第12話 半分こと、ひとり
夕焼けが、丘の稜線を赤く縁取っていた。
洞窟の入口の石のアーチの前に、四人は輪になって座っていた。
地面の草が、ひんやりと湿っている。戦いの熱が引いて、ハルトの体には、ようやく疲れが降りてきていた。左腕は、まだ盾の重さを覚えているように、じんじんと痺れている。
ユノが、背負い袋から小さな包みを取り出した。
「お昼の残りの干し果物。これだけしかないけれど」
包みを開くと、乾いた杏が、四つ入っていた。
ユノは、迷わず一つを手に取って、二つに割った。
「はい」
「え、私はいいわよ」
「いいの。はい、半分こ」
リュネは、困ったように眉を下げて、ちぎられた欠片を受け取った。
次に、ユノは二つ目を割って、ハルトに。
三つ目を割って、カインに。
「俺は――」
「半分こ、でしょ」
ユノが、にっこり笑った。
カインは、何か言いかけて、口を閉じた。
差し出された半分の杏を、黙って受け取る。
その指先は、ほんの少し、震えていた。
石になっていた足は、もう、すっかり元の肌色に戻っている。裂けた裾の下から覗く足首には、傷ひとつなかった。
しばらく、誰も何も言わなかった。
干し果物の甘酸っぱさが、疲れた体に染み渡っていく。
リュネは、膝を抱えたまま、ずっとカインの足を見つめていた。
そして、ぽつりと言った。
「ねえ、話があるの」
「……リュネ?」
「理論の話。少しだけ、聞いて」
リュネは、足元の小石を拾って、地面に円を描いた。
「代償っていうのは、桶に注がれる水みたいなものなの」
白い指が、円の中に、波線を描き込む。
「理を書き換えるたびに、世界から、水が注がれる。桶が溢れたら、その人は壊れる。これが、基本」
「壊れる?」
「体温、感覚、記憶。何を失うかは、ひとそれぞれ。でも、桶は小さい。みんな、小さいの」
小石が、円の隣に、もう二つ、小さな円を描いた。
「ここで、大事なのは」
リュネは、顔を上げた。
「同じ量の水でも、桶の数を増やせば、溢れない。三つの桶に分ければ、一つあたりは、三分の一で済む。これが、代償の分担」
「分担、って」
ユノが、目を瞬かせた。
「私の半分こと、同じことね」
「そう。だから、あんたの口癖は、理論的に、正しいの」
リュネは、ほんの少しだけ、口の端を持ち上げた。
「でも」
その声が、低くなった。
「逆も、あるの。一つの桶に、水を集めすぎると」
小石の先が、最初の円の中を、ぐるぐると塗りつぶした。
「溢れる、だけじゃ済まない。桶の底が、抜ける。一度底が抜けた桶は、水を溜められなくなって、何もかもが、そこをすり抜けていく」
静かな声だった。
けれど、その言葉は、ハルトの胸に重く落ちた。
「つまり」
リュネは、カインを見た。
「あんたのやり方は、桶の底を、自分で削ってるのよ」
カインは、杏を持った手を、止めていた。
「あんたが洞窟で払った代償。石化は、あんたの紋の通常の範囲を、遥かに超えてる。それを、毎回、一人で受けているなら」
「毎回、じゃない」
「口が滑ったって、言ったじゃない」
リュネの声が、鋭くなった。
「あんたの桶は、もう、とっくに限界のはずなの。それなのに、どうして立っていられるのか、私にはわからない。わからないから、怖いのよ」
最後の言葉は、震えていた。
洞窟の中で見せた、あの怯えとは、また違う震えだった。
(リュネは、カインの心配をしてるんだ)
ハルトは、はっとした。
出会って、まだ二日。
それなのに、リュネは、カインのために、怒っていた。
カインは、しばらく、黙っていた。
夕焼けの光が、その横顔を赤く染めている。
やがて、カインは、静かに言った。
「リュネ。理論は、おそらく正しい」
「でしょ」
「だが、俺は、慣れている」
「慣れの問題じゃ」
「慣れの問題だ」
カインは、穏やかに、けれど、はっきりと遮った。
「ハルやユノが、俺と同じ代償を払ったら、どうなる」
「それは」
