第89話 二度目
谷を抜けて、二日目の朝だった。
リュネは、まだ顔色が悪かった。
それでも、手帳を開いていた。
「手、出して」
ハルトは、灰色の右手を出した。
リュネが境目に指を当てた。それから、ユノを見た。
ユノが、ハルトの手を包んだ。
リュネは、しばらく黙っていた。
「……動いてない」
リュネは、言った。
「境目。冬から、ずっと同じところ。あれだけ、糸を、使ったのに」
手帳に何かを書いた。
「それから、ユノが、触ってる時だけ、温かいのも、同じ。……前より、少し長く続く」
ハルトは、自分の手を見た。
指は、まだ握れなかった。
「治る、ってこと?」
ユノが聞いた。
「さあね」
リュネは、手帳を閉じた。
「少なくとも、悪くは、なってない。……理論的には、それだけで、十分、いい知らせよ」
昼前、荷車を止めた。
川べりの草の上だった。
ゴードンが、荷車から、降りた。
マーサの手を借りて。
リュネは、ゴードンの前に座った。
「この前のやり方は、重さを分けたの」
リュネは、言った。
「遅れて、取り立てに、来る分を。……でも、それだと、分けた日しか、効かない」
ゴードンは、黙って聞いていた。
「谷でわかったの。霧は、温かいのと、冷たいのの境目にできる。……ゴードンさんの衰えも、たぶん、境目なの。払った、ところと、まだ、残ってる、ところの」
リュネは、自分の手帳を指で叩いた。
「境目が、急だと、一度に崩れる。崖みたいに。……なだらかに、できたら」
「坂道になるか」
ゴードンが言った。
リュネは、少し驚いた顔をした。
それから、頷いた。
「そう。坂道。……下りるのは、止められない。でも、転げ落ちなくて、済む」
ゴードンは、川を見た。
「……好きにしろ」
この前と同じ言葉だった。
でも、口の端が少し上がっていた。
糸は、六本だった。
ハルト。ユノ。リュネ。マーサ。セラ。
それから、ゴードン、自身。
ハルトは、糸を伸ばした。
この前と同じ重さが来た。
濡れた外套を何枚も重ねたような。
ハルトは、引かなかった。
引きたかった。
もう少し、引けば、ゴードンが楽になる。それは、わかっていた。
でも、引かなかった。
六つに分かれるのを待った。
自分の分だけを持った。
リュネが目を閉じていた。
糸の向こうで何かを探していた。
ハルトには、わからなかった。リュネにしか、わからない、何かを。
「……あった」
リュネが言った。
「ここ。急なところ」
糸が少しだけ震えた。
重さが変わった。
軽くなったのでは、なかった。
なだらかに、なった。
崖の縁で、踏ん張っていた足が、坂道に下ろされたような。
ゴードンが息を吐いた。
長く。
「……外套が」
ゴードンは、言った。
「一枚、減った、ような気がする」
その日、ゴードンは、荷車に乗らなかった。
荷車の横を歩いた。
ゆっくり。
マーサの杖の速さで。
ハルトは、その反対側を歩いた。
「数えるなよ」
ゴードンが言った。
「数えてません」
「顔に書いてある。……三百、ってとこか」
「……四百、十二です」
ゴードンは、笑った。
声を出して。
マーサも笑った。
前を歩いていたユノが振り返った。
「ハル、数えてたの」
「数えてない」
「四百、十二って」
「……数えてた」
ユノが吹き出した。
リュネが後ろから、「私が、数えてるから、あんたは、数えなくて、いいの」と言った。
「リュネだって、数えてるだろ」
「私のは、研究。あんたのは、心配」
「同じだろ」
「全然、違う」
ゴードンがまた笑った。
ハルトは、それを聞いていた。
(……みんな、前みたいだ)
焼け跡の前の。
ベルナの前の。
息は、上がっていた。ゴードンの肩が大きく動いていた。
それでも、日が傾くまで、ゴードンは歩いた。
夜。
鍋の前で。
ピムの鍋は、豆と干し肉だった。
