第5話 理(ことわり)と代償
「まず、基本から教えるわ」
塔の最上階で、リュネは黒板をばんと叩いた。
壊れた実験器具を片づけて、ようやく人が座れる広さになった部屋だった。窓からは、ベルナの町が一望できる。
ハルトとユノは、椅子代わりの木箱に座っている。カインは壁に背を預けて、腕を組んでいた。
「いい? この世界には、理がある」
リュネは、白墨で大きく円を描いた。
「火は燃える。水は低いほうへ流れる。風は、暖かいほうから冷たいほうへ吹く。そういう、世界の決まりごとの総称が、理」
「それは、わかるけど」
「黙って聞きなさい。魔法っていうのは、その理を、ほんの少しだけ書き換える行為なの」
白墨が、円の脇に小さな矢印を書き足した。
「普通なら燃えない剣が燃える。何もない空気の中に、水が現れる。世界の決まりを、一瞬だけ曲げる」
「でも、そんなことをしたら、世界が壊れちゃうんじゃ」
ユノが、遠慮がちに手を挙げた。
「いい質問ね」
リュネは、少しだけ口元をゆるめた。
「壊れないのよ。ただし、必ず帳尻合わせが起きる。それが、代償」
黒板に、大きく「代償」の文字が書かれた。
「曲げた理の差分を、世界が取り立てるの。体温、感覚、記憶、寿命。何を取られるかは、紋の性質と、使い方で変わる」
「ハルが昨日、指先の感覚が鈍ったみたいに?」
「そう。あれは、火の紋の典型的な代償ね」
ハルトは、自分の右手を見た。
もう、すっかり感覚は戻っている。
「じゃあ、代償を払わずに魔法を使うことは」
「できない」
リュネは、きっぱりと言った。
「ただし、軽くすることはできる。それが、私の研究」
「ここからが、本題」
リュネは、黒板の端に、四つの文字を並べた。
火。水。風。地。
「基本紋。あんたたちが持っているのは、たぶん、これ。この世界の人間は、誰でもどれか一つを身体に宿して生まれる」
「うん」
「その上に、上位紋がある。契約、境界、記憶、そういう、もっと抽象的な理を扱う紋。宿しているのは、軍の将官や、熟練の魔導師が多いわ」
白墨が、さらに上へ動く。
「さらにその上に、固有紋。理を極めた者が、自分の流儀を理に刻んだ、世界に一つだけの紋。剣聖、とかね」
「剣聖……」
ハルトは、思わずカインを見た。
(カインなら、いつか)
カインは、特に反応を見せなかった。
「そして、最上位。誰も見たことのない、おとぎ話の領域が、ある」
リュネの声が、少し低くなった。
「始原の紋。神が世界に残した欠片、と言われてるわ。数は十三。代償を、踏み倒せるそうよ」
「踏み倒す?」
「ええ。他の紋には、絶対にできないこと。ただ、あくまで伝説。実在するのかどうかも、誰も知らない」
リュネは、肩をすくめた。
「だから、私たちが気にするのは、基本紋の話。大事なのは、ここ」
黒板の中央に、強い線が引かれた。
「強さは、紋の種類じゃない。理への理解の深さで決まる」
「理解の、深さ?」
「そう。ちょうどいい。実演するわ」
塔の裏手に、小さな石畳の庭があった。
リュネは、庭の中央に立って、右手を前に出した。
「見てて」
ふっと、息を吸う。
掌の上に、水が現れた。
丸い、透き通った水の球。
「これが、基本紋の水。多くの水の紋の使い手は、ここまで。あとは、これを撃ち出すだけ」
「それだけ?」
「それだけ。でも、私は」
水球が、ふるりと震えた。
一瞬で、白く濁る。凍った。氷の球になる。
次の瞬間、氷が、細い槍の形に変わった。
リュネが指先を弾くと、氷の槍は、庭の端の木に突き刺さる。
そして、槍が、淡く煙った。
蒸気となって、消えていく。
「温度と、状態。水という理は、温度を変えるだけで、形を変える。水は氷になり、氷は水に、水は蒸気に。それを、全部、知ってるの」
「すごい……」
ハルトは、息をのんだ。
「これだけのことをして、私が払った代償は、掌がほんの少し冷える程度。普通の魔導師なら、半日は指先の感覚が飛ぶわ」
リュネは、冷えた掌を、ぷらぷらと振った。
