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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第一章 夜明け前の橋

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第15話 渡し場

昼過ぎ、街道は大きな川にぶつかった。

向こう岸が霞むほどの川幅だった。濁った流れが、ゆっくりと、重たげに横たわっている。

渡し場は、その手前の小さな入り江にあった。

古びた桟橋。杭に繋がれた平底の渡し舟。岸辺の小屋。

そして、そのすべてが、異様に静まり返っていた。

「……人がいない」

ユノが、声を落とした。

桟橋の板には、乾ききっていない血の跡が、点々と続いている。小屋の戸は破られ、中の椅子が倒れていた。

カインが、手を上げて、全員を止めた。

「伏せろ」

次の瞬間。

ひゅっ、と空気を裂く音がして、ハルトの頭の上を、矢が通り過ぎた。


四人は、岸の土手の陰に、転がり込んだ。

「帝国兵ね」

ユノが、顔を半分だけ出して、状況を確かめる。

対岸ではなく、こちらの岸だった。桟橋から五十歩ほど上流の、葦の茂みの向こう。黒い鎧の兵士が、二十人近く、隊列を組んで進んでいた。

鉄の胸甲に、黒地に鉄色の紋章の旗。

(ヴァルディア帝国の兵だ)

ハルトは、盾の縁を握りしめた。

噂に聞いたことはあった。実際に目にするのは、初めてだった。

隊列には、乱れがなかった。足並みが揃っている。槍の穂先が、陽を受けて、冷たく光っていた。

「相手は」

カインが、短く言った。

「あれだ」

ユノの視線の先に、小さな人影があった。

桟橋の下。杭の陰に身を潜めている、七、八人ほどの集団。装備はばらばらだった。胸当てだけの者、農具を改造した槍を持つ者、錆びた剣を握る者。

そして、杭に括りつけられた一本の旗が、川風にはためいている。

夜明けの空のような、橙と藍に染め分けられた旗だった。

「あれが、旗の連中……」

「暁の旗団」

リュネが、呟いた。

「聞いたことがある。帝国に反抗する、反乱軍の一つ。でも、こんな辺境に」

その時、桟橋の下から、叫び声が上がった。

「渡し守さんを離せ!」


ハルトは、はっとした。

桟橋の端に、人が倒れていた。

老人だ。背中に矢が一本、刺さっている。その腕の中に、小さな子供が、しがみついていた。

「まずい」

ハルトの口から、言葉が漏れた。

兵士の隊列が、桟橋に迫っている。弓兵が、五人。矢をつがえる。

狙いは、桟橋の下の反乱兵たち。

けれど、その射線の途中に、老人と子供がいた。

(巻き込まれる)

「ハル」

カインの声が、背中に触れた。

「どうする」

試されているのだと、思った。

違う。

カインは、ただ、聞いているだけだ。

「……助ける。あの二人を」

「帝国と、反乱軍。どちらにつく」

「どっちでもない」

ハルトは、盾を構えた。

「目の前で、人が死にそうなのを、見てられない」

カインが、小さく笑った。

「そう言うと思った」

大剣の柄から、手が離れた。

「ユノ、風で矢筋を逸らせ。リュネ、水で足止めを。ハルは、俺と一緒に子供を取る」

「了解!」

「え、私も?」

「あなたの水が、一番、被害が少なく止められる」

リュネは、一瞬たじろいで、それから、杖を握り直した。

「……わかったわよ」


土手を、駆け下りた。

ハルトは、盾を前に構え、桟橋に向かって走った。

背後で、ユノの風が唸る。

弓兵の矢が、放たれた。

五本。

その全てが、風の壁に叩かれて、軌道を逸れた。川面に、水しぶきが跳ねる。

「止まれ!」

帝国兵の隊長らしき男が、声を上げた。

兜の下の目が、こちらを射抜く。

その声と同時に、隊列の先頭の槍兵が、五人、一斉に突撃してきた。

「リュネ!」

「わかってる!」

リュネの杖の先から、水が噴き出した。

川の水を呼び込み、地面に叩きつける。

槍兵の足元が、ぬかるんだ泥に変わった。

先頭の兵が、足を取られて転ぶ。後続がつまずく。隊列が、乱れた。

けれど、完全には止まらない。

最後尾の一人が、泥を踏みつけながら、強引に突破してきた。

鉄の槍が、ハルトの喉元を狙って、突き出された。

(重い)

盾で受けた。

衝撃が、肩まで響く。盾の縁が、鎖骨を打った。

痛い。

けれど、昨日までなら、ここで怯んでいた。

今は、違う。

(洞窟の獣は、もっと重かった)

槍を、盾で外へ弾いた。

懐へ、潜り込む。

右手の剣に、薄い火を灯す。

槍の柄を、ばさりと斬った。

穂先が、くるくると宙を舞って、川に落ちる。

「な」

兵士が、目を見開いた。

その隙に、ハルトは剣の腹で、兵士の兜を叩いた。

ごん、と鈍い音。

兵士が、ふらついて、泥の中に膝をつく。

「……ごめん」

小さく呟いて、ハルトは桟橋へ走った。


老人と子供は、桟橋の板の上にいた。

「おじいさん!」

ハルトは、子供の前に滑り込んだ。

子供は、六つか七つくらいの男の子だった。顔が泥だらけで、歯をがちがち鳴らしている。

「大丈夫、俺たちは敵じゃない」

「……う、うん」

「歩ける? あそこの土手まで、走って」

「じいちゃんが」

「俺が連れていく」

ハルトは、老人の肩の下に腕を入れた。

軽かった。

こんなに軽い体で、ずっと、この渡しを守ってきたのだろう。

背中の矢の根元から、じわりと血が滲んでいる。

(間に合ってくれ)

