第91話 秤
男は、タデオと名乗った。
朝の倉の前だった。
「名乗るのが遅れました。……昨夜は、盟主どのが、お疲れの、ようでしたので」
タデオは、そう言って、頭を下げた。
明るいところで、見ると、細い人だった。白髪のまじった、短い髪。地味な、旅の外套の下に黒い上着。帳場の人が、着るような。
首から、小さな、真鍮の分銅を一つ下げていた。
指先には、やっぱり、インクの染みがあった。
「ハルトです」
ハルトは、言った。
「知っています」
タデオは、微笑んだ。
「首に、値のついた、お名前ですから」
倉の扉を開けた。
延べ棒は、奥の壁ぎわに積んであった。煤けた、ままのものも、あった。
ノエラが帳面を開いた。
「二百、二」
ノエラは、言った。
「うち、三十二は、サビナさんの預かりです。……売り物では、ありません」
「承知しました」
タデオは、延べ棒の山の前にしゃがんだ。
一本手に取った。
両手で重さを確かめた。指の腹で表を撫でた。煤を少し拭って、色を見た。
それから、首の分銅に指を触れた。
一度だけ。
「帝国の鉄ですね」
「……はい」
「帝国の荷車から」
「はい」
ハルトは、嘘をつかなかった。
タデオは、頷いた。何も驚かなかった。
二本目を取った。三本目。
四本目でタデオの指が止まった。
延べ棒の端に小さな刻印があった。山の形を三つ重ねたような。
タデオは、その印を長く見ていた。
分銅に触れなかった。
「そっちは、だめ」
声がした。
ネリだった。倉の入口に立っていた。前掛けのまま。
「印のあるのは、売らない」
タデオは、ネリを見た。
それから、延べ棒をそっと山に戻した。
「承知しました」
それだけだった。
何も聞かなかった。
ハルトは、ネリを見た。ネリは、ハルトを見なかった。
タデオは、立ち上がった。外套の膝の煤を払った。
「百本で」
タデオは、言った。
「麦を荷車で十二台。塩を樽で六つ。布を二十反。……ポルタの相場です。帝国の印のある、鉄を、買う、危うさの分を引いて」
ノエラの炭筆が動いた。
ハルトは、数字を聞いていた。
麦が、荷車、十二台。
それが多いのか少ないのか、わからなかった。
「何を、いくらでお売りになりますか。盟主どの」
タデオがハルトを見た。
柔らかい目だった。
でも、逃がさない、目だった。
ハルトは、少し考えた。
「……みんなに、聞きます」
タデオの眉が少しだけ上がった。
「盟主どのが、値を決めないのですか」
「一人では、決めないんです」
ハルトは、言った。
「そう、約束したので」
タデオは、しばらくハルトを見ていた。
それから、分銅に触れた。
「……では、私も聞かせて、いただけますか。皆さんの声を」
昼の鍋の列だった。
ピムの鍋から、湯気が上がっていた。
ハルトは、鍋の前に立った。
タデオのことを話した。延べ棒、百本。麦と塩と布。
列が静かになった。
最初に口を開いたのは、ウルリクだった。
杖をついて、樽に座っていた。
「売るのか」
低い声だった。
「冬に、あの鉄を、守るのに、何を払ったか。……忘れたとは、言わせねえぞ」
誰も何も言わなかった。
列の後ろで、帝国の靴の四人が、うつむいていた。鞴を引いた四人だった。
「忘れてないです」
ハルトは、言った。
「だから、聞いてるんです」
ウルリクは、鼻を鳴らした。
でも、それ以上は、言わなかった。
「麦は、要るよ」
ピムが、鍋をかき混ぜながら言った。
「人が、増えたから。……横の人たちの分もある」
イゾルデの窪地にも、昨夜から、鍋を運んでいた。
「ノエラさん」
ハルトは、言った。
ノエラは、帳面を開いていた。
「麦は、このままだと、夏の前に尽きます」
平らな声だった。
