第6話 塔の廊下の夜
日が傾き始めた頃、塔の扉を叩く音がした。
「ごめんください! ベルナ商人組合の者です!」
三人が降りていくと、塔の入口に、息を切らした若い男が立っていた。
ハルトより少し年上くらいだろうか。腕には組合の紋章をつけている。
「ソーヌ村の方々ですよね。午後には組合へお越しいただく約束だったので、探しておりました」
「……すまない。つい、長居をしてしまって」
カインが、バツの悪そうな顔で頭を下げた。
そういえば、朝、そう言っていた。
(……完全に、忘れてた)
ユノも、「あっ」と小さく口を押さえている。
「いえ、構いません。実は、急ぎのご依頼でして」
男は、懐から折りたたんだ紙を取り出した。
「町の南東の洞窟に、魔物の巣ができたようなのです。ここ数日、出入りする魔物が増えて、近隣の農家が困っています。調査と、可能なら討伐を」
「洞窟」
その時、塔の奥から、ひょいとリュネが顔を出した。
「南東の洞窟って、あの古い坑道のこと?」
「はい。昔の銀鉱の跡です」
「あそこ、半年前から、微弱な理の歪みが観測されてるのよ」
リュネは、頬の煤を、袖でごしごしと拭った。
「ふうん。ちょうどいいわ」
「ちょうどいい?」
「こっちの話。……その依頼、明日の朝には答えを出すわ。今日は、疲れてるでしょ」
そう言って、リュネは、男に半ば追い立てるようにして、帰らせた。
「ちょっと、リュネ」
「いいから。ほら、あんたたちも、今夜は塔に泊まりなさい」
「え?」
「宿代、浮くでしょ。部屋なら、三つ空いてる。ベッドは埃まみれだけど」
ユノが、くすくすと笑った。
「ありがとう。お世話になるわ」
ハルトは、少しだけ、胸が弾んだ。
夜。
塔の三階の小部屋は、本当に埃だらけだった。
ユノが窓を開けて、毛布を叩いている。カインは、隣の部屋で、早々に休んだらしい。
ハルトは、ベッドに横になったが、なかなか眠れなかった。
昼間に見た、リュネの水の魔法が、目蓋の裏に残っていた。
水球が、氷になって、槍になって、蒸気になって、消える。
――強さは、紋の種類じゃない。理への理解の深さ。
ハルトは、天井に向かって、右手を伸ばした。
火。燃える物。燃やす空気。火種。
三つが、揃って。
胸の奥で、小さく火が灯った気がした。
けれど、すぐに消えた。
「……やっぱり、難しいな」
ハルトは、毛布を被った。
それでも、眠れない。
しばらく寝返りを繰り返してから、諦めて起き上がった。
水でも飲もう。そう思って、部屋を出た。
塔の廊下は、静まり返っていた。
石の壁から、冷たい空気が染み出している。月明かりが、細長い窓から差し込んで、床に白い帯を作っていた。
階段の方へ歩いていくと、ふと、足が止まった。
窓の外、庭の石畳に、人影があった。
カインだった。
月の光の下で、一人で立っている。
寝ていたはずなのに、いつ起きたのだろう。
カインは、右手を、自分の頬に当てていた。
指先で、そっと、昼間の戦いでついた傷の跡をなぞっている。
その動きは、何かを確かめるようだった。
しばらくして、カインは手を下ろした。
ふっと、息を吐く。
どこか、ほっとしたような、それでいて、どこか寂しそうな、横顔だった。
(何を、してるんだろう)
ハルトは、声をかけようとして、やめた。
その時、背後で、かすかな物音がした。
振り向くと、廊下の暗がりの奥に、小さな人影があった。
リュネだった。
階段の途中の窓に、身体を寄せて、息を殺している。
その視線は、庭のカインに、まっすぐ向けられていた。
手には、手帳と、小さな鉛筆。
何かを、素早く書き留めている。
「……リュネ?」
「ひゃっ!」
リュネが、飛び上がった。
手帳が、床に落ちる。
ハルトは、慌てて拾い上げようとした。
その拍子に、開いたページが、目に入った。
細かい文字が、びっしりと並んでいる。
その最後の行に、太い字で、こう書かれていた。
――頬部裂傷、約十時間で完治。通常の三倍以上。紋の代償として説明不能。
「返して!」
リュネが、手帳をひったくった。
顔が、真っ赤だった。
「み、見た?」
「ちょっとだけ……」
「忘れなさい。今すぐ、忘れなさい」
「えっと、あれって」
「何でもない」
リュネは、手帳を胸に抱えて、ぶんぶんと首を振った。
けれど、その目は、ハルトを見ていなかった。
窓の外のカインに、戻っていた。
庭のカインは、もう、いなくなっていた。
「……ねえ」
しばらくして、リュネが、ぽつりと言った。
声が、昼間より、ずっと小さかった。
「あんたの兄貴分、昔から、ああなの?」
「ああ、って?」
「傷の治りが、早いの」
ハルトは、少し考えた。
「そういえば……そうかも。俺が覚えてる限り、カインが風邪をひいたのは、見たことがない」
「怪我も?」
「怪我は、してた。でも、いつの間にか、治ってた」
「いつの間にか」
リュネは、その言葉を、繰り返した。
「普通はね」
窓の外を見つめたまま、リュネは言った。
「代償を払わない人間は、いないの。誰でも、何かを失う。払っていないように見える人間がいたら、それは、払ってないんじゃなくて」
「うん」
「払ってるのを、見せてないだけ」
月明かりの中、リュネの横顔が、やけに大人びて見えた。
ハルトは、昼間の言葉を思い出していた。
「大したことはない」
「出ていない」
カインが、静かに繰り返した、あの声。
「……カインは、そういう人だよ」
ハルトは、自分でも、よくわからないまま、そう言っていた。
「何かあっても、全部、自分で引き受けちゃう。昔から」
「……そう」
リュネは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、手帳を、ぎゅっと握りしめている。
「ねえ、ハルト」
「うん?」
「明日の洞窟、私も行くわ」
「え?」
「依頼の話。あの洞窟、半年前から理の歪みが出てる。私の研究に、必要なの」
リュネは、振り向いた。
月の光が、その瞳に映り込んでいる。
そこにあるのは、昼間の自信満々な光ではなかった。
もっと、静かな何かだった。
「それに」
「それに?」
「あんたたちの代償を、近くで見ておきたい」
ハルトは、何も答えられなかった。
(本当に見たいのは、カインのほうだ)
階下から、風が吹き上げてくる。
遠くで、夜の鳥が、一声、鳴いた。
窓の外、庭の石畳には、月の光だけが、静かに降り注いでいた。




