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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第五章 空の館

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第84話 茶と黒

--- イゾルデ視点 ---

新しい主は、雪が、まだ門の前に残っている日に来た。

黒い外套の男たちが、二十と少し。胸に細い銀の鎖。

先頭の男は、馬を降りなかった。

中庭の井戸の前まで馬のまま、入ってきた。

父は、一度も、そうしなかった。

「お嬢様」

男は、馬の上から、言った。

「将軍閣下のご戦死。帝都も深く悼んでおります」

イゾルデは、答えなかった。

答える、言葉がなかった。

戦死。

名簿から、消えた、と聞いた。冬の半ばに。

遺体は、ない、とも。

なら、私は、まだ何も弔っていない。

そう、思った。口には、出さなかった。


男たちは、館の中を歩き回った。

壁の父の剣の掛け台を外した。母の肖像の額を外した。書斎の棚を空にした。

「陣へ運びます」

男は、言った。

「この館は、東の陣の備えに使います。……お嬢様には、引き続き、ご滞在を。帝都が、そう、望んでおりますので」

望んでいる、のではない。

置いておく、と、決めただけだ。

将軍の娘を。どこへも、行かせずに。

イゾルデは、腰の剣に手をかけなかった。

かけたら、終わる、と思った。

塀の陰に、父の古い兵が四人立っていた。誰も去らなかった兵たちだった。

四人ともイゾルデを見ていた。

イゾルデは、首を横に振った。


ミアは、男たちが来た日から、あまり喋らなくなった。

前の夏の初めに、館に来た男たちと、同じ鎖だった。

ミアは、柱の陰でその声を聞いていた。あの日も。

イゾルデは、それを知っていた。

知っていて、何も聞かなかった。

あの子には、言わないことが、ある。

それくらいは、わかった。

言わないことを持っている子に言わせようとするのは、剣を無理に鞘から引き抜くのと、同じだ。

刃が欠ける。


「おしえて」

ある夜、ミアが言った。

イゾルデの部屋の戸口に立っていた。

手に何かを握っていた。

「なにを」

「ひも。……くみひも」

ミアは、手を開いた。

細い組み紐が、一本。銀灰色の。

ミアの左の手首にいつも巻いてあるもの。

「おねえちゃんの、ゆびなら、できるとおもうの」

イゾルデは、それを見た。

「どうして」

「おとうさんの、ぶん」

ミアは、言った。

「みんなに、むすんだの。ハルにいと、ユノおねえちゃんと、リュネおねえちゃんと、カインおにいちゃんと、ミア」

指を折って、数えた。五本。

「おとうさんの、ぶん、なかったの。……おとうさん、あのとき、いなかったから」

イゾルデは、しばらく黙っていた。

それから、立ち上がった。

母の裁縫箱を出した。

箱の底に糸が残っていた。母が、使わなかった、色とりどりの糸の束。

ミアが、その中から、二色を選んだ。

茶と黒。

「なんで、その色」

「おとうさんの、たてのいろ」

ミアは、言った。

「きと、てつ」


毎晩、少しずつ編んだ。

ミアの指は、小さかった。三本の糸を交互に重ねるのが、うまくいかなかった。

何度もほどいた。

イゾルデは、手を出さなかった。

最初の夜に一度だけやって見せた。それからは、見ているだけだった。

「おねえちゃんが、やったほうが、はやいのに」

「早くても、意味がないでしょう」

イゾルデは、言った。

「あなたの、お父さんの分なんだから」

ミアは、頷いた。

ほどいて、また編んだ。

ある夜、ミアの手が止まった。

「おとうさん、たて、まだ、もってるかな」

イゾルデは、答えられなかった。

父の剣を、折った少年の話は、聞いていた。

秋の戦の報告で。伝令が言った。

反乱軍の盾の小僧。

その小僧の盾が、どうなったのかは、聞いていなかった。

「……持ってるわよ」

イゾルデは、言った。

「お父さんって、そういうものでしょう」