「石になった足が、元に戻るのは、俺だけだ。ハルの指先は、半日は鈍ったままだ。ユノの耳も、同じだ。それなら」
カインは、ハルトとユノを、順に見た。
その目は、優しかった。
優しすぎて、ハルトは、胸が苦しくなった。
「俺が、まとめて引き受けたほうが、いい」
「それは、違う!」
ハルトは、思わず声を上げていた。
自分でも、驚くほど、大きな声だった。
「違うって、何が」
「だって、それじゃ、カインだけが」
言葉が、うまく出てこなかった。
胸の奥で、何かが渦を巻いている。
言いたいことは、あるのに。
橋の上で、「俺がやった」と言ったカインの背中。
小川で、足首を捻って、笑ったカインの横顔。
洞窟で、石になりながら、一人で立っていたカインの姿。
全部、全部、同じだった。
(カインは、ずっと、こうやって、俺たちを守ってくれていた)
守られていた。
それは、嬉しいことだった。
けれど、同時に、ひどく、悔しかった。
「カインだけが、痛いのは、嫌だ」
結局、出てきたのは、子供みたいな言葉だった。
「それは、守るって言わない。ただ、俺たちが、見てるだけだ」
カインは、目を見開いた。
ユノが、そっと、ハルトの背中に手を添えた。
「ハルの言うとおりよ、カイン」
静かな声だった。
「私たちは、守られるために、あなたの隣にいるんじゃないの。一緒に、持つために、いるのよ」
「ユノ」
「全部は、ひとりで持てないの。それが、人間なの」
カインの手の中で、杏が、きゅっと握りしめられた。
その指の関節が、白くなっている。
「……俺は」
カインは、言葉を探すように、唇を動かした。
「持てるんだ。持てるのに」
「持てても、持たなくていいことって、あるでしょ」
ユノは、微笑んだ。
「ね、カイン」
カインは、答えなかった。
ただ、ゆっくりと、視線を落とした。
その横顔は、どこか、迷子の子供みたいに見えた。
夕日が、丘の向こうに沈みかけていた。
東の空には、もう、一番星が瞬いている。
カインが、立ち上がった。
「日が暮れる。戻ろう」
「カイン」
「大丈夫だ。ちゃんと、考える」
そう言った声は、いつもの、穏やかなカインの声だった。
けれど、本当に、考えてくれるのだろうか。
ハルトは、不安だった。
(今日は、きっと、変わらない)
明日も、きっと、同じように、カインは笑って、一人で背負うのだろう。
それでも。
ハルトは、腰の水筒を外して、カインの前に差し出した。
「飲んで」
「俺は、いい」
「半分こ」
ハルトは、水筒を、まっすぐ突きつけた。
「ユノ姉の口癖、俺にも言わせて」
カインは、目を丸くした。
それから、ふっと、息を吐いた。
肩の力が、ほんの少しだけ、抜けたように見えた。
「……ずるいな、お前も」
「ずるくない」
「いつの間に、そんなことを覚えた」
カインは、水筒を受け取って、一口だけ飲んだ。
そして、半分ほど水の残った水筒を、ハルトに返した。
「半分、な」
「うん」
(たった、それだけのことなのに)
ハルトは、水筒を握りしめた。
(今日は、これでいい)
その時だった。
「……待って」
リュネの声が、後ろから聞こえた。
振り向くと、リュネが、洞窟の入口の瓦礫の前に、しゃがみ込んでいた。
崩れた石の隙間に、何かが挟まっている。
リュネの指が、そっと、それを引き抜いた。
手のひらに載るほどの、小さな破片だった。
青白い光を内側に湛えた、硝子のような欠片。
広間で見た、あの獣の目の光と、同じ色をしていた。
「……何、これ」
リュネは、欠片を夕焼けにかざした。
欠片の中で、光が、ゆっくりと、脈を打っている。
その表面には、細い線が、びっしりと、刻まれていた。
文字のようにも、紋様のようにも見える。
「こんなもの、文献にない」
リュネの声が、掠れた。
「これ、誰が、何のために」
ハルトは、その欠片を、覗き込んだ。
夕焼けの光の中で、青白い輝きだけが、静かに、まるで、生きているかのように、瞬いていた。