ゴードンは、鍋の前に座っていた。左の手首に茶と黒の組み紐。
ロブがそれを見つけた。
「それ、何すか」
「娘が編んだ」
ゴードンは、言った。
組み紐を、焚き火の明かりにかざした。
「毎晩、ほどいて、また、編んだ、らしい。……イゾルデの嬢ちゃんが、手伝うって、言ったら、首を、振ったんだと」
ゴードンは、親指で編み目をなぞった。
「下手くそでな。……太さが、揃ってねえ。ここなんか、詰まってる」
ロブが笑った。
周りも笑った。
マーサも。
ゴードンは、嬉しそうだった。
鍋が、空になりかけた頃だった。
サビナの団の男が二人、遅れて鍋の前に来た。
男の一人が、ゴードンの手首を見た。
「おやっさん、それ」
ゴードンは、組み紐を、焚き火の明かりにかざした。
「娘が編んだ」
ハルトの匙が止まった。
「毎晩、ほどいて、また、編んだ、らしい。……イゾルデの嬢ちゃんが、手伝うって、言ったら、首を、振ったんだと」
同じ言葉だった。
同じ順番で。
リュネの手が止まっていた。手帳の上で。
ユノがうつむいた。
ロブが、口を開きかけて、閉じた。
ゴードンは、親指で編み目をなぞった。
「下手くそでな。……太さが、揃ってねえ。ここなんか、詰まってる」
誰も、すぐには、笑わなかった。
焚き火の爆ぜる音がした。
その時、マーサが身を乗り出した。
「どこ?」
マーサは、言った。
「どこが詰まってるの。見せて」
ゴードンが、組み紐をマーサの前に出した。
マーサは、それをじっと見た。
初めて、見る、ように。
「ほんとだ。……ここ、ぎゅうぎゅうね」
マーサは、笑った。
さっきと、同じところで。
さっきと、同じ顔で。
「あの子、力が入りすぎるのよ。字を、書く時も」
ロブが笑った。
少し遅れて。
ユノも笑った。サビナの団の男たちも。
ハルトも笑った。
喉の奥が熱かった。
ゴードンは、嬉しそうだった。
さっきと、同じように。
焚き火から、離れたところで、リュネが手帳を開いていた。
ハルトは、その横に座った。
リュネは、書いていた。
二度。
その横に、小さく、坂道、と。
「効いてる」
リュネは、言った。
ハルトを、見ずに。
「今日、歩いたのは、本当。坂道も本当。……でも、止まっては、いない」
ペンの先が震えていた。
「わかってた。……わかってたけど」
ハルトは、何も言わなかった。
リュネの横に座っていた。
足音がした。
マーサだった。杖をついて。
マーサは、二人の前に立った。
「あの人が、ミアの話をするなら」
マーサは、言った。
穏やかな声だった。
「何度でも、初めて、聞くわ。……何度でも、同じところで笑う」
リュネが顔を上げた。
「それは、あの人が、持っていかれなかった、ものだから」
マーサは、言った。
「持っていかれなかったものの、話は、何度、聞いても、いいの」
マーサは、焚き火のほうへ戻っていった。
リュネは、手帳を見た。
それから、二度、の下に、一行、足した。
マーサ。何度でも。
夜更け。
ハルトが荷車の横を通った時、ゴードンは、まだ起きていた。
荷車に背中を預けて。
手首の組み紐を見ていた。
「……ハルト」
「はい」
「俺は、さっき、この話、したか」
ハルトは、立ち止まった。
ゴードンは、組み紐から、目を上げなかった。
嘘を、つくのは、簡単だった。
(……でも、ゴードンさんは、聞いてる)
聞いているのだと、思った。
本当のことを。
「しました」
ハルトは、言った。
「二回。……みんな、二回笑いました」
ゴードンは、しばらく黙っていた。
それから、鼻を鳴らした。
「そうか」
組み紐を親指でなぞった。
「なら、得したな」
ハルトは、少し遅れて、笑った。
ゴードンも笑った。
小さく。
荷車の向こうでマーサの寝息が聞こえた。
西の空の下に、焼け跡のある谷があった。
あと、七日だった。