自分の声が少しだけ揺れた。

ミアは、気づかなかった。

気づかないふりを、したのかも、しれなかった。


雪が、解けはじめた日に知らせが来た。

館の子供を、帝都へ。

新しい主は、それを帝都からの紙で読み上げた。

イゾルデは、剣を抜いた。

今度は、止まらなかった。

止めたのは、父の古い兵の一人だった。

イゾルデの手首を、つかんで。

「お嬢様」

年かさの兵だった。父の背中を、二十年、見てきた男。

「将軍は、ここで剣を抜かれましたか」

イゾルデは、男を見た。

「館の中で。……一度でも」

抜かなかった。

父は、一度も。

帝都の使いが、来た日も。

父は、抜かなかった。

抜かずに、何かを守っていた。

何を、守っていたのかは、知らない。

イゾルデは、剣を鞘に戻した。

新しい主が、馬の上で薄く笑った。


出立の前の夜。

組み紐は、できていた。

茶と黒の。少し太さの揃わない。編み目が、ところどころ、詰まっている。

ミアは、それをイゾルデの手にのせた。

「おとうさんが、きたら、わたして」

イゾルデは、それを見た。

「来たら、って」

「くるよ」

ミアは、言った。

迷わなかった。

「おとうさんは、たてで、まもるひとだから。……ハルにいも、きっと、いっしょにくる」

イゾルデは、何も言えなかった。

ミアは、それから、部屋に戻った。

夜更けに、イゾルデは、ミアの部屋の前を通った。

戸が、少しだけ開いていた。

ミアが、寝台の脇に、しゃがんでいた。

壁に向かって。

指で、何かを、こすっていた。何度も。

炭の字だった。

イゾルデは、足を止めなかった。

見なかった。

言わないことを、持っている子のそれを。


朝。

門の前に馬車があった。

ミアは、自分で乗った。

誰にも、押されずに。

右の結び目にだけ、赤いリボン。

左手首に銀灰色の組み紐。

それから、外套の内側に、何かを大事そうに抱えていた。乾いた、花の匂いがした。

ミアは、馬車の窓から、イゾルデを見た。

「イゾルデおねえちゃん」

「なに」

「おにわ。……おねがい、ね」

イゾルデは、頷いた。

「するわ。ちゃんと」

「うん」

ミアは、少しだけ笑った。

泣かなかった。

馬車が動いた。

イゾルデは、門の前で見ていた。

馬車が、平原の向こうに、見えなくなるまで。

見えなくなってから、も、しばらく。


それから、イゾルデは、薬草の庭に行った。

母の庭。父が手入れを続けた庭。

膝をついた。

枯れた茎を、根元から、切らなかった。

芽が出るまで待った。


四日前に知らせが来た。

焼け跡の反乱軍が、東の陣の横を通った、と。

陣の外れの村で、種麦を取り返した、と。

盟主は、灰色の腕の小僧だ、と。

新しい主は、その日のうちに、兵を陣へ引き上げた。

「お嬢様も、陣へ」

馬の上から、男は、言った。

「反乱軍がここへ来ます。……将軍の館を、焼くかも、しれません」

イゾルデは、門の前に立っていた。

「行かない」

「お嬢様」

「ここは、父の館よ」

男は、しばらくイゾルデを見ていた。

それから、肩をすくめた。

「では、ご随意に。……帰り道で、お迎えに上がります」

男たちが去った。

四人の古い兵が残った。

イゾルデは、門の閂を外した。

両手で。

扉を内側に押した。

いっぱいに。

「お嬢様」

年かさの兵が言った。

「開けて、おくのですか」

「開けて、おくの」

イゾルデは、言った。

「半分だけ、開けたら。……罠だと、思われるでしょう」

上着の内側に手を当てた。

茶と、黒の組み紐がそこにあった。

父の剣を、折った、少年が来る。

あの子の父親と一緒に。

確かめたかった。

どんな顔をしているのか。

父の剣を、折った、その手が。

あの子が、「きっと、くる」と、言い切った、その人たちが。

風が、開いた門から、館の中へ吹き込んでいった。

イゾルデは、それを背中で聞いていた。

薬草の庭に一つ目の芽が出ていた。

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