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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第五章 空の館

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第87話 谷の出口

館を出る朝。

門は、開いたままだった。

イゾルデは、閉めなかった。

「閉めたら、誰かが、開けに来るでしょう。……開いてれば、誰も来ない」

イゾルデは、馬の腹帯を締めていた。

父の古い兵、四人も。

ハルトは、馬の横に立った。

「一緒に来るんですか」

「一緒には、行かない」

イゾルデは、言った。

「同じ道を行くだけ。……迎えに来るんでしょう。なら、こっちから、行ったほうが早い」

イゾルデは、布を巻いていなかった。

巻く気もないのだと、ハルトは思った。

荷車の上で、ゴードンが、一度だけ館を振り返った。

二階の窓を。

それから、前を向いた。

左の手首に、茶と、黒の組み紐があった。


谷の出口は、狭かった。

両側が、崖のような斜面で。その間を道が一本抜けていく。

道を柵が塞いでいた。荷車を横に並べて。杭を打って。

夕暮れの尾根から、ヤンが指を折った。

「柵の前に槍の列。……二百は、います。旗は、副将の」

「後ろは」

「弩。それから、両側の斜面の上に黒い外套。……銀の鎖です。左右に、七十ずつ、くらい」

ヤンは、一度言葉を切った。

「真ん中の奥に、騎馬が、二十と少し」

ノエラは、黙って聞いていた。

「四百に少し足りません」

ノエラは、言った。

平らな声だった。

「遠い道へ、戻れば、十日。食べ物は、六日分。……戻れません」

「待ったら」

「待つのは、向こうです。食べ物は、陣から、来ます」

ノエラは、柵のほうを見た。

「抜くしか、ありません」


その夜、鍋の前で、ハルトは、全員に聞いた。

一人ずつ。

手は、上がった。

最後に、ハルトは、イゾルデの前に立った。

イゾルデは、焚き火から少し離れて座っていた。旗団の輪の外に。

「前の槍の列は」

年かさの古い兵が先に言った。

「将軍の軍です。……半分は、冬に取られた村の者。残りは、俺たちが、一緒に、飯を、食った、連中だ」

イゾルデは、焚き火を見ていた。

「私は、父の兵には、剣を向けない」

イゾルデは、言った。

「黒い外套になら。……いくらでも」

ハルトは、頷いた。

「俺たちも、前の列は、崩すだけにします。追いません」

ノエラが、帳面から、顔を上げた。

それから、何も言わずに、また下げた。

数え直しているのだと、ハルトは、思った。


夜明け前。

ハルトは、列の一番前に立った。

借り物の盾を、腕から、拳一つ、離して。

右手の灰色の奥で何かがほどけた。

糸が伸びた。

リュネへ。ユノへ。セラへ。ノエラへ。サビナと九人へ。ロブへ。ヤンへ。ラースへ。東の谷の男たちへ。森の八人へ。村の九人へ。

荷車のゴードンへ。マーサへ。

百五十に近い糸だった。

イゾルデにも届いた。館で、名前を、聞いた四人の古い兵にも。

細い糸だった。

でも、届いた。

イゾルデが、振り返って、ハルトを見た。

何も言わなかった。

「全部、やるわよ」

リュネが長杖を立てた。

「谷の出口、全部。……理論的には、いける」

「数える」

セラが言った。リュネの横で。

リュネは、少し笑った。

「お願い」


谷の底から、白いものが立ち上がった。

ぬかるみから。斜面の雪の残りから。

それは、これまでの霧とは、違った。

広かった。

柵が消えた。槍の列が消えた。斜面の黒い外套が消えた。

谷の出口、全部が白くなった。

「一つ」

セラが言った。

冷えが来た。

ハルトの指先に。

それから、すぐに薄くなった。

百五十に分かれて。

角笛が鳴った。

弩の弦の音がした。

霧の中に矢が降った。

狙いのない、矢だった。

一本が盾に当たった。衝撃が、盾と、腕の間で一度ほどけた。

「前へ!」

セラの声だった。


槍の列は、霧の中で動かなかった。

動けないのだと、ハルトは、思った。

前が見えない。後ろから、弩が撃っている。

ハルトは、柵の手前まで出た。

霧の切れ目に槍の穂先が並んでいた。

その後ろの顔が見えた。

若い顔だった。

ハルトと変わらない。

槍が来た。

受けた。

崩せなかった。

止めた。

