第14話 焚き火の作法
ベルナを発って、三日目の昼。
街道の上り坂で、ハルトは、後ろから聞こえる荒い息づかいに足を止めた。
「リュネ、大丈夫?」
「だい、じょうぶ、よ」
大丈夫そうではなかった。
リュネの背中には、ハルトの背丈の半分ほどもある荷袋が、どっしりと載っている。口の隙間から、分厚い本の背表紙と、ガラスの筒の頭が、何本も覗いていた。
「中身、何が入ってるの」
「必要なものだけよ」
「必要なもの」
ユノが、ふうん、と言って荷袋の口を開けた。
「本が七冊。ガラスの筒が十二本。小さい黒板。インク壺が三つ。……毛布は?」
「ない」
「ない?」
「持っていくのを、忘れたの」
「忘れるものが、違うわよ」
ユノは、にっこり笑った。
笑ったまま、本を二冊、抜き取った。
「ちょっと!」
「今夜、毛布が必要でしょ。優先順位の問題」
「それは、私の研究資料で」
「毛布は、リュネの命なの」
反論の余地のない声だった。
リュネは、口をぱくぱくさせたまま、結局、黒板と本二冊を諦めた。
その様子を横目に、カインが、黙って荷袋を持ち上げた。
「あ、ちょっと、自分で持てるわよ」
「半分だけ持つ。バランスが悪い」
カインは、中身を二つに分けて、片方を自分の荷に収めた。
「……ありがと」
リュネは、小さく、小さく言った。
カインは、何も言わなかった。
ただ、ハルトの目には、その背中が、ほんの少しだけ、照れて見えた。
その日の野営地は、街道脇の小さな窪地になった。
水の匂いがする。近くに、細い沢があるらしい。
「じゃあ、役割分担ね」
ユノが、手を叩いた。
「ハルトとカインは薪を集めて、天幕を張る。リュネは水汲み。私は料理」
「待って」
リュネが、手を上げた。
「火は、私がつけるわ」
「え?」
「水の理は、火の理の対極にあるでしょ。対極を理解しているということは、火を制御できるということよ。理論的には」
「理論的には、ね」
ユノが、笑いをこらえて頷いた。
リュネは、積まれた薪の前にしゃがみ込み、杖を構えた。
ガラスの筒の先に、細い光が集まる。
「燃える物、燃やす空気、火種。この三つを、理で揃える」
リュネの唇が、ぶつぶつと呟く。
水の紋が、淡く輝いた。
次の瞬間。
ぼわっ。
薪が、いっせいに、湿った音を立てた。
「あ」
水が、湧いたのだ。
火を起こすはずが、薪の山は、びしょ濡れになってしまった。
「……水の紋で、火をつけようとするからだ」
カインが、静かに指摘した。
「対極を理解すれば制御できる、っていう理論は」
「その通りよ! 私の理論は、間違ってないの。ただ、実践の段階で、少し、紋の性質が」
「リュネ」
ハルトは、笑いをこらえながら、手を挙げた。
「俺、やってみていい?」
「……どうぞ」
リュネは、ふてくされた顔で、場所を空けた。
ハルトは、濡れた薪の山の中から、乾いた枝を数本拾い、集めた。
右手を、かざす。
塔で教わった、薄い火の膜。
刃の上だけで燃やす、あのやり方を思い出す。
指先に、小さな炎が灯った。
小枝の先に、そっと近づける。
ぱち、と音がして、枝が燃え上がった。
「……できた」
「できたじゃない」
リュネが、悔しそうに身を乗り出した。
「薄く、持続させてる。洞窟の時より、安定してる。どうやったの」
「リュネが教えてくれた通りに、やっただけだよ」
「私は、こんなふうには」
リュネは、はっと口をつぐんだ。
それから、ハルトの指先を、じっと見つめた。
「……代償は、何を取られたの」
「えっと」
ハルトは、指を動かしてみた。
「親指と人差し指が、ちょっと痺れてる。でも、少ししたら戻ると思う」
「そう」
リュネは、手帳に走り書きをした。
その時だった。
かつん。
ハルトの足元で、小さな火花が散った。
見ると、カインが、火打ち石を二つ、握っていた。
乾いた枯れ草に、あっさりと火が移っていた。
「二回で、ついた」
「……」
「……」
リュネが、黙った。
ハルトも、黙った。
ユノが、こらえきれずに吹き出した。
「ふふっ、あはは! ごめん、でも、理論が、火打ち石に負けたわ」
「笑わないで!」
