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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第五章 空の館

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第88話 境目

新しい主は、イゾルデの剣を見た。

下げたままの剣を。

「構えもしないで」

薄い笑いが深くなった。

「将軍の真似ですか。……お嬢様」

男は、馬の腹を蹴った。

速かった。

ハルトは、盾を上げようとした。

腕が重かった。冷えて、肘までまだ熱かった。

間に合わない、と、思った。

イゾルデは、動かなかった。

馬が来た。

剣が振り下ろされた。

その半拍、前に。

下げたままのイゾルデの剣が、下から、上がった。

一太刀だった。

構えのない、ところから。

音が一つした。

男の剣が宙に跳ねた。

手綱が切れていた。

男は、鞍から、落ちた。

泥の中に。

前腕を押さえていた。黒い外套の袖が、赤く、なっていた。

イゾルデは、剣を下げた。

また、構えなかった。

「迎えは、要らない」

イゾルデは、言った。

「私は、自分の足で帰る」


後ろの騎馬がざわめいた。

二十と少し。

一騎が、剣を抜いてイゾルデの横から来た。

ハルトは、前に出た。

イゾルデの横に。

盾で受けた。

衝撃がほどけた。

崩せなかった。

止めた。

止めたところに、年かさの古い兵の槍が来た。

馬の脚の前を払った。

馬が竿立ちになった。乗っていた男が転がり落ちた。

ハルトは、追わなかった。

新しい主が、泥の中で何かを叫んだ。

騎馬が、二人がかりで男を引き上げた。

馬の首を返した。

霧の奥へ。


「十一」

セラの声がした。

霧がまた厚くなった。

ハルトは、振り返った。

槍の列がそこにあった。

さっき、味方の弩に撃たれた列だった。

何人かが、伏せたまま、動かなかった。

何人かが、肩や、腕を押さえていた。

自分たちの背中から、来た矢で。

列の中で年寄りの兵が立ち上がった。

槍を地面に突いた。

穂先を下にして。

それから、横へ一歩退いた。

隣の兵も。

その隣も。

槍の列が割れていった。

真ん中から。左右へ。

誰も命令して、いなかった。

ハルトは、それを見ていた。

割れた、列の向こうに柵があった。

荷車を、並べた、柵。

槍の列の兵が、二人その荷車に手をかけた。

押した。

荷車が、軋んで、横へ動いた。

道が一本開いた。

年寄りの兵がイゾルデを見た。

それから、ハルトを。

「……通れ」

低い声だった。

「お嬢様の連れだ。……撃たれる、筋合いは、ねえ」


「行きます!」

ハルトは、叫んだ。

糸が震えた。

百五十の糸が、一度に、前へ。

荷車が動いた。

ゴードンとマーサを乗せて。腿を射られた村の男を乗せて。

ピムの鍋が揺れていた。

割れた、槍の列の間を旗団が通った。

左右に、槍を下にした兵が並んでいた。

誰も何も言わなかった。

ハルトは、一番、後ろについた。

盾を弩のほうへ向けて。

弩の列から、声がした。

「撃て!」

でも、矢は、来なかった。

霧が厚すぎた。

「十二」


霧の中でリュネが膝をついていた。

セラが、その脇を抱えていた。

ハルトは、走った。

「リュネ!」

リュネは、顔を上げた。

唇は、もう青を通り越していた。

でも、目は、開いていた。

開いて、何かを見ていた。

「……違う」

リュネは、言った。

歯が鳴っていた。

「水じゃ、ない」

「リュネ、もう」

「黙って」

リュネは、長杖を握った。

「糸の向こうで、みんなの温かいのが、わかるの。百五十。……それと、霧の冷たいのと」

リュネの目が霧の中を見ていた。

「霧は、そこにできてる。温かいのと、冷たいのの境目に。……私、ずっと、水を、動かしてると、思ってた」

リュネは、笑った。

震えながら。

「境目を動かしてたのよ」

長杖が上がった。

最後の霧は、静かだった。

今までで、いちばん、広くて。

いちばん、軽かった。

冷えが、ほとんど、来なかった。

ハルトは、それがわかった。

糸の全部で。

「……十三」

セラが言った。

リュネの手から、長杖が落ちた。

セラが受け止めた。リュネを。


谷の出口を抜けた。

最後の荷車が柵の外に出た時、後ろで角笛が鳴った。

長く一度。

