第7話 背中の記憶
南東の洞窟までは、町から徒歩で一刻ほどだった。
街道を外れて、麦畑の畝道を抜け、なだらかな丘を越える。朝の空気は冷たく澄んでいて、草の先には露が光っていた。
先頭を歩くのは、リュネだった。
背丈ほどもある長い杖を、ずるずると引きずるようにして歩いている。杖の先端には、小さな試験管のようなガラスの筒がいくつも括りつけられていて、歩くたびにかちゃかちゃと軽い音を立てた。
「ねえ、リュネ。それ、重くない?」
「重いわよ。当たり前でしょ」
「持とうか?」
「結構。杖は、魔導師の命。人に預けるものじゃないの」
そう言いながら、リュネの足は、確かにふらふらしていた。
(意地っ張りだなあ)
ハルトは、苦笑いを飲み込んだ。
「ほら、リュネ。水を飲んだほうがいいわ」
「いらない」
「そう言わないで」
ユノが、水筒を差し出した。
リュネは、むすっとした顔で受け取り、一口だけ飲んだ。
「……ありがと」
小さな声だった。
最後尾を歩くカインが、ふっと笑ったのが、気配でわかった。
しばらく歩いて、道が緩い下り坂になった。
その途中で、小さな沢にぶつかる。
幅は、大人の歩幅で二歩ほど。流れは浅く、石が飛び石のように並んでいた。
「ここを渡るのね」
「うん」
ハルトは、足を止めた。
沢の向こう岸を、じっと見つめる。
(なんだか、ここ、見覚えがある)
そう思った瞬間、胸の奥で、昔の景色が、ふっと立ち上がった。
あれは、孤児院の裏手の小川だった。
ハルトが六つの夏。
九つのカインは、軽々と、飛び石を跳んで渡っていた。
ひょい、ひょい、ひょい。
向こう岸に着くと、振り向いて、笑った。
「ハル、ほら、おいで」
「俺も、できる!」
ハルトは、勢いよく地面を蹴った。
一つ目の石は、うまく乗れた。
二つ目の石。足が、滑った。
ばしゃん。
視界が、ひっくり返った。
膝が、石の角に、ごつんとぶつかった。
痛い。すごく、痛い。
見れば、膝から赤いものが、水に滲んでいた。
「うわあああん!」
「ハル!」
カインが、水の中に飛び込んできた。
濡れるのも構わず、ハルトの身体を抱え上げる。
「大丈夫、大丈夫だ。ちょっと、擦りむいただけだ」
「いたい、いたいよ、カイン」
「うん。わかってる」
カインは、ハルトを背中に回して、おぶった。
「帰ろう。俺が、背負っていくから」
「でも、カイン、足が」
ハルトは、気づいていた。
カインが、さっき水に飛び込んだ時、右の足首を、変な方向に捻ったことを。
歩くたびに、小さく顔をしかめていることを。
「大丈夫だ」
カインは、笑った。
「お前くらい、俺が背負える。軽いもんだ」
額に汗を浮かべて、それでも、笑っていた。
ハルトは、その背中に顔を埋めた。
温かくて、少し、汗の匂いがして。
ひどく、安心した。
「ハル?」
ユノの声で、我に返った。
沢のせせらぎが、耳に戻ってくる。
目の前の飛び石は、あの日のものとは、まるで違っていた。
「どうしたの。急に黙って」
「……ううん。なんでもない」
ハルトは、首を振った。
少し離れたところで、カインが、こちらを見ていた。
穏やかな顔だった。
あの日と同じ顔だ、とハルトは思った。
足を捻ったことを、ついに一度も、口にしなかった顔。
(あの時、カインは、どれだけ痛かったんだろう)
考えたことが、なかった。
今まで、一度も。
ハルトは、盾を持ち直して、飛び石に足をかけた。
今度は、滑らなかった。
「行くぞ、ハル」
「うん」
カインの声に、短く答えた。
洞窟の入口は、丘の斜面にぽっかりと口を開けていた。
古い銀鉱の跡、と組合の使いは言っていた。
だが、近くで見ると、何かが違った。
「……これ、ただの坑道じゃないわ」
リュネが、杖を支えにして、入口の壁を見上げていた。
「石の積み方が、違う。ほら、ここ」
リュネの指が、入口の縁を撫でる。
そこには、削られた岩とは別に、滑らかに加工された石が、アーチを描くように組まれていた。
継ぎ目は、ほとんど見えない。
石の表面には、薄く、模様が刻まれている。
苔に覆われて、半分ほどしか見えないが、ぐるりと円を描く、不思議な紋様だった。
「古い。すごく古いわ。銀鉱が掘られるよりも、ずっと前のものよ」
「じゃあ、ここって」
「坑道が、後からぶつかったんじゃないかしら。もともと、何かの入口があったのよ」
リュネは、手帳を開いて、何かを素早く書き留めている。
その時、洞窟の奥から、風が吹き上げてきた。
冷たくて、湿っていて、何か、鉄のような匂いが混じっている。
「……歪みが、濃い」
リュネが、小さく呟いた。
「歪み?」
「理の乱れ。世界の決まりごとが、少しずつ、ずれてる場所。魔物が増えているのは、たぶん、こういう場所のせいよ」
「ここが、原因なの?」
「原因の一つかもしれない。ただ、それだけじゃ、説明がつかないのよね」
リュネは、手帳をぱたんと閉じた。
「入る前に、決めておくわ。私は、隊列の真ん中。前衛はカインとハルト。ユノは、後ろから援護。いい?」
「ああ」
「わかったわ」
「うん」
三人が、頷く。
リュネは、杖を両手で握り直した。
指先が、わずかに白くなっている。
「……大丈夫よ。理論は、完璧なんだから」
それは、誰に向けた言葉だったのか。
ハルトは、聞こえなかったふりをして、左腕の盾を持ち上げた。
古い盾の重みが、腕に沈む。
足元の闇が、ゆっくりと、四人を呑み込んでいった。




