第13話 建前
翌朝、ベルナの空は、よく晴れていた。
昨夜、洞窟から戻る道すがら、リュネは言った。
――明日の朝、塔に来て。これ、調べておくから。
それだけ言って、あの青白い欠片を抱えたまま、塔へ駆け込んでいった。
「寝てないんじゃないかしら、あの子」
石畳の坂を上りながら、ユノが心配そうに呟く。
「たぶん、寝てない」
ハルトが答えると、隣を歩くカインが、小さく笑った。
「実験のことになると、時間を忘れるタイプだな」
その歩き方は、昨日までと変わらなかった。右足を引きずる様子もない。石になっていた足は、昨日の夕方のうちに、すっかり元に戻っていた。
(本当に、何事もなかったみたいだ)
ハルトは、その背中を見ながら、昨夜の言葉を思い出していた。
――毎回、そうだ。
あれは、何回目の「毎回」なのだろう。
聞くべきか、聞かざるべきか。
答えが出ないうちに、塔の扉の前に着いた。
扉は、半開きだった。
「リュネ? 入るわよ」
ユノが声をかけると、奥から、くぐもった返事があった。
「……開いてる。勝手に入って」
中は、昨日にも増して散らかっていた。
床には、丸めた紙が散乱している。黒板は、見たことのない図形と数式で、隙間なく埋まっていた。机の上のランプは、油が切れかけて、ちろちろと頼りなく揺れている。
その机に突っ伏すようにして、リュネが座っていた。
目の下に、薄い隈ができている。髪は、あちこち跳ねていた。
「おはよう。……徹夜?」
「そんなわけないでしょ。ちゃんと、一時間は寝たわ」
「それは寝たって言わない」
ユノが呆れた顔で、窓を開けた。
朝の風が、紙の山を揺らす。
リュネは、むくりと顔を上げて、机の上のガラスの覆いを指さした。
「見て」
覆いの下に、あの欠片が置かれていた。
朝の光の中でも、青白い光は、変わらずに脈を打っている。
「結論から言うわ」
リュネは、黒板の前に立って、白墨を握った。
「わからない」
「え」
「全部、わからなかった。材質は石でも水晶でも金属でもない。刻まれた線は、どの古文書の文字とも一致しない」
悔しそうに、白墨がかつんと鳴る。
「ただ、一つだけ。線の組み方が、紋章の構造式に似てるの」
「紋章に?」
「そう。魔法を安定させるための、理の書式。ほとんど同じ癖が出てる。でも、どの系統にも当てはまらない。火でも水でも風でも土でもない」
リュネは、黒板に二つの図形を並べて描いた。
左は、一昨日、授業で見た紋章の構造。
右は、欠片の表面の線を写し取ったもの。
見比べると、確かに、似ているように見える。
けれど、右の図形のほうが、ずっと複雑で、深い。
「それって」
ハルトは、少し考えてから言った。
「普通の紋章より、もっと昔の、もっと大きな何か、ってこと?」
「……そう、考えるのが、自然ね」
リュネは、ハルトを見て、少しだけ目を瞠った。
「あんた、時々、変なところで鋭いわね」
「時々、って」
「褒めてるのよ」
そっぽを向いて、つっけんどんに言う。
その耳が、少し赤かった。
「それと、もう一つ」
リュネは、欠片のほうへ歩いていった。
「昨日、夕焼けの下で見た時は、一定の間隔で脈を打ってた。でも、今朝、あんたたちが部屋に入った時から」
そっと、覆いを持ち上げる。
「脈が、速くなってるの」
三人の視線が、欠片に集まった。
確かに、青白い光の点滅が、さっきより速い。
まるで、何かに呼ばれているかのように。
「ちょっと、順番に近づいてみてくれる? 一人ずつ」
リュネが言った。
まず、ユノが一歩前に出た。光は、変わらない。
次に、ハルトが前に出た。
光が、ちかり、と揺らいだ。
「あ、今、ちょっと」
「静かに」
リュネが、手帳に何かを書き込む。
最後に、カインが前に出た。
光が、また、ちかり、と揺らいだ。
ハルトの時と、同じくらいの揺らぎだった。
「……二人とも、か」
リュネは、ペンの先を唇に当てて、考え込んだ。
「紋章を持つ人間に反応してるのかも。それとも、洞窟の仕掛けの名残が、近くの人の気配に反応してるだけか。サンプルが少なすぎて、まだ何とも言えないわね」
「ユノ姉は、反応しなかった」