リュネは、顔を真っ赤にして怒った。
けれど、その口元は、少しだけ、緩んでいた。
夕食は、豆と干し肉の煮込みだった。
ユノが、手慣れた手つきで、味を調えていく。
鍋から立ち上る香りが、野営地に満ちていった。
「はい、リュネ」
差し出された椀を、リュネは、両手で受け取った。
湯気の向こうで、目がぱちぱちと瞬く。
一口、すすった。
「……おいしい」
小さな声だった。
「でしょ。お母さん直伝なの」
「塔では、いつも、固いパンと干し魚で済ませてたから。こんな、温かいもの」
リュネは、そこで言葉を切って、もう一口、すすった。
「おかわり、ある?」
「たくさんあるわよ」
ユノは、嬉しそうに、椀にたっぷりと注ぎ足した。
その様子を、ハルトは、焚き火の向こうから眺めていた。
ふと、気づく。
カインは、椀を手に、少し離れたところに座っていた。
中身は、ほとんど減っていない。
「カイン、食べてる?」
「食べてるよ」
「……ほとんど減ってないわ」
ユノが、じっと見た。
カインは、小さく息を吐いた。
「あまり、腹が減ってないんだ」
「昼もそう言ってた」
「……」
「ほら」
ユノは、自分の椀から、豆をひとすくい、カインの椀に移した。
「え、いや、増やしてどうするんだ」
「私の分も、半分こ。それで、全部食べて」
「ユノ」
「食べて」
有無を言わせない声だった。
カインは、観念したように、匙を持ち上げた。
一口。二口。
三口目で、ようやく、表情が少しだけ、ほぐれた。
「……うまい」
「でしょ」
ユノは、満足そうに頷いた。
リュネが、その二人を見ていた。
手帳を開きかけて、やめて、静かに椀に視線を戻す。
夜が更けた。
焚き火の番は、ハルトとリュネの二人だった。
ユノとカインは、天幕の中で、すでに眠っている。
虫の声が、草むらから聞こえる。
火の粉が、夜空へ、ふわりと舞い上がっていく。
「眠れない?」
ハルトが声をかけると、リュネは、毛布にくるまったまま、小さく頷いた。
「慣れないの。外で寝るの」
「そっか」
「それに」
リュネは、火を見つめた。
「昨日の夜も、一昨日の夜も、考えちゃうのよ。あの洞窟のこと」
「うん」
「怖かったこと、思い出して」
ハルトは、薪を一本、火にくべた。
「怖いのは、悪いことじゃないよ」
「……え?」
「俺も、怖かった。広間で、足がすくんだ。今でも、ちょっと夢に出る」
「あんたが」
リュネは、意外そうに目を瞠った。
「でも、俺は、一人じゃなかったから」
ハルトは、火を見つめたまま、言った。
「カインも、ユノ姉も、リュネも、いてくれたから。怖いままでも、動けた」
「……変な理屈」
「変かな」
「変よ」
リュネは、そう言って、毛布に顔を埋めた。
けれど、その肩の力は、少しだけ、抜けていた。
「あんたたち、みんな、変」
「みんな?」
「カインも。ユノも。あんたも」
くぐもった声で、続ける。
「でも、嫌いじゃ、ないわ」
小さな、小さな声だった。
ハルトは、聞こえなかったふりをして、火に薪をくべた。
夜空には、星が、数えきれないほど瞬いていた。
翌朝、街道の先で、荷車を引いた行商人とすれ違った。
「おや、旅の方々かい」
人の好さそうな中年の男が、帽子を持ち上げる。
「この先を行くのかい」
「はい。次の町まで」
ユノが答えると、行商人は、眉を寄せた。
「だったら、気をつけな。街道の先の渡し場あたりで、このところ、ちょいと物騒でね」
「物騒?」
「帝国の兵と、どこかの旗を掲げた連中が、小競り合いをしてるって話だ。俺は、遠回りしてきた」
「旗、って」
「さあな。名前までは知らねえ」
行商人は、帽子をかぶり直して、荷車を進めていった。
ハルトは、その背中を見送ってから、三人の顔を見た。
カインは、いつもの穏やかな表情のまま、何も言わなかった。
けれど、街道の先、地平線のあたりを、じっと見つめていた。
「……行ってみよう」
ハルトは、言った。
「確かめないと、わからないから」
ユノが頷く。
リュネが、荷袋を背負い直した。
四人は、再び歩き出した。
春の風が、街道を渡っていった。




