第86話 欄
--- ゼノビア視点 ---
帳簿の頁に線を一本引いた。
縦に。
受け皿の欄の右に。
新しい欄だった。
見出しを何と書くか、ゼノビアは、しばらく決められなかった。
人質、ではなかった。工房の帳簿に、人質という欄は、ない。受け皿、でもなかった。あの子の指は、まだどこも灰色ではない。
結局、名前だけを書いた。
ミア。
見出しの代わりに。
その頁は、こう、並んでいた。
日付。
流した量。技師の数字の倍。
受け皿の番号。その横に名前。四つ。
それから、新しい欄。
会った。
次の行。流さない日。
量の欄は、空。受け皿の欄も空。
新しい欄にも何も書かなかった。
会っていない。
その次の行。流した日。倍の量。四つの名前。
会った。
ゼノビアは、ペンを置いた。
頁を少し離して、見た。
数字を、並べると、形が見える。将軍の下で、軍の帳簿をつけてきて、ゼノビアが、覚えたことの一つだった。
この頁の形は、単純だった。
流した日にだけ、会った、が、並ぶ。
一行も、例外は、なかった。
ハインツは、宿の卓で帳簿をめくった。
その頁で指が止まった。
「新しい欄だね」
「はい」
「見出しが名前だけだ」
「他に、書きようが、ありませんでした」
ハインツは、少し笑った。
「正確だね。……君の帳簿は、いつも」
ハインツは、頁を閉じなかった。
「倍に、したのは、量のためだと、思うかい」
ゼノビアは、答えなかった。
答えをハインツが知っているのは、わかっていた。
聞いているのではない。確かめているのだ。ゼノビアが、どこまで、数えたかを。
「量は、技師の言う量でも、十分だった」
ハインツは、言った。
「僕が、欲しかったのは、彼が、毎回、選ぶことだよ。……あの子に会うために、流す。流すために、あの子に会う。それを、毎回、自分で選ぶ」
ハインツは、頁の会った、の列を指でなぞった。
「人は、自分で選んだことには、慣れるのが早い。……優しい人ほど、ね」
ゼノビアは、ハインツの指を見ていた。
「彼は、もう、粥を、全部、食べています」
ゼノビアは、言った。
「知っている」
「受け皿の名前を、二度読ませた日がありました。……一度目は、聞いていなかった」
ハインツは、頷いた。
「それも知っている」
「書いて、あるからです」
ゼノビアは、言った。
「私の帳簿に」
ハインツは、ゼノビアを見た。
しばらく、見ていた。
それから、帳簿を返した。
「書き続けて、くれ」
ハインツは、言った。
「君の帳簿は、正確だ。……正確な帳簿は、いつか、誰かの役に立つ」
誰のとは、言わなかった。
午後、ゼノビアは、回廊の窓の前に立った。
外の見える、ただ一つの窓。
その下の中庭が見えた。
花壇の芽が、指の長さほどに、伸びていた。
花壇の縁に二人いた。
年寄りの男と小さな女の子。
十七。ミア。
十七が、芽を指さして、何かを話していた。ミアが頷いていた。
十七の左手の人差し指は、二節目まで灰色だった。その隣の中指の先も。
ゼノビアの帳簿に書いてある。四日前の行に。
ミアが、十七の手を見ていた。
灰色の指を。
長いこと。
それから、自分の左手首の組み紐を触った。
銀灰色の。
ミアは、何も言わなかった。
十七の話にまた頷いた。
ゼノビアは、帳簿を開いた。
今日の行。流さない日。
量の欄は、空。受け皿の欄も空。
新しい欄に、ゼノビアは、ペンを置いた。
会っていない。
それは、書かなかった。
代わりに、一言だけ、書いた。
見ていた。
夕方、古い書記が宿に来た。
将軍の軍の書記だった。将軍が名簿から消えた後も、軍の紙を写して届けに来る。誰にも、頼まれずに。