その時、背後で、轟音が鳴った。

振り向くと、カインが、桟橋の上に立っていた。

地面から、太い土の柱が、せり上がっている。

追ってきた帝国兵の足を、柱が薙ぎ払っていた。

一撃で、三人が、川に転がり落ちる。

剣は、鞘から抜いてもいない。

(カイン、ほとんど力を使ってない)

ハルトは、はっとした。

大きな土の柱は、見た目こそ派手だ。けれど、よく見ると、桟橋の杭の根元の土を、ほんの少し持ち上げただけだ。

最小限の力で、最大の効果を出している。

(それだけ、気をつけてるんだ)

洞窟のことを思い出す。

あの石化の恐怖を、きっと、カインも覚えている。

いや、違う。

カインは、毎回、覚えている。

忘れたことなど、ないのだ。


「そこまでだ!」

隊長の怒号が、渡し場に響いた。

隊列の動きが、ぴたりと止まる。

隊長は、馬を数歩進め、冷ややかな目で桟橋を見下ろした。

「旅の者か」

「……はい」

ハルトは、老人を支えたまま、答えた。

「その老人は、反乱に加担した罪で、拘束の対象だ。引き渡せ」

「怪我をしてます。手当てが先です」

「罪人に、手当ては要らん」

その声は、淡々としていた。

怒りも、憎しみもない。ただ、規則を読み上げるような声だった。

だからこそ、ハルトの背筋に、冷たいものが走った。

(この人たちは、悪い人じゃないのかもしれない)

そう思った。

(でも、同じくらい、普通の人たちだ。命令に従ってるだけの)

「引き渡さなければ?」

カインが、静かに言った。

隊長の視線が、カインに向いた。

その目が、ほんの一瞬だけ、細くなった。

何かを見定めるような目だった。

それから、隊長は、ゆっくりと手を上げた。

「……撤収」

「隊長!」

「この渡しは、今は押さえる意味がない。放っておけ。どのみち、じきに閉じる」

馬が、ゆっくりと向きを変えた。

黒い鎧の列が、一糸乱れずに、街道の向こうへ戻っていく。

最後に、隊長は、ちらりと振り返った。

「次は、見逃さんぞ。覚えておけ」

それだけ言い残して、去っていった。


静寂が戻った。

川の流れる音だけが、聞こえる。

ハルトは、その場にへたり込んだ。

膝が、がくがく震えている。

「ハル」

ユノが、駆け寄ってきた。

「大丈夫? 鎖骨、打ったでしょ」

「……大丈夫。それより、おじいさんを」

「わかってる」

ユノは、老人の傍に膝をつき、短杖に風を集めた。

傷は、深かった。

けれど、命を繋ぎ止めることは、できそうだった。

ユノの額に、汗が滲む。

「リュネ、お湯を。清潔なやつ」

「は、はい」

リュネが、杖から湯を出して、布を濡らした。

その手が、ほんの少し、白かった。

水の大量操作の代償だ。さっきから、指先の感覚が、鈍くなっているはずだ。

けれど、リュネは、何も言わなかった。

黙って、ユノの手当てを手伝い続けた。


桟橋の下から、人が出てきた。

橙と藍の旗を手にした、青年だった。

二十歳そこそこ。細身で、目に疲れが滲んでいる。右腕に、粗い包帯が巻かれていた。

「……ありがとう、ございました」

青年は、深く頭を下げた。

「俺たちは、暁の旗団の斥候です。本隊に戻る途中、この渡しで、帝国兵に見つかってしまって」

「あなたたちが、戦ってたの?」

「戦えたのは、三人だけでした。あとは、怪我人で」

青年は、唇を噛んだ。

「あなたたちが助けてくれなければ、全滅でした」

「俺たちは、たまたま通りかかっただけです」

ハルトは、首を振った。

「どっちの味方でもないです」

「わかっています。それでも」

青年は、顔を上げた。

その目は、まっすぐだった。

「あなたたちの戦い方を、見ていました。あの桟橋の上で、子供を庇って走った背中も」

ハルトは、何も言えなかった。

「お願いです。本隊の野営地まで、来てもらえませんか。怪我人の手当てと、礼を」

「でも」

ハルトは、ユノとリュネ、そしてカインを順に見た。

ユノは、迷っているようだった。

リュネは、手帳を握りしめて、難しい顔をしている。

カインは、川の向こう岸を、静かに見つめていた。

「俺は、ハルが決めたことに従う」

カインは、そう言った。

「さっき、ハルが選んだんだ。どっちでもない、って」

「……カイン」

「ただ、旗団の野営地に行くのが、どっちでもない、という選択に、なるかどうか。それは、自分で考えろ」

ハルトは、唇を噛んだ。

足元の渡し舟が、波に揺れている。

濁った水の流れが、ゆっくりと、重たく、先へ流れていく。

「……怪我人の手当てだけ、手伝います」

ハルトは、言った。

「それ以上は、約束できません」

青年は、深く、頷いた。

川風が、橙と藍の旗を、大きく揺らした。

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