退く、合図だった。

ノエラが言った。

「追ってきません」

平らな声だった。

でも、帳面を持つ手が、少しだけ震えていた。

「割れた、列を、もう一度、並べるのに、時間がかかります。……並ばないかも、しれない」

旗団の後ろに、人が、ついてきていた。

槍を、肩に、担いで。

副将の旗の色の外套のまま。

イゾルデの馬の後ろに。

年寄りの兵が先頭にいた。

「数えます」

ノエラが言った。

「十と三」


日が暮れた。

谷を一つ越えた窪地で火を焚いた。

ハルトは、焚き火の前に座っていた。

歯が、鳴って、止まらなかった。

いちばん多く持ったのは、やっぱりハルトだった。

糸の真ん中にいたから。

肘の熱は、もう引いていた。灰色の境目は、朝と同じ、ところにあった。

進んでは、いなかった。

肩に、重いものが、かかった。

外套だった。

大きな古い外套。

「笑えない夜は、誰かに、もたれろ」

ゴードンだった。

ハルトの横に腰を下ろした。

ハルトは、少し迷って、それから、もたれた。

ゴードンの肩は、昔より、細かった。

でも、温かかった。

反対の横にユノが来た。

何も言わずに、ハルトの灰色の手を取った。

境目が温かかった。

ロブが、来た。ヤンが、来た。ラースが、来た。サビナが来て、「暑苦しいね」と言いながら、背中合わせに座った。

焚き火の周りが人で埋まった。

糸は、もう伸ばしていなかった。

それでも、温かかった。


荷車の上で、腿を射られた男が眠っていた。

マーサが横にいた。

「助かるわ」

マーサは、言った。

「矢は、骨を外れてた。ユノの風で血も止まった。……でも、たぶん、引きずるわね。一生」

ハルトは、男の顔を見た。

名前を知っていた。

谷の外れの村で聞いた名前だった。

「……すみません」

ハルトは、言った。

眠っている、男に。

マーサが、ハルトの頭を軽く叩いた。

「起きてる時に言いなさい。……それから、謝るんじゃ、なくて」

マーサは、男の毛布を直した。

「ありがとう、のほうよ」


夜更けにリュネが目を開けた。

最初に、言ったのは、「手帳」だった。

セラが渡した。

リュネは、震える手で書いた。

字が歪んでいた。

境目。

その下に十三。

それから、もう一行。

最後の一つは、軽かった。

「紋が、変わるわけじゃ、ない」

リュネは、言った。

手帳を胸に抱いて。

「水の紋は、水の紋のまま。……でも、見えたの。水のもっと、奥にあるもの」

「上の紋、ですか」

ハルトが聞いた。

「さあね」

リュネは、言った。

それから、少し笑った。

「理論的には、まだ何とも言えない。……だから、調べる」

リュネの目が、焚き火の向こうを見た。

ゴードンがそこにいた。

外套をハルトに貸したまま、肩をすくめて、座っていた。

「温かいのと、冷たいのの境目」

リュネは、小さく言った。

「……ゴードンさんのも、境目が、あるはずなのよ」


焚き火から少し離れたところに、もう一つ火があった。

イゾルデの火だった。

十三人の古い兵が、その周りに座っていた。

最初の四人と合わせて、十七人。

ハルトは、その火の前に行った。

イゾルデは、剣の手入れをしていた。

「私は、旗団には、入らない」

ハルトが何か言う前に、イゾルデは言った。

「わかってます」

「でも、この人たちを、置いては、いけない」

イゾルデは、刃を布で拭った。

「父の兵よ。……父が、いない、今は、私の」

ハルトは、頷いた。

それから、十三人の前にしゃがんだ。

「名前を教えてください」

年寄りの兵がハルトを見た。

灰色の腕を見た。

「……あんたが将軍の剣を折った」

「はい」

「将軍は、あんたのことを話してた。……捕虜交換の後で。盾の小僧が、いた、って」

年寄りの兵は、それ以上、言わなかった。

名前を言った。

ハルトは、それを繰り返した。

覚えた。

次の兵も。その次も。

十三人。

イゾルデは、手を止めずに、それを聞いていた。

最後の名前をハルトが繰り返した時、イゾルデは言った。

「焼け跡の近くにいるわ。……旗の下じゃ、なくて」

刃を鞘に納めた。

「横に」

ハルトは、少しだけ笑った。

気づいたら、笑っていた。

イゾルデは、それを見て、何も言わなかった。

でも、焚き火の明かりの中で、口の端がほんの少しだけ動いた。

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