「東の陣から、です」
紙は、三枚あった。
一枚目は、冬の報告の写しだった。焼け跡の延べ棒の回収。失敗。前の列が崩れた。副将は、弩の列をまとめて、東へ退いた。
ゼノビアは、それをもう知っていた。
伝えなかった、命令の結果だった。
二枚目は、新しかった。
春の報告。
反乱軍、百五十前後。焼け跡を出て、東の砦へ。東の陣の北の外れを夜に通過。陣の外れの村で、徴発隊と小競り合い。種麦を取り返される。村の者、反乱軍に加わる。
東の砦の新しい主は、兵を陣へ引き上げた。
三枚目は、命令の写しだった。
帝都から、東の陣へ。銀の鎖の兵、百五十。春の刈り入れの備えとして。
それから、追記が、一行。
反乱軍の帰り道を、塞ぐこと。灰色の腕の盟主の首を、帝都へ。
ゼノビアは、卓に地図を広げた。
東の砦。東の陣。その間の道は、二つ。
近い道は、陣の北の外れを通る。その手前、館から一日のところに、狭い谷の出口がある。
ゼノビアは、数えた。
副将の兵。冬の戦の後に、残ったのは、二百と少し。帝都からの銀の鎖が、百五十。新しい主の兵が、二十と少し。
四百、に少し足りない。
反乱軍は、百五十前後。
谷の出口では、多いほうが有利とは限らない。狭い場所では、数は、並べられない。
でも、塞ぐ側は、待っていればいい。
食べ物は、陣から、運べる。反乱軍の荷車は、一台。
ゼノビアは、地図の上の谷の出口に指を置いた。
それから、離した。
反乱軍の報告の一行をもう一度読んだ。
近い道を夜に通過。
遠い道では、なかった。
近い道を選んだ。陣のすぐ横を。気づかれると、わかっていて。
小競り合いをした。種麦のために。
ゼノビアは、その一行を長いこと見ていた。
数えれば、通るべきでは、なかった。
遠い道を行けば、気づかれずに済んだ。
それでも、近い道を選んだ。そして、村を見過ごさなかった。
「……あなたなら」
声に出ていた。
ゼノビアは、それに気づいた。
宿の部屋には、誰もいなかった。見張りは、扉の外だった。
「あなたなら、遠い道を選んだでしょう。ノエラ」
士官学校の図書室で。
同じ卓で同じ地図を広げていた頃。
ノエラは、いつも正しい道を選んだ。数えて、選んだ。
でも、この一行は、数えた者の道ではなかった。
誰かが、数える前に決めた道だった。
それをノエラが止めなかった。
あるいは。
止めずに、数え直した。
ゼノビアは、帳簿を開いた。
ノエラの頁。
一番上に百四十一。その下に何も書いていなかった。
ゼノビアは、ペンを取った。
少し迷った。
それから、書いた。
種麦。
夜更け。
ゼノビアは、もう一度カインの頁を開いた。
明日は、流す日だった。
技師の紙がもう届いていた。量は、倍。受け皿は、五人。
一人増えていた。
五つ目の番号の横に、ゼノビアは、名前を書いた。
それから、新しい欄に目をやった。
明日の行は、まだ空だった。
明日の夕方には、会った、と、書くことになる。
わかっていた。
ゼノビアは、その欄を見ていた。
帳簿の二つの頁が、頭の中で並んでいた。
帝都の窓のない部屋で、一人で流す若者の頁。
東の谷の出口で、四百に塞がれる百五十の頁。
どちらの頁にも、ゼノビアは、何も書き足せなかった。
数えることしか、できなかった。
数えて、正確に残すことしか。
ゼノビアは、ペンを置いた。
窓の外で、九本の煙突の煙が、夜の空に溶けていた。
東の空は、暗かった。
あの谷の出口にも、もう篝火が並んでいるのだろうか。
ゼノビアは、それを数えられなかった。




