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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第一章 夜明け前の橋

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第8話 理論どおりにいかない

洞窟の中は、思ったより広かった。

入口の石のアーチをくぐると、天井が一気に高くなる。壁は湿っていて、ところどころに青白く光る苔が張りついていた。足元は緩やかな下り坂で、水の滴る音が、遠くから反響して返ってくる。

ユノが提げたランタンの灯りが、四人の影を壁に長く伸ばした。

「静かだな」

カインが、小声で言った。

「静かすぎるわね」

リュネが、杖を握り直した。

その時だった。

頭上の闇から、ばさり、と羽音が降ってきた。

「来る!」

天井の暗がりが、動いた。

数えきれないほどの影が、一斉に翼を広げる。黒い蝙蝠の群れだった。ただ、その大きさは、ハルトの知っているものの三倍はあった。翼を広げれば、大人の腕ほどもある。

「ハル、盾!」

「うん!」

ハルトは、左腕の盾を頭上に掲げた。

最初の一匹が、盾の面に突っ込んでくる。

ごん、と鈍い衝撃。

腕が痺れた。だが、足は踏みとどまる。

「受けたら、すぐ崩す!」

「わかってる!」

ハルトは、盾を斜めに傾けた。

蝙蝠の体が、滑るように横へ逸れる。その腹に、右手の剣を突き込んだ。

悲鳴。落ちる音。

次の二匹が、左右から迫っていた。

「リュネ、前に出ないで!」

「出ないわよ。見てなさい」

リュネが、杖を高く掲げた。

先端のガラスの筒が、かちゃりと鳴る。

「水の理は、状態を選ばない」

淡く、杖が光った。

空気中の湿気が、きらきらと集まっていく。

次の瞬間、洞窟の中に、濃い霧が立ちこめた。

「温度を、落とす」

リュネの声が、短く響く。

霧が、凍った。

無数の氷の粒が、針のようになって宙に浮かぶ。

「いけ」

指先が、振り下ろされた。

氷の針が、一斉に飛んだ。

蝙蝠たちが、ばたばたと落ちてくる。ほとんどが、一撃で翼を貫かれていた。

「すごい……」

ハルトは、思わず声を漏らした。

数十匹はいた群れが、十数秒で、地面に散らばっている。

「当然でしょ。霧にして、氷にして、飛ばす。三段階の変換だけど、理を理解していれば、代償はほとんど要らない」

リュネは、得意げに胸を張った。

「ほら、見て。掌の冷えなんて、ほとんどないわ。理論どおり」

「立派なものだな」

カインが、感心したように言った。

「でしょ? 次も、私に任せなさい」

リュネが、さらに奥へ進み出ようとした。

その時だった。


足元の地面が、ぬるりと動いた。

最初は、気のせいかと思った。

だが、洞窟の通路の壁と床が、ゆっくりと盛り上がっていく。

泥だった。

湿った茶色の泥が、まるで生き物のように、地面から立ち上がっていた。人の背丈ほどの塊になって、のそりとこちらに向き直る。

目も口もない。

ただ、泥の表面が、ぼこぼこと泡立っていた。

「泥の魔物……!」

ユノが、息をのんだ。

「大丈夫。これも水の理で片づくわ」

リュネは、すぐに杖を構えた。

「泥は、土と水の混ざり物。水の割合を操れば、形を保てなくなる」

「リュネ、待って」

「もう、やってる!」

杖の先端が、青く光った。

水が、泥の魔物に向かって、奔流のように放たれた。

洞窟が、ざあっ、と鳴る。

水は、泥の体を洗い流す……はずだった。

だが、泥の魔物は、洗い流されなかった。

それどころか。

水を浴びた泥が、ぐん、と膨れた。

体積が、倍になった。

「え……?」

リュネの目が、見開かれる。

泥の魔物は、さらに水を吸い込んで、どろり、と盛り上がった。

重く、大きく、動きも速くなっている。

「水を、吸ってる……?」

「リュネ、下がれ!」

カインが叫んだ。

泥の魔物が、腕のような塊を振りかぶった。

リュネは、動けなかった。

目を見開いたまま、杖を握りしめて、固まっている。