「塩は、もっと、早いです。……百本で、麦が、荷車、十二台なら、秋の刈り入れまで届きます。ぎりぎり、ですが」
「なら、売るしか、ねえじゃねえか」
誰かが言った。
「鉄は、食えねえ」
「鉄が、なきゃ、盾も槍もねえ」
別の誰かが言った。
ネリが腕を組んだ。
「百本、出したら、炉に入れる分が減るよ。……ゴードンの盾は、打った。でも、穂先が足りない。若い人の分が」
ベックが杖で地面を叩いた。
「教わる側に、持たせる槍が、ねえのは、困る」
サビナが、椀を空にして、言った。
「預けた、三十二は、数に入れるんじゃないよ」
「入れてません」
ノエラが言った。
「知ってる。言ってみた、だけ」
ハルトは、全員の声を聞いていた。
誰も間違っていなかった。
(……全部、本当だ)
そう、思った。
麦も塩も要る。槍も要る。冬に、払ったものも、本当だ。
列の端でタデオが聞いていた。
椀を両手で持って。
ピムが、黙って渡した椀だった。
「値段を、言っても、いいですか」
ノエラが言った。
ハルトは、頷いた。
ノエラは、帳面を閉じずに、タデオを見た。
「百本で、麦、十二台。……ポルタの相場、と、おっしゃいました」
「はい」
「ベルナの去年の秋の相場なら、十五台です」
タデオは、微笑んだ。
「ベルナは、帝国の町です。帝国の鉄を、帝国の町で、売るのと、同じ値には、なりません」
「印の危うさの分を、三台、と、見たのですね」
「そのとおりです」
「なら、印のない、鉄を混ぜれば」
「この倉に、印のない、鉄は、ありません。……先ほど、拝見しました」
ノエラは、黙った。
炭筆が、帳面の上で止まった。
ハルトは、ノエラの横顔を見ていた。
数で負けた顔だった。
前にも見たことがある気がした。
タデオは、首の分銅に触れた。
「重さと、質と危うさ。……私の秤に、載るのは、それだけです。軍師どの」
ノエラは、しばらく動かなかった。
それから、帳面の頁をめくった。
前へ。ずっと前へ。
ハルトは、その手を見ていた。
ノエラの指が止まった。
夏の頁だった。字が少し乱れていた。
ノエラは、その頁を開いたまま、タデオの前に置いた。
「この鉄は、まだ軽すぎます」
ノエラは、言った。
「私の帳面では」
タデオが頁を見た。
ハルトも見た。
知っている、頁だった。
死者、一。
御者。北の村の人。名前、まだ。
「この鉄を、帝国の陣へ、運んでいた荷車の御者です」
ノエラは、言った。
「鎖で、御者台に繋がれていました。……私の策で、荷車が、落ちて、死にました」
列が静かになった。
ノエラの声は、平らだった。
でも、炭筆を持つ指が白かった。
「私は、計画の時に、その人を、荷車の数で数えていました」
ノエラは、頁をめくった。
今度は、冬の頁だった。
契約の頁。日付の書かれた、一つの名前。
サビナが椀を置いた。
「冬に、この鉄を、守った、戦いで、死んだ、人です」
ノエラは、言った。
「それから、鞴を、引いた、人たち。……革を、出した、人たち。煤の中から、一本ずつ、拾った、人たち」
ノエラは、列を見た。
ウルリクを。帝国の靴の四人を。ネリを。
一人ずつ。
「この鉄には、もう、払った、人がいます」
ノエラは、タデオに向き直った。
「重さで値をつけるなら。……その分も量って、ください」
誰も何も言わなかった。
鍋の湯気だけが上がっていた。
タデオは、頁を見ていた。
名前、まだのところを。
長く。
それから、首の分銅に指を伸ばした。
触れなかった。
指は、分銅の手前で止まった。
「……面白い、帳簿をおつけになる」
タデオは、言った。
柔らかい声のままだった。
「申し上げた、とおり、私の秤には、載りません。重さと、質と危うさ。……それ以外のものを、載せたら、秤が狂います」
