……私どもは、鉄だけでは、なく、人にも、値を、つけると、申しました」

タデオの目が列を見た。

サビナの団のほうを。ベックの横の若い、男たちのほうを。

「ポルタの荷は、街道でよく狙われます。……荷を、守る腕も買いたいのです」

サビナが、小さく口笛を吹いた。

「商売敵、だね」

「いいえ」

タデオは、首を振った。

「お客様、です」


その日は、決めなかった。

ハルトは、また聞くと言った。ポルタへ行くか。誰が行くか。腕を貸すか。

タデオは、急かさなかった。

「三日、待ちました。……もう、三日、待てます」

夜、ハルトは、ノエラの横に座った。

鍋の明かりの下だった。

ノエラは、帳面を開いていた。でも、何も書いていなかった。

「……どうして、あの頁を」

ハルトは、言った。

ノエラは、しばらく黙っていた。

「値段では、負けていました」

ノエラは、言った。

「ベルナの相場を、出した時点で。あの人は、最初から、全部、数えていました。……私と同じやり方で」

ノエラは、夏の頁を指でなぞった。

名前、まだのところを。

「同じやり方で、数える人には、同じやり方では、勝てません」

「だから、あの頁、ですか」

「……わかりません」

ノエラは、言った。

「勝つために、出したのか。……出さないと、いけない、気がしたのか」

ノエラの指が頁の上で止まった。

「前の私なら、出しませんでした」

小さな声だった。

「値段の話に、死んだ人を、持ち出すのは、数を、濁すことだと、思っていたので」

ハルトは、何も言わなかった。

言う、言葉がなかった。

でも、横にいた。

ノエラは、帳面を閉じた。

「値は、変わりませんでした」

「でも、ポルタに呼ばれました」

ハルトは、言った。

「……そうですね」

ノエラは、少しだけ顔を上げた。

笑っては、いなかった。

でも、さっきより、指が白くなかった。


天幕に戻る途中だった。

カーラの天幕の前にタデオが立っていた。

夜空を見ていた。

ハルトに、気づくと、頭を下げた。

「盟主どの」

「タデオさん」

「一つ、申し上げ忘れて、いました」

タデオは、首の分銅を指でつまんだ。

「ポルタには、今、帝国の方もいらして、います」

ハルトの足が止まった。

「細い銀の鎖を、胸に、下げた、方々です」

タデオは、柔らかい声のまま、言った。

「同じ鉄のことで。……あなたの首の値と一緒に」

タデオは、分銅から、指を離した。

「ポルタは、中立です。どちらにも、同じ秤で値をつけます。……ですから、お見えに、なるなら、それを、ご承知の上で」

天幕の中で、カーラが小さく笑う声がした。

ハルトは、右の手首の白い、組み紐を左手で押さえた。

(……みんなに、聞く)

首の値と鉄の値と人の値。

同じ秤には、載らない、ものばかりだった。

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