止めたところに、ロブの槍が横から穂先を払った。

相手は、槍を取り落とした。

ハルトは、追わなかった。

「下がってください!」

ハルトは、叫んだ。

相手は、ハルトを見た。

灰色の腕を。

下がらなかった。

下がれば、後ろの弩に撃たれる。

ハルトは、それを知っていた。

焼け跡で見た。


「二つ。……三つ」

セラの声が、霧の後ろから、聞こえた。

霧が、薄くなるたびに、リュネがもう一度立てた。

四つ。五つ。

冷えが、少しずつ深くなった。

ハルトの息が白かった。

横のロブの息も。

糸の向こうで、百五十の息が白くなっていくのがわかった。

六つ。

左の斜面から、黒い外套が下りてきた。

霧の中を、手探りで。

「斜面、凍らせる!」

リュネの声だった。

斜面のぬかるみが白く光った。

黒い外套が滑った。一人。二人。十人。

転がって、霧の中に消えた。

「七つ」

セラが言った。

声が少し硬かった。

右の斜面でも、同じことが起きた。

「八つ」


ハルトの指が、動かなくなりはじめた。

盾の革帯の上で。

握らなくていい、盾だった。

だから、まだ持っていた。

でも、横で何かが落ちる音がした。

槍だった。

村の九人の一人だった。

指が開かなかったのだと、ハルトは思った。

男が、屈んで、拾おうとした。

その腿に矢が刺さった。

糸が一本跳ねた。

ハルトの胸の奥で。

「……っ」

男が、泥の中に膝をついた。

ハルトは、盾を男の前に出した。

二本目の矢が盾に当たった。

「下げて!」

誰かが、男の襟をつかんで、後ろへ引いた。

ユノだった。

ユノの指も白かった。

(……分けたから、軽い。でも、なくなった、わけじゃない)

ハルトは、それを知っていた。

リュネが言っていた。

全員で少しずつ。

それは、全員が、少しずつ冷えるということだった。


「九つ」

セラの声がした。

ハルトは、振り返った。

霧の切れ目にリュネがいた。

長杖にもたれていた。

唇が青かった。今まででいちばん。

「……まだ、いける」

リュネは、言った。

歯が鳴っていた。

「理論的には、ね」

セラが、リュネの肩を支えていた。

セラの左手が震えていた。

それが冷えのせいなのか、ハルトにはわからなかった。


その時、槍の列の真ん中が揺れた。

霧の中で。

声がした。

旗団の声では、なかった。

「……お嬢様」

槍の列の中から、だった。

ハルトは、横を見た。

イゾルデがいた。

ハルトのすぐ横に。いつの間にか。

兜を、かぶっていなかった。

剣も抜いていなかった。

ただ、霧の切れ目に立っていた。

槍の列の前に。

年かさの古い兵が、その半歩後ろに。

「お嬢様だ」

槍の列の中で誰かが言った。

「将軍の娘御だ。……なんで、あっちに」

穂先が一本下がった。

二本。

三本。

イゾルデは、何も言わなかった。

ただ、そこに立っていた。

父が、そうしていたように。

構えずに。


槍の列の後ろで怒鳴り声がした。

「撃て!」

弩の列からだった。

「前の列ごと、撃て! 構うな!」

槍の列が凍りついた。

ハルトの背中が冷えた。

焼け跡と同じだった。

逃げる、背中を、撃つ、声。

ハルトは、盾を上げた。

イゾルデの前に。

槍の列の前に。

「伏せて!」

叫んだ。

槍の列の誰に、届いたのかは、わからなかった。

名前を知らなかった。糸は、届かなかった。

でも、何人かが伏せた。

矢が来た。

盾が鳴った。三度。四度。

衝撃が、盾と、腕の間でほどけて。

ほどけきらずに、肘まで来た。

灰色の境目が熱かった。


弩が止んだ。

霧の向こうで蹄の音がした。

真ん中の奥から。

騎馬が、二十と少し。

霧を割って、出てきた。

黒い外套。胸に細い銀の鎖。

先頭の男は、若かった。

馬の上から、イゾルデを見下ろした。

それから、ハルトを。

ハルトの灰色の腕を。

男は、薄く、笑った。

「お迎えに上がりました。……お嬢様」

イゾルデは、男を見上げた。

長いこと。

それから、腰の剣の柄に手を置いた。

年かさの古い兵が一歩出かけた。

イゾルデは、振り返らずに、言った。

「ここは、館の外よ」

古い兵が止まった。

イゾルデは、剣を抜いた。

構えなかった。

下げたまま。

父が、そうしたように。

「十」

霧の後ろでセラの声がした。

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