ノエラは、黙っていた。
「ですから、値は、変えません。百本で、麦、十二台」
ハルトは、ノエラを見た。
ノエラは、動かなかった。
「ただ」
タデオは、帳面を閉じて、ノエラに返した。
丁寧に。両手で。
「人に、値を、つけるのは、私の仕事では、ありません。……議会の仕事です」
「議会」
ハルトは、言った。
「ポルタの商人組合の議会です」
タデオは、ハルトを見た。
「鉄の値は、私が決めました。でも、この倉の鉄には、それとは、別に、値が、ついている、らしい。……それを、量る秤は、ポルタに、しか、ありません」
タデオは、少し間を置いた。
「盟主どの。ご自分でポルタへ来て、いただけますか」
「俺がですか」
「はい。……人の値は、顔を、見なければ、つけられませんので」
タデオは、微笑んだ。
「それと、もう一つ。……私どもは、鉄だけでは、なく、人にも、値を、つけると、申しました」
タデオの目が列を見た。
サビナの団のほうを。ベックの横の若い、男たちのほうを。
「ポルタの荷は、街道でよく狙われます。……荷を、守る腕も買いたいのです」
サビナが、小さく口笛を吹いた。
「商売敵、だね」
「いいえ」
タデオは、首を振った。
「お客様、です」
その日は、決めなかった。
ハルトは、また聞くと言った。ポルタへ行くか。誰が行くか。腕を貸すか。
タデオは、急かさなかった。
「三日、待ちました。……もう、三日、待てます」
夜、ハルトは、ノエラの横に座った。
鍋の明かりの下だった。
ノエラは、帳面を開いていた。でも、何も書いていなかった。
「……どうして、あの頁を」
ハルトは、言った。
ノエラは、しばらく黙っていた。
「値段では、負けていました」
ノエラは、言った。
「ベルナの相場を、出した時点で。あの人は、最初から、全部、数えていました。……私と同じやり方で」
ノエラは、夏の頁を指でなぞった。
名前、まだのところを。
「同じやり方で、数える人には、同じやり方では、勝てません」
「だから、あの頁、ですか」
「……わかりません」
ノエラは、言った。
「勝つために、出したのか。……出さないと、いけない、気がしたのか」
ノエラの指が頁の上で止まった。
「前の私なら、出しませんでした」
小さな声だった。
「値段の話に、死んだ人を、持ち出すのは、数を、濁すことだと、思っていたので」
ハルトは、何も言わなかった。
言う、言葉がなかった。
でも、横にいた。
ノエラは、帳面を閉じた。
「値は、変わりませんでした」
「でも、ポルタに呼ばれました」
ハルトは、言った。
「……そうですね」
ノエラは、少しだけ顔を上げた。
笑っては、いなかった。
でも、さっきより、指が白くなかった。
天幕に戻る途中だった。
カーラの天幕の前にタデオが立っていた。
夜空を見ていた。
ハルトに、気づくと、頭を下げた。
「盟主どの」
「タデオさん」
「一つ、申し上げ忘れて、いました」
タデオは、首の分銅を指でつまんだ。
「ポルタには、今、帝国の方もいらして、います」
ハルトの足が止まった。
「細い銀の鎖を、胸に、下げた、方々です」
タデオは、柔らかい声のまま、言った。
「同じ鉄のことで。……あなたの首の値と一緒に」
タデオは、分銅から、指を離した。
「ポルタは、中立です。どちらにも、同じ秤で値をつけます。……ですから、お見えに、なるなら、それを、ご承知の上で」
天幕の中で、カーラが小さく笑う声がした。
ハルトは、右の手首の白い、組み紐を左手で押さえた。
(……みんなに、聞く)
首の値と鉄の値と人の値。
同じ秤には、載らない、ものばかりだった。