「理解が深いほど、世界との帳尻が合う。無駄な書き換えが、減るから」
「俺の火も、そうなるのか」
「さあ。やってみなさい」
リュネが、顎でしゃくった。
ハルトは、庭の中央に進み出た。
右手の剣を抜く。
胸の奥で、火の紋に触れる。
剣の刃が、赤く染まった。
「ふうん」
リュネが、近づいてきた。
どこから取り出したのか、細い針を一本つまんでいる。
「ちょっと、動かないで」
ハルトの指先に、針の先を軽く押し当てた。
「痛い?」
「……いや、ちょっと、鈍い」
「やっぱりね」
リュネは、手帳にさらさらと何かを書き込んだ。
「あんた、火を、ただ燃やしてるだけ。燃えるって、どういうことか、考えたことある?」
「燃える……って、えっと。木が、熱くなって」
「ざっくりしすぎ」
リュネが、ばさりと切り捨てた。
「燃えるっていうのは、物が空気と結びついて、熱と光を出す変化のこと。燃える物、燃やす空気、そこに足す火種。三つが揃って、はじめて火になる。あんたの火は、そこが全部、紋任せ」
「紋任せ……」
「だから、無駄が多い。同じ火を起こすのに、必要以上の理を書き換えてる。その差が、代償として戻ってくるの」
リュネは、ハルトの剣を指差した。
「剣に、火を乗せるなら、刃の上でだけ、燃えるものを作ればいい。空気と、薄い膜みたいな燃料を。それで、ずっと軽くなるはずよ」
「そう、なんだ」
ハルトは、剣を見つめた。
その剣は、確かに、昨日より少し軽く見えた。
「次は、あなた」
リュネが、ユノに視線を向けた。
「風の紋ね」
「ええ。弓の補助と、手当てくらいにしか使えないけれど」
「手当て?」
リュネの目が、ぎらりと光った。
「風で、手当て?」
「風の流れを、傷の周りに作って。痛みや熱を、外に逃がすの。猟師のおじさんに、教わったやり方で」
「……ちょっと待って」
リュネは、手帳を勢いよく開いた。
「それ、すごく面白いわ。風の理を、治癒に応用してる。普通は、風は攻撃と移動に使うものよ。流れを作ることで、体内の熱を調整している……?」
「そこまで考えたことはないけれど」
「やって。今すぐ。代償も、測らせて」
リュネが、ユノの腕を掴んで、庭の隅へ引っ張っていった。
ユノが、困ったようにハルトを振り返る。
ハルトは、笑いをこらえながら、手を振った。
しばらくして、二人が戻ってきた。
ユノは、右の耳を、そっと押さえている。
「ごく少し、耳が遠くなるのね。半日くらいで戻るけれど」
「軽いわ。かなり軽い。あなた、独学でここまで?」
「ええ、まあ」
「……天才じゃないの」
リュネが、本気で驚いた顔をしていた。
(ユノ姉は、昔から、すごいんだ)
ユノは、照れたように笑って、「ありがとう」と答えた。
「じゃあ、最後」
リュネが、手帳を閉じて、壁際を振り返った。
カインは、腕を組んだまま、動いていなかった。
「あんたの番よ。紋は?」
「地だ」
「ふうん。大剣を持ってるし、そうだと思った。昨日の戦い、聞いたわ。土の壁を立てたんでしょう? あれ、代償、どうだった?」
「大したことはない」
「大したことないは、基準にならないの。測るから、やってみなさい」
リュネが、針を取り出して、カインに近づく。
「必要ない」
カインが、一歩、下がった。
声は静かだった。
だが、はっきりとした拒絶だった。
「え?」
リュネが、きょとんとする。
ハルトも、ユノも、驚いて、カインを見た。
(カインが、断るなんて)
「測るだけよ。針を、指先に当てるだけ」
「俺はいい。大した代償は、出ていない」
「それを、確認させて」
「出ていない」
カインが、もう一度、静かに繰り返した。
穏やかな、いつもの笑みはなかった。
リュネは、針を持ったまま、その顔を、じっと見つめた。
そして、ゆっくりと、目を細める。
「……ふうん」
その声には、先ほどまでの好奇心とは別の色が、混じっていた。
疑問。
そして、かすかな警戒だった。




