第10話 震える手
「来るなッ!」
カインの叫びが、広間に反響した。
大剣の腹で、獣の前脚を受け止めたまま、カインは動かない。膝が沈み、足元の石の床には、蜘蛛の巣のようなひびが広がっている。
その足の甲が、確かに、灰色に変わっていた。
人の肌の色ではない。濡れた石の色だ。
(なに、あれ……)
ハルトは、足を止めた。
見間違いかと思って、目を凝らす。けれど、灰色は、足首のほうへ、じわり、じわりと這い上がっていた。
「ハル、リュネを連れて下がれ!」
「でも、カインの足が!」
「いいから、行け!」
カインの声は、苛立っていた。
こんなカインの声を、ハルトは聞いたことがなかった。
(俺が行ったら、カインは、一人であれを受け止めることになる)
足が、動かなかった。
「ハルト!」
ユノの声が、背中を叩いた。
「リュネを! 今、動けるのはあなただけよ!」
ユノは、広間の反対側から、立て続けに矢を放っていた。
獣の目を狙っている。矢は岩の瞼に弾かれるが、獣の頭が、苛立たしげにそちらへ揺れた。カインを押し潰そうとする力が、ほんの少しだけ、緩む。
(ユノ姉が、時間を稼いでる)
ハルトは、歯を食いしばった。
そして、リュネのもとへ走った。
リュネは、まだ、同じ場所に立っていた。
壁際で、杖を抱きしめるようにして、小さく震えている。
「リュネ!」
返事がない。
大きな目は、獣を映したまま、瞬きもしていなかった。
「リュネ、しっかりして! 聞こえる?」
「……て」
「え?」
「……計算、してたの」
かすれた声だった。
「あれを、倒す方法。全部、計算したの。水、氷、蒸気、風。何通りも。なのに」
リュネの唇が、青ざめている。
「全部、失敗する。頭の中で、全部、私が死ぬ形で、終わる」
ハルトは、息をのんだ。
(……そういうことか)
リュネは、固まっていたのではなかった。
考えすぎて、動けなくなっていたのだ。
理論を、頭の中で何度も試して、そのたびに、自分が死ぬ未来を見ていたのだ。
「私、知らなかった」
リュネは、震える手で、杖を見下ろした。
「理論が通じない相手に、会ったことがなかった。塔にこもってたから。実験は、いつも、私の思いどおりになった。爆発しても、それは、私の計算ミスで、直せば、よかった」
「リュネ……」
「今、初めて、わかったの。世界は、私の理論の外にもある」
目の端から、一粒、涙がこぼれた。
「怖い」
その言葉は、ひどく、小さかった。
「怖いの。足が、動かないの。どうしよう、ハルト、私」
ハルトは、何も考えずに、リュネの手を取っていた。
杖を握りしめた、冷たい指だった。
小さくて、細くて、爪が白くなるほど、力が入っている。
(こんなに、小さかったんだ)
塔で偉そうに黒板を叩いていた少女は、ハルトより、頭ひとつ低い。
十六歳なのに、ずっと、年上みたいに振る舞っていたのは。
きっと、怖かったからだ。
誰にも、頼れなかったからだ。
「リュネ」
ハルトは、できるだけ、ゆっくり言った。
「理論が、通じなくてもいい」
「え……?」
「俺、さっき、リュネの理論で戦えた。泥の魔物の時、刃の上だけで燃やすやり方、リュネが教えてくれたから、できたんだ」
リュネの目が、ゆっくりと、ハルトを見た。
「あれは、リュネの理論が、俺の中で、生きてたってことでしょ。通じなかったんじゃない。リュネの理論は、ちゃんと、俺たちを助けてるよ」
「……でも、今は」
「今は、俺たちが、リュネを助ける番だ」
ハルトは、握った手に、ぎゅっと力を込めた。
「一人で計算しなくていい。一緒に、考えよう。……まずは、ここから、離れる」
リュネは、唇を震わせた。
何かを言おうとして、言葉にならず、小さく頷いた。
足が、一歩、動いた。
その時だった。
ぎい、と、獣が声をあげた。
ハルトは、反射的に振り向いた。
獣の頭が、広間の中央から、ぐるりとこちらを向いていた。
ユノの矢に気を取られていたはずなのに。青い光の目は、まっすぐ、リュネとハルトを見ている。
そして、あの音が、また聞こえた。
――か……え……れ……。
「今、の」
ユノが、息をのんだ。
「帰れ、って、言ってない?」
「え?」
「聞こえた。確かに。『帰れ』って」
(帰れ……?)
ハルトの胸の奥で、何かが、ひっかかった。
襲ってくる魔物が、帰れ、と言うだろうか。
言葉を、話す魔物など、聞いたことがない。
けれど、考える暇は、なかった。
獣の後脚が、床を蹴った。
巨体が、跳ねた。
カインの大剣を振りほどき、一気に、リュネたちのほうへ跳んでくる。
「リュネ、伏せろ!」
ハルトは、リュネの前に、盾を構えた。
石の前脚が、頭上に迫る。
(受けきれない)
直感した。
さっきの泥の魔物とは、桁が違う。盾ごと、骨まで砕かれる。
(でも、後ろには、リュネが)
足を踏みしめた。
奥歯を噛む。
来る。
目を閉じた、その瞬間。
地面が、せり上がった。
ハルトの目の前に、巨大な土の壁が、轟音を立てて立ち上がったのだ。
獣の前脚が、壁に激突した。
ごぉん。
壁が砕ける。だが、衝撃の大半は、そこで消えた。
「……カイン!」
壁の向こうに、カインが立っていた。
大剣を地面に突き立て、片膝をついている。
その右足は、ふくらはぎまで、石になっていた。
肌の色が、完全に失われている。足首から先は、本物の岩のように、固まって見えた。
「ハル」
カインは、顔を上げた。
額に、びっしりと汗が浮かんでいる。
唇が、青い。
それでも、その目だけは、穏やかだった。
「リュネを、連れて逃げろ」
「カイン、足が! なんで、そんな」
「大したことはない」
(嘘だ)
ハルトは、思った。
(絶対に、嘘だ)
けれど、それを口にすることは、できなかった。
カインの目が、ハルトを、まっすぐに見ていたからだ。
昔から、変わらない目だった。
橋の上で、「俺がやった」と言った時と、同じ目。
小川で、足首を捻って、笑った時と、同じ目。
(カインは、いつも、こうだ)
ハルトは、唇を噛んだ。
(自分の痛みを、全部、笑顔の下に隠して)
「……っ、わかった」
声が、震えた。
「リュネを連れて、下がる。でも、すぐ戻る。絶対に、戻るから」
「ああ。頼んだ」
カインは、短く笑った。
ハルトは、リュネの手を握り直した。
「走れる?」
「……うん」
「行こう」
二人は、駆け出した。
広間の出口へ。
背中の向こうで、獣の咆哮が、洞窟を揺らした。
その声の中に、また、あの言葉が混じっていた。
――か……え……れ……。
ハルトは、振り返らなかった。
ただ、握ったリュネの手の冷たさだけを、強く、強く感じていた。




