第9話 石の番人
洞窟は、奥へ進むほど、様相を変えていった。
最初のうちは、ただの湿った坑道だった。岩肌がむき出しで、壁には掘削の跡が残り、古い木の支柱が朽ちかけて立っていた。
けれど、泥の魔物を倒した先から、壁の質が変わった。
「……ここから先は、人が掘ったんじゃないわ」
リュネが、ランタンの灯りを壁に近づけた。
滑らかに磨かれた石の壁だった。継ぎ目はほとんど見えず、表面にはあの円形の紋様が、等間隔で刻まれている。入口のアーチにあったものと、同じ意匠だ。
けれど、その声には、いつもの自信がなかった。
(さっきの泥のこと、まだ引きずってるんだ)
「古い遺跡、ってことだよね」
「たぶん、ね」
リュネは、手帳を開こうとして、やめた。
指先が、かすかに震えている。
それを見なかったことにして、ハルトは前を向いた。
通路が、唐突に開けた。
四人は、足を止めた。
そこは、巨大な円形の広間だった。
天井は、闇に溶けて見えないほど高い。壁には、ぐるりと円を描くように、あの紋様が刻まれている。床は一面、磨かれた石の板が敷き詰められていた。
そして広間の中央に、それはいた。
「……像?」
ユノが、小さく呟いた。
それは、四つ足の獣の形をしていた。
獅子に近い。だが、大きさが違った。肩までの高さが、ハルトの背丈の三倍はある。体は灰色の岩でできていて、関節や首の付け根には、鈍い金属の板がはめ込まれていた。
岩と金属でできた、巨大な獣の像だった。
「石像、かしら。遺跡の飾りみたいな」
「動かないなら、ありがたいが」
カインが、一歩だけ前に出た。
大剣の柄に手をかけたまま、像を見上げている。
像は、動かなかった。
岩の瞼のない目は、広間の入口に向けられたまま、じっと固まっている。
けれど、ハルトは、妙な違和感を覚えた。
像の体のあちこちに、細いひびが走っている。左の前脚は、肘のあたりから大きく欠けていて、断面から、錆びた金属の棒が飛び出していた。背中の一部は、ぼこりと盛り上がり、歪な瘤になっている。
(壊れかけてる)
石像というより、傷ついた生き物のようだった。
「あれ……」
リュネが、囁いた。
「光ってる。ひびの隙間」
言われて目を凝らすと、確かに、岩の亀裂の奥から、青白い光が漏れていた。
さっき塔で見た、あの水晶と同じ色の光だった。
その光が、ゆっくりと、脈を打つように強くなっていく。
「……ねえ、これ、まずくない?」
ユノの言葉が、終わる前だった。
どぉん、と。
広間の床が、揺れた。
像の目に、光が灯った。
岩の下に埋まっていたはずの、青い光が、ぎらりと見開かれる。
ぎ、ぎ、ぎ、と。
石と金属の軋む音が、広間いっぱいに響いた。
巨大な頭が、ゆっくりと持ち上がる。
「下がれ!」
カインの声が飛んだ。
次の瞬間、獣が吠えた。
吠えた、のだと思う。
ただ、それは、獣の声ではなかった。岩と金属が擦れ合うような、耳を裂く不協和音の底に、何か、言葉のようなものが混じっていた。
――ひ……と……。
「え?」
ハルトは、思わず耳を疑った。
けれど、考える間はなかった。
獣が、床を蹴った。
地鳴りがした。
巨体が、信じられない速さで、こちらに向かってくる。
「散れ!」
四人は、左右に飛んだ。
さっきまで立っていた場所を、石の前脚が薙ぎ払う。
轟音。
石の板が砕け散り、破片が弾丸のように飛んだ。
ハルトは、盾を前に出して、顔を庇った。
衝撃が、盾に炸裂する。破片が叩きつけられるたびに、腕が痺れた。
「ユノ、牽制を!」
「わかってる!」
ユノの矢が、立て続けに放たれた。
獣の首筋、肩、前脚の欠けた断面。三本が、狙いどおりに突き刺さる。
けれど、獣は動きを止めなかった。
矢は、岩の表面に弾かれて、乾いた音を立てて落ちる。金属の継ぎ目に刺さった一本だけが、わずかに食い込んだが、獣は意に介さない。
「硬すぎる……!」
「継ぎ目だ! 関節を狙え!」
カインが、駆け出していた。
大剣を、肩に担ぐようにして構える。
獣の右前脚が、振り下ろされる。
カインは、半歩だけ横にずれた。
脚が、地面を叩く。
その腕の付け根めがけて、大剣を横薙ぎに叩き込んだ。
火花が散った。
金属の継ぎ目が、悲鳴をあげる。
だが、浅い。獣の体が、一瞬ぐらついただけだった。
「硬い……!」
カインが、後ろに跳んだ。
獣の頭が、ぐるりとカインを追う。
その時だった。
「待って、これ、おかしい……」
リュネの声が、後ろで聞こえた。
振り向くと、リュネが、広間の壁際に立ち尽くしていた。
杖を、胸の前で握りしめている。
顔が、真っ白だった。
「何、あれ。文献にない。理が、あんなふうに、歪むなんて」
「リュネ?」
「あの光。水の理でも、土の理でもない。もっと、根っこのほう……」
リュネの唇が、小刻みに震えていた。
「違う。計算が、合わない。あんなもの、理論に」
「リュネ、しっかりして!」
ユノが叫んだ。
けれど、リュネの耳には、届いていないようだった。
「水を、ぶつければ。いや、氷にして。ううん、さっきの泥と同じに、吸われるかもしれない。じゃあ、風? でも、私は風は」
早口で、同じ言葉が繰り返される。
杖の先端のガラスの筒が、かちゃかちゃと鳴っていた。
指が、震えているのだ。
ハルトは、はっとした。
泥の魔物の時とは、違う。
あの時は、驚いて固まっただけだった。
今は、違う。
リュネは、怖がっていた。
心の底から、怖がっていた。
「リュネ!」
ハルトは、駆け寄ろうとした。
その瞬間、獣の頭が、こちらを向いた。
青い光の目が、リュネを、捉えた。
(狙われてる)
獣が、前脚を振り上げた。
岩の巨大な塊が、リュネの頭上に、影を落とす。
「リュネ、逃げろ!」
ハルトは、叫んだ。
けれど、リュネは動かなかった。
大きな目を見開いたまま、振り上げられた脚を、見上げていた。
唇が、微かに動く。
「……あ」
声にならない声だった。
足が、床に縫いつけられたように、動かない。
ハルトは、盾を構えて、走った。
間に合うか。
間に合わない。
そう思った瞬間、横から、強い風が吹き抜けた。
灰色の外套が、翻る。
カインだった。
リュネと獣の間に、大剣を地面に突き立てるようにして、滑り込んでいた。
獣の前脚が、振り下ろされる。
カインは、大剣を両手で支え、その衝撃を真正面から受け止めた。
ごおん、と、鐘のような音が響いた。
床が、陥没した。
カインの膝が、わずかに沈んだ。
「カイン!」
「……来るなッ!」
カインが、叫んだ。
その横顔に、一瞬、ハルトは、信じられないものを見た。
カインの足元の石の床から、ひび割れが、放射状に走っていく。
彼の足の甲が、石の色に、染まりかけていた。




