第83話 空の館
灰色の石の壁が、平原の端に低くうずくまっていた。
館、だった。
砦と呼ぶには、静かすぎた。
門は、開いていた。
ヤンの言ったとおりだった。見張りも旗もなかった。門の扉が、内側に向かって、いっぱいに開かれていた。
風が、門の中へ吹き込んでいた。
「罠の形じゃない」
セラが言った。
木の棒を肩にかけたまま。
「罠なら、半分だけ、開ける。……入りたくなるように」
ノエラが頷いた。
「全部、開いているのは。……入っていい、ということです。誰かが、そう、決めた」
ハルトは、門を見た。
それから、後ろを振り返った。
荷車の上で、ゴードンが門を見ていた。
身じろぎも、しなかった。
マーサが、その手を握っていた。
本隊は、門の外の木立に残した。
入ったのは、少しだった。ハルト。セラ。サビナ。リュネ。ユノ。ラース。それから、荷車。
ゴードンが、降りると、言ったのだった。
「歩けなくなる、前に乗るんじゃなかったのか」
サビナが言った。
「ここは、歩く」
ゴードンは、言った。
マーサは、何も言わなかった。ゴードンの腕を取った。
中庭に井戸があった。
石畳の上に、果樹の木が、三本。
白い花が咲いていた。
風が吹くたびに、花びらが、石畳の上を転がった。誰も掃いていなかった。
館の扉も開いていた。
中は、がらんと、していた。
長い卓が一つ。椅子は、なかった。壁に掛けてあったものの跡が、四角く白く残っていた。
「持っていかれたな」
ラースが言った。
「新しい主の兵だ。……陣へ運んだんだろう」
階段の脇に、小さな木の靴が片方だけ転がっていた。
子供の靴だった。
ゴードンがそれを見た。
拾わなかった。
ただ、見ていた。
マーサが、ゴードンの腕を強くつかんだ。
二階の一番奥に小さな部屋があった。
ユノが見つけた。
寝台が一つ。小さな寝台だった。藁の布団は、もうなかった。窓が一つ。窓辺に、何かを乾かしていたような薄い染みがあった。
寝台の脇の壁に。
低いところに。
炭で字が書いてあった。
子供の背の高さだった。
何度も何度も同じ字をなぞった跡。線が、太くなったり細くなったりしていた。
ハルトは、それを読んだ。
おとうさん。
おかあさん。
その下にもう一つ。少し小さく。
ハルにい。
その下は、消してあった。指で、こすったように。何が書いてあったのかは、わからなかった。
リュネが、壁の前にしゃがんだ。
指でそっと炭の跡をなぞった。
「……字、下手ね」
リュネは、言った。
声が、少しだけ詰まっていた。
ユノが口を押さえていた。
ハルトは、窓の外を見た。
中庭で、ゴードンが、まだ階段の脇に立っていた。小さな靴の前に。
(……マーサさんに、見せなきゃ)
あの子、字がまだ下手なのよ。
秋に、マーサはそう言って、泣き笑いをした。
館の裏手から、音がした。
金属の音だった。
刃を、鞘から、抜く音。
ハルトは、裏手へ回った。
石の塀に、囲まれた、小さな庭があった。
薬草の庭だった。
土は、起こしてあった。去年の茎は、きれいに切られていた。根元から、芽が出ていた。
誰かが、冬のあいだも手入れをしていた。
庭の真ん中に女が立っていた。
黒い髪を、後ろで一本の三つ編みにしていた。日に焼けた頬。細い眉。背筋に剣を一本通したように、立っていた。
その手に本物の剣があった。
抜き身だった。
庭の塀の陰に、男が、四人。年かさの兵だった。古い帝国の鎧。胸に、鎖は、なかった。
女がハルトを見た。
灰色の右腕を見た。
背中の剣の柄を見た。
「……父の剣を折った人ね」
女は、言った。
はっきりした、声だった。
ハルトは、頷いた。
「はい」
後ろで、サビナが、斧槍を下ろす音がした。セラが、木の棒を握り直す気配。
「抜かないで、ください」
ハルトは、言った。
振り返らずに。
「誰も」
サビナが舌打ちした。
でも、斧槍は、上がらなかった。
女が踏み込んだ。
速かった。
ハルトは、借り物の盾を上げた。
受けた。
重かった。腕の骨に響いた。盾と腕の間で一度ほどけるはずの衝撃が、ほどけきらなかった。
二の太刀が来た。
盾の縁を滑って。首の横へ。
受けた。
ぎりぎりだった。
崩せなかった。
左手の剣は、抜いていなかった。
三の太刀は、来なかった。
剣の先が、ハルトの首の指一本、手前で止まっていた。
女の息が、少しだけ上がっていた。
「……受けるだけ?」
女は、言った。
「崩して、きなさいよ」
「崩せないんです」
ハルトは、言った。
「受けて、止めるしか、できないんです。……ずっと」
女の目が、ハルトの右手に落ちた。
盾の革帯の下の。握れない、灰色の手に。
長いこと、見ていた。
「……これが」
女は、言った。
声が少しだけ揺れた。
「これが、父上の剣を」
最後まで言わなかった。
剣の先がゆっくり下りた。
荷車のほうで足音がした。
ゴードンだった。
マーサの手をほどいて。一人で歩いてきた。
一歩ずつ。何歩かで止まって、息を整えて。
薬草の庭の塀の前で止まった。
女を見た。
「ミアは」
ゴードンは、言った。
声がかすれていた。
「ミアは、どこだ」
女は、ゴードンを見上げた。
大きな体。髭に、白いものが、混じった顔。
女の目が、少しだけ見開かれた。
「……お父さん、ね」
女は、言った。
「ミアの」
ゴードンは、何も言わなかった。
「あの子が言ってた。……おとうさんは、おおきくて。ひげで。たてを、もってるって」
女は、ゴードンの手を見た。
盾は、持っていなかった。
古い槍を、杖のように、ついていた。
女は、それを見て。何も言わなかった。
剣を鞘に収めた。
「イゾルデ」
女は、言った。
「この館の主の娘。……主は、もういないけど」
それから、ゴードンにまっすぐ向き直った。
「ミアは、いない」
イゾルデは、言った。
「八日前に帝都へ送られた。……私は、止められなかった」
ゴードンの肩が一度だけ揺れた。
それだけだった。
膝は、つかなかった。槍に、すがりも、しなかった。
ただ、薬草の庭の芽を見ていた。
マーサが、後ろから、来た。
杖をついて。
ゴードンの背中に額をつけた。
何も言わなかった。
「なぜ、門を開けておいたんですか」
ハルトは、聞いた。
イゾルデは、少し黙った。
「新しい主の兵は、四日前に陣へ引き上げた。……あなたたちが、陣の横を通ったって、知らせが、来たから」
「知っていたんですか」
「みんな知ってるわよ」
イゾルデは、言った。
「陣の外れの村で、種麦を取り返したって。……帰り道で待つって」
ノエラの読みと、同じだった。
ハルトは、イゾルデを見た。
「それでも、残ったんですか」
「残ったんじゃ、ない」
イゾルデは、言った。
「待ってたの」
ゴードンを見た。
それから、ハルトを。
「あの子から、預かったものが、ある。……あの子のお父さんが、来たら、渡してって」
ゴードンが顔を上げた。
イゾルデは、それ以上、言わなかった。
薬草の庭の塀の上で風が吹いた。
果樹の白い花びらが、一枚芽の上に落ちた。
「でも」
イゾルデは、言った。
ハルトのほうを見て。
「父の剣を、折った人に、ただで、渡すつもりは、ない」




