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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第一章 夜明け前の橋

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第11話 背中

通路の曲がり角まで来て、ハルトはようやく足を止めた。

背後から、広間の轟音が、石の壁を伝って響いてくる。リュネの手は、まだ冷たいままだった。

「ここで待ってて」

ハルトは、リュネの肩をそっと壁際に座らせた。

「俺、戻る」

「……戻るの」

「カインとユノ姉が、まだ中にいる」

リュネは、唇を噛んだ。

ハルトの袖を、指先が弱く掴んでいる。

「あの人の足」

「うん」

「石になってた。あんなの、地の基本紋の代償じゃない。聞いたこともない」

「……うん」

「そんな代償を、払って。それで、平気な顔して」

リュネの声は、震えていた。

怯えだけではなかった。怒りに近い何かが、そこに混じっていた。

「あんた、止められるの。あの人を」

ハルトは、答えられなかった。

止められるのか。

(止められたことが、一度でもあったか)

橋の上でも、小川でも、孤児院でも。

カインは、いつも、笑って先へ行ってしまった。

「……わからない」

正直に言った。

「でも、一人にはしない」

リュネは、ハルトの袖から、ゆっくりと手を離した。

「……行って」

小さな声だった。

「死んだら、許さないから」

「うん」

ハルトは、盾を持ち直して、駆け出した。


広間の入口に戻った時、ハルトは息をのんだ。

カインが、膝をついていた。

大剣を床に突き立て、その柄に額を預けるようにして、うずくまっている。右足は、膝のあたりまで、完全に石になっていた。肌の色は消え、灰色の岩肌が、衣の裾から覗いている。

そして、広間の床が、動いていた。

カインの足元から、石の床が波打つように盛り上がり、這うように中央へ伸びている。その先で、獣の四本の脚に、石の鎖が絡みついていた。

床そのものが、鎖になっていた。

獣が、身をよじる。

石と石が擦れる悲鳴のような音が、広間に響き渡った。

「カイン!」

「……ハル、か」

カインは、顔を上げなかった。

額に汗が滴り落ちている。唇は、紙のように白かった。

「何をしてるの、それ」

「床を、借りてる。長くは、保たない」

声が、掠れていた。

「ユノ姉は」

「ここよ!」

広間の反対側の柱の陰から、ユノが顔を出した。

走ってきたのか、肩で息をしている。右手の短杖が、淡く光っていた。

「カインの周りに、風を流してるの。熱を逃がしてる。でも、追いつかない。石になるのが、早すぎる」

(ユノ姉が、手当てしてるのに)

ハルトは、拳を握った。

獣の脚の鎖が、みしり、と鳴った。

一本が、ひびを走らせている。

「長くは、保たない」

カインが、繰り返した。

「ハル、ユノを連れて、今のうちに、出ろ」

「カインも、一緒に」

「俺は、最後に出る。この鎖を、離さないと、あれは追ってくる」

「それなら、俺が引きつける!」

ハルトは、言い返していた。

「俺が、獣の注意を引く。その間に、カインは鎖を離して、走って。そうすれば」

「ハル」

「間に合うでしょ!」

カインが、初めて顔を上げた。

その目が、ハルトを見た。

驚いたような、困ったような、それでいて、どこか嬉しそうな顔だった。

「……お前が、そんなことを言うようになったか」

「いいから、俺に任せて!」

「無茶はするな。三十数える間だけだ。いいな」

「わかった!」

ハルトは、盾を構えて、駆け出した。


獣は、鎖に縛られながらも、頭だけは自由に動いた。

青い光の目が、ぎょろりと、こちらを向く。

(怖い)

ハルトは、正直に思った。

足がすくむ。心臓が、喉元までせり上がってくる。

けれど、さっき、リュネの手を握った時の冷たさが、まだ掌に残っていた。

(あの手を、あんなふうに震わせたままにはしない)

「こっちだ! こっちを見ろ!」

盾を、思い切り叩いた。

がん、と、金属の音が広間に響く。

獣の頭が、反応した。

首が、ぐるりと伸びる。

岩の顎が、開いた。

(来る)

