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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第一章 夜明け前の橋

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第10話 震える手

「来るなッ!」

カインの叫びが、広間に反響した。

大剣の腹で、獣の前脚を受け止めたまま、カインは動かない。膝が沈み、足元の石の床には、蜘蛛の巣のようなひびが広がっている。

その足の甲が、確かに、灰色に変わっていた。

人の肌の色ではない。濡れた石の色だ。

(なに、あれ……)

ハルトは、足を止めた。

見間違いかと思って、目を凝らす。けれど、灰色は、足首のほうへ、じわり、じわりと這い上がっていた。

「ハル、リュネを連れて下がれ!」

「でも、カインの足が!」

「いいから、行け!」

カインの声は、苛立っていた。

こんなカインの声を、ハルトは聞いたことがなかった。

(俺が行ったら、カインは、一人であれを受け止めることになる)

足が、動かなかった。

「ハルト!」

ユノの声が、背中を叩いた。

「リュネを! 今、動けるのはあなただけよ!」

ユノは、広間の反対側から、立て続けに矢を放っていた。

獣の目を狙っている。矢は岩の瞼に弾かれるが、獣の頭が、苛立たしげにそちらへ揺れた。カインを押し潰そうとする力が、ほんの少しだけ、緩む。

(ユノ姉が、時間を稼いでる)

ハルトは、歯を食いしばった。

そして、リュネのもとへ走った。


リュネは、まだ、同じ場所に立っていた。

壁際で、杖を抱きしめるようにして、小さく震えている。

「リュネ!」

返事がない。

大きな目は、獣を映したまま、瞬きもしていなかった。

「リュネ、しっかりして! 聞こえる?」

「……て」

「え?」

「……計算、してたの」

かすれた声だった。

「あれを、倒す方法。全部、計算したの。水、氷、蒸気、風。何通りも。なのに」

リュネの唇が、青ざめている。

「全部、失敗する。頭の中で、全部、私が死ぬ形で、終わる」

ハルトは、息をのんだ。

(……そういうことか)

リュネは、固まっていたのではなかった。

考えすぎて、動けなくなっていたのだ。

理論を、頭の中で何度も試して、そのたびに、自分が死ぬ未来を見ていたのだ。

「私、知らなかった」

リュネは、震える手で、杖を見下ろした。

「理論が通じない相手に、会ったことがなかった。塔にこもってたから。実験は、いつも、私の思いどおりになった。爆発しても、それは、私の計算ミスで、直せば、よかった」

「リュネ……」

「今、初めて、わかったの。世界は、私の理論の外にもある」

目の端から、一粒、涙がこぼれた。

「怖い」

その言葉は、ひどく、小さかった。

「怖いの。足が、動かないの。どうしよう、ハルト、私」

ハルトは、何も考えずに、リュネの手を取っていた。

杖を握りしめた、冷たい指だった。

小さくて、細くて、爪が白くなるほど、力が入っている。

(こんなに、小さかったんだ)

塔で偉そうに黒板を叩いていた少女は、ハルトより、頭ひとつ低い。

十六歳なのに、ずっと、年上みたいに振る舞っていたのは。

きっと、怖かったからだ。

誰にも、頼れなかったからだ。

「リュネ」

ハルトは、できるだけ、ゆっくり言った。

「理論が、通じなくてもいい」

「え……?」

「俺、さっき、リュネの理論で戦えた。泥の魔物の時、刃の上だけで燃やすやり方、リュネが教えてくれたから、できたんだ」

リュネの目が、ゆっくりと、ハルトを見た。

「あれは、リュネの理論が、俺の中で、生きてたってことでしょ。通じなかったんじゃない。リュネの理論は、ちゃんと、俺たちを助けてるよ」

「……でも、今は」

「今は、俺たちが、リュネを助ける番だ」

ハルトは、握った手に、ぎゅっと力を込めた。

「一人で計算しなくていい。一緒に、考えよう。……まずは、ここから、離れる」

リュネは、唇を震わせた。

何かを言おうとして、言葉にならず、小さく頷いた。

足が、一歩、動いた。

その時だった。


ぎい、と、獣が声をあげた。

ハルトは、反射的に振り向いた。

獣の頭が、広間の中央から、ぐるりとこちらを向いていた。

ユノの矢に気を取られていたはずなのに。青い光の目は、まっすぐ、リュネとハルトを見ている。

そして、あの音が、また聞こえた。

――か……え……れ……。

「今、の」

ユノが、息をのんだ。

「帰れ、って、言ってない?」

「え?」

「聞こえた。確かに。『帰れ』って」

(帰れ……?)

ハルトの胸の奥で、何かが、ひっかかった。

襲ってくる魔物が、帰れ、と言うだろうか。

言葉を、話す魔物など、聞いたことがない。

けれど、考える暇は、なかった。

獣の後脚が、床を蹴った。

巨体が、跳ねた。

カインの大剣を振りほどき、一気に、リュネたちのほうへ跳んでくる。

「リュネ、伏せろ!」

ハルトは、リュネの前に、盾を構えた。

石の前脚が、頭上に迫る。

(受けきれない)

直感した。

さっきの泥の魔物とは、桁が違う。盾ごと、骨まで砕かれる。

(でも、後ろには、リュネが)

足を踏みしめた。

奥歯を噛む。

来る。

目を閉じた、その瞬間。

地面が、せり上がった。

ハルトの目の前に、巨大な土の壁が、轟音を立てて立ち上がったのだ。

獣の前脚が、壁に激突した。

ごぉん。

壁が砕ける。だが、衝撃の大半は、そこで消えた。

「……カイン!」

壁の向こうに、カインが立っていた。

大剣を地面に突き立て、片膝をついている。

その右足は、ふくらはぎまで、石になっていた。

肌の色が、完全に失われている。足首から先は、本物の岩のように、固まって見えた。

「ハル」

カインは、顔を上げた。

額に、びっしりと汗が浮かんでいる。

唇が、青い。

それでも、その目だけは、穏やかだった。

「リュネを、連れて逃げろ」

「カイン、足が! なんで、そんな」

「大したことはない」

(嘘だ)

ハルトは、思った。

(絶対に、嘘だ)

けれど、それを口にすることは、できなかった。

カインの目が、ハルトを、まっすぐに見ていたからだ。

昔から、変わらない目だった。

橋の上で、「俺がやった」と言った時と、同じ目。

小川で、足首を捻って、笑った時と、同じ目。

(カインは、いつも、こうだ)

ハルトは、唇を噛んだ。

(自分の痛みを、全部、笑顔の下に隠して)

「……っ、わかった」

声が、震えた。

「リュネを連れて、下がる。でも、すぐ戻る。絶対に、戻るから」

「ああ。頼んだ」

カインは、短く笑った。

ハルトは、リュネの手を握り直した。

「走れる?」

「……うん」

「行こう」

二人は、駆け出した。

広間の出口へ。

背中の向こうで、獣の咆哮が、洞窟を揺らした。

その声の中に、また、あの言葉が混じっていた。

――か……え……れ……。

ハルトは、振り返らなかった。

ただ、握ったリュネの手の冷たさだけを、強く、強く感じていた。

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