「基本紋だけだからかしら。それとも、風の理に引っかからないだけ。どっちにしても、仮説の段階」
リュネは、そう言って手帳を閉じた。
ハルトは、何気なく、その横顔を見ていた。
閉じる直前、リュネのペンが、カインの名前の横で、ほんの一瞬だけ止まった気がした。
けれど、次の瞬間には、もう何事もなかったように、リュネは顔を上げていた。
「で、本題なんだけど」
リュネは、欠片に覆いを被せ直して、くるりと三人に向き直った。
「私、あんたたちについていくことにしたから」
「え」
「え」
ハルトとユノの声が、重なった。
カインだけが、静かに眉を上げた。
「理由は?」
「研究のため」
リュネは、胸を張って言った。
「この欠片の正体を知るには、洞窟みたいな古い場所を、もっとたくさん見て回る必要があるの。あんたたちは、この町の後も、どこかへ行くんでしょ。だったら、ちょうどいいじゃない」
「ちょうどいい、って」
「それに」
リュネは、人差し指を立てた。
「あんたたち、戦い方が危なっかしいのよ。理論を教えてあげるのも、私の務めだわ。道中の安全のために、ね」
どこか、台本を読んでいるような口ぶりだった。
「もう一つ」
リュネの視線が、カインに向いた。
「カイン。あんたの代償のこと。私は、調べたい」
「前にも言ったはずだ。測るのは、断ると」
「測らない。見るだけ。記録は取らせて」
「……」
「条件が飲めないなら、私が勝手についていって、勝手に観察する。どっちがいい?」
カインは、しばらく黙っていた。
やがて、呆れたように息を吐いた。
「後者のほうが、面倒そうだ」
「そうでしょ」
「……深く詮索はしない、と約束できるか」
「約束はしない」
「おい」
「でも、本人が嫌がることは、しない。それは、約束するわ」
リュネは、まっすぐカインを見た。
カインの肩から、すっと力が抜けた。
「それなら、いい」
ユノが、ぱちんと手を叩いた。
「決まりね。リュネ、よろしく」
「べ、別に、あんたたちが心配とか、そういうんじゃないから」
「うん、わかってる」
「ほんとに、わかってる?」
「わかってるわよ。研究のためでしょ」
ユノが、にこにこと頷く。
リュネは、さらに何か言おうとして、口をぱくぱくさせた。
ハルトは、その様子を、少し離れたところから眺めていた。
(研究のため、か)
建前だ、と思った。
でも、それを指摘するのは、違う気がした。
昨夜のリュネの言葉が、耳に残っていた。
――死んだら、許さないから。
あの手の冷たさも。
きっと、リュネは、生まれて初めて、庇われたのだ。
誰かが、自分の前に立って、盾になってくれた。
その温かさを、うまく言葉にできないのだろう。
(だったら、建前でいい)
ハルトは、リュネのほうへ歩いていった。
「リュネ」
「な、何よ」
「一緒に行こう。よろしく」
リュネは、ぴたりと動きを止めた。
それから、ゆっくりと、視線を逸らした。
「……よろしく」
その声は、ひどく小さかった。
「荷造り、手伝うよ」
「いらない」
「紙が多すぎて、崩れそうだけど」
「……じゃあ、少しだけ」
ユノが、後ろで声を殺して笑っている。
リュネは、むくれたままだったが、その口元は、確かに緩んでいた。
荷物をまとめて、塔を出たのは、昼前だった。
リュネは、扉に「不在」と書いた紙を貼り、鍵を二度確かめてから、名残惜しそうに塔を見上げた。
「戻ってこれるかしら」
「戻ってこれるよ」
ハルトは、迷わず言った。
「絶対、戻ってこよう」
リュネは、少しだけ驚いた顔をして、それから小さく頷いた。
坂を下りていく四人の背中を、朝の風が押す。
ハルトは、ふと足を止めて、振り返った。
塔の窓が、陽の光を受けてきらりと光る。
リュネは、胸元に抱えた革の袋を、大事そうに押さえていた。
あの欠片が入っている袋だ。
その視線が、前を歩くカインの背中に、一瞬だけ向いた。
けれど、ハルトと目が合うと、リュネは慌てたように、ぷいと顔を背けた。
「何よ」
「何でもない」
ハルトは、笑って首を振った。
(リュネも、いろいろ考えてるんだな)
胸の奥に、小さな引っかかりが残った。
けれど、今は、まだ形にならない。
ハルトは、三人の後を追って、石畳を駆け下りた。