ハルトは、壁際へ走った。

獣の顎が、さっきまで立っていた床を噛み砕く。石の欠片が、顔に飛んだ。

「ユノ姉、今だ!」

ユノの矢が、獣の目をかすめた。

獣が、苛立ったように頭を振る。

その隙に、ハルトは、横へ跳んだ。

数えた。

一、二、三。

獣の首が、追ってくる。

壁を蹴って、柱の裏へ滑り込む。石の牙が、柱の角を削った。

十、十一、十二。

盾に、衝撃。

受けきれずに、膝をつく。

右手の剣に、火を灯した。静かな炎。刃の上だけの、薄い膜。

(燃える物。燃やす空気。火種)

獣の眼の下を、薙いだ。

火花が散る。

岩の瞼が、焦げて黒ずんだ。

獣の頭が、苦しげに仰け反る。

二十、二十一。

「ハル!」

カインの声が、聞こえた。

「もう、いい。下がれ!」

ハルトは、振り向いた。

カインが、床に突き立てた大剣を支えにして、立ち上がっていた。

右足は、石のままだった。それでも、その左足だけで、立っている。

そして、大剣を引き抜いた。

「全員、出ろ!」

床の鎖が、ぱきん、と音を立てて砕けた。

獣の脚が、解き放たれる。

けれど、その直前。

カインは、大剣を高く振り上げ、広間の天井へ、叩きつけるように突き刺した。

違う。

天井ではない。

出口の通路の、上の石の梁だった。

「崩れろ!」

どぉん、と、腹の底に響く音がした。

梁が裂け、天井から、石の塊が降り注ぐ。

通路の入口が、一瞬で、瓦礫の山に埋まった。

獣の姿が、その向こうに、遮られる。

ハルトとユノは、その寸前で通路へ飛び込んでいた。

カインは。

「カイン!」

瓦礫の向こうに、まだ、カインの姿があった。

石になった右足を引きずりながら、一歩、一歩、こちらへ歩いてくる。

最後の梁が、背後で崩れ落ちる。

ハルトは、手を伸ばした。

その手を、カインが、掴んだ。

引っぱった。

瓦礫が、背中のすぐ後ろで、轟音とともに、通路を完全に塞いだ。


静寂が、戻った。

粉塵が、ゆっくりと降り積もっていく。

三人は、通路の床に座り込んでいた。

ハルトは、肩で息をしていた。ユノは、カインの隣にしゃがんで、短杖で何かを必死に流し続けている。

カインは、壁に背を預けて、目を閉じていた。

「カイン」

「……大丈夫だ」

また、それだった。

ハルトは、何か言い返そうとして、飲み込んだ。

あの瓦礫の向こうで、獣は、どうなったのだろう。

あの時、獣の目が、最後に見えた。

追ってこなかった。

鎖が砕けた後も、動けたはずなのに。

ただ、じっと、こちらを見ていた。

(あの目は、襲ってくる目じゃなかった)

そんな気がした。

けれど、確かめる術は、もうなかった。


洞窟の外に出た時には、空が、茜色に染まっていた。

リュネが、入口の石のアーチの下で、膝を抱えて待っていた。

ハルトたちの姿を見つけると、立ち上がって、駆け寄ってきた。

「……ばか」

そう言った声は、涙で濡れていた。

「戻ってくるのが、遅いのよ」

「ごめん」

「許さないって、言ったでしょ」

「うん。でも、死んでないから」

リュネは、拳でハルトの胸を、軽く叩いた。

それから、カインの方へ向き直った。

カインは、入口の脇の石に腰を下ろしていた。

右足を投げ出している。ズボンの裾が裂けて、灰色の足首が覗いていた。

リュネが、その足を、じっと見つめた。

「あんた、それ」

「石化は、じきに戻る。毎回、そうだ」

「毎回?」

リュネの声が、鋭くなった。

「毎回って、何」

カインは、一瞬だけ、言葉に詰まった。

それから、苦笑した。

「口が滑った」

「……ふうん」

リュネは、何も言わなかった。

ただ、彼女の目が、静かに、細くなった。

先ほどまでの怯えは、そこになかった。

代わりに、鋭い、研究者の目が、宿っていた。

茜色の光の中で、カインの足の灰色が、ゆっくりと、肌の色に戻り始めていた。

まるで、何もなかったかのように。

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