「リュネ!」

ハルトは、考えるより先に、駆けていた。

盾を前に出して、リュネの前に滑り込む。

泥の塊が、盾に叩きつけられた。

重い。

さっきの蝙蝠とは、桁違いだった。

腕が、肩ごと押し潰されそうになる。足の裏が、ずるずると石畳を削った。

「ぐ……っ!」

「ハル!」

ユノの矢が、泥の魔物の肩口に突き刺さった。

だが、泥は、それを飲み込むように、傷口を塞いだ。

「効かない……!」

「水が、あいつを太らせてる。このままじゃ、じり貧だ」

カインが、前に出た。

大剣を、横に構える。

「ハル、どうにかして、水を抜けるか」

「水を、抜く……」

その時、ハルトの頭に、昨日のリュネの言葉が蘇った。

――燃えるっていうのは、物が空気と結びついて、熱と光を出す変化のこと。

――剣に火を乗せるなら、刃の上でだけ、燃えるものを作ればいい。

(そうだ。泥の水分を、飛ばせば)

「カイン、時間をちょうだい! 十数える間でいい!」

「わかった」

カインが、短く答えた。

その背中が、泥の魔物の前に、ずんと立ちはだかる。

ハルトは、剣を握った。

胸の奥で、火の紋に触れる。

燃える物。燃やす空気。火種。

――刃の上で、薄く。

剣が、ぼうっと赤く染まった。

昨日より、ずっと、静かな炎だった。無駄に広がらない。刃の表面にだけ、薄い膜のように纏わりついている。

息が、楽だった。

指先の感覚の鈍りが、昨日の半分もない。

「できた……!」

「ハル、行け!」

ハルトは、走った。

泥の魔物の腕が、振り下ろされる。

盾で受ける。

衝撃を、体ごと逃がす。

受けて、崩して――

「繋ぐ!」

右手の剣を、泥の胴に叩き込んだ。

じゅう、と音が鳴った。

泥の表面が、白く煙を上げる。炎の熱が、水を一気に蒸発させたのだ。

泥の魔物が、ぎしりと軋んだ。

乾いた泥が、ひび割れていく。

「今だ、カイン!」

「ああ」

大剣が、唸った。

ひび割れた泥の胴に、斜めに叩き込まれる。

乾いた土の塊は、砕け散った。

がらがら、と音を立てて、泥の破片が地面に崩れ落ちる。

静けさが、戻った。

洞窟の水滴の音だけが、遠くで、ぽつ、ぽつ、と響いていた。


「はあ、はあ……」

ハルトは、膝に手をついた。

火の代償で、指先が少しだけ痺れている。だが、昨日ほどではなかった。

「ハル、すごいじゃない。炎が、前よりずっと静かだったわ」

ユノが、駆け寄ってきた。

「リュネが、教えてくれたから」

ハルトは、振り返った。

リュネは、その場に立ち尽くしていた。

両手で、杖を握りしめている。

顔が、青ざめていた。

「……なんで」

小さな声だった。

「なんで、効かなかったの。泥は、土と水の混合物。水で流せるはずで。理論では」

「リュネ」

「理論は、合ってたはずなの。なのに」

リュネは、唇を噛んだ。

「普通の泥じゃなかった、ということだろう」

カインが、静かに言った。

「水を吸って育つ泥なんて、俺も聞いたことがない」

「そんなの、教科書には、載ってない」

「ああ。載ってないことが、起きるのが、実戦だ」

カインの声は、責める調子ではなかった。

ただ、事実を、淡々と告げていた。

リュネは、俯いた。

(何か、言わなきゃ)

ハルトは、その肩に、そっと言った。

「でも、リュネのおかげで、俺の火が使えたんだ。さっきの教え、ほんとに助かった」

「……あんたの火は、私の理論の産物でしょ」

「うん。だから、リュネの理論は、ちゃんと役に立ってるよ」

リュネは、顔を上げた。

その目が、少し潤んでいた。

「……ふん」

ふい、と顔を逸らした。

耳が、赤かった。

その時、洞窟の奥から、ずうん、と低い振動が伝わってきた。

足元の砂が、さらさらと震える。

ユノが、ランタンを持ち上げた。

「今の、何……?」

「奥だ」

カインが、大剣を握り直した。

「さっきの魔物より、ずっと大きい何かが、いる」

洞窟の闇の向こうから、低い唸り声が、ゆっくりと近づいてきていた。

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