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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第五章 空の館

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第82話 休む番

「一日、止まります」

朝の鍋の前でノエラが言った。

「東の砦まであと二日。ヤンが、先を、見てくるまで。……それと」

ノエラは、荷車のほうをちらりと見た。

それ以上は、言わなかった。

言わなくても、みんな、わかっていた。

荷車の縁で、ゴードンが腕を組んでいた。

「俺のためか」

「数のためです」

ノエラは、言った。

「百三十四人が、十日、歩き続けたら、着いた時に、戦える人は、百人を切ります。……私の計算では」

ゴードンは、鼻を鳴らした。

それ以上、何も言わなかった。


野営地は、川沿いの低い林だった。

昼前には、もう騒がしかった。

サビナの団の男と、陣の外れの村の男が、鍋の前で言い合っていた。

「おまえ、二杯目だろう」

「一杯目だ。さっきのは、味見だ」

「椀、なみなみに味見する奴がいるか」

ピムが、柄杓を持ったまま、困った顔で二人を見ていた。

サビナが、後ろから、二人の頭を同時に叩いた。

「契約に、おかわりの本数は、書いてないよ」

二人は、黙った。

それから、なぜか二人で並んで、鍋の列の一番後ろへ歩いていった。

ハルトは、それを少し離れて、見ていた。

(……止めなくて、よかったのか)

盟主なら、止めるべきだったのか。

考えているうちに、もう終わっていた。


昼過ぎ、リュネが、ハルトを呼びに来た。

「来て。研究」

川べりの大きな石の陰だった。

荷車が引いてきてあった。ゴードンが、その縁に座っていた。マーサが、横に。

ユノがいた。セラもいた。木の棒を膝に置いて。

「なんで、セラさんまで」

「呼ばれた」

セラは、言った。

「数が要るそうだ」

リュネが手帳を開いた。

「焼け跡でも、陣の外れでも、そう。糸に乗せると、私の代償は、軽くなる。一人で払うはずのものが、糸の全部に分かれるから」

リュネは、ゴードンを見た。

「ゴードンさんのそれも。……代償よ。秋に払ったものの残り。遅れて、取り立てに来てる」

ゴードンは、何も言わなかった。

「だったら、分けられるかも、しれない」

リュネは、言った。

「全部じゃ、ない。払ったものは、戻らない。アガタの婆さまも、そう言ってた。……でも、これから、取り立てに来る分なら」

ハルトは、ゴードンを見た。

ゴードンは、川を見ていた。

「……好きにしろ」

ゴードンは、言った。

「どうせ、荷車の上で、することもねえ」


糸は、六本だけだった。

ゴードンへ。マーサへ。ユノへ。リュネへ。セラへ。それから、ハルト自身へ。

灰色の右手の奥で何かがほどけた。

一番太いのは、ゴードンへの糸だった。

秋の尾根で。最初に、横に来てくれた人。

糸の向こうから、何かが来た。

重かった。

冷たいのとは、違った。

濡れた外套を何枚も重ねて、背負ったような。

これが、ゴードンさんの毎日なのか、と思った。

重さが、糸を伝って、六つに分かれた。

マーサが小さく息を吐いた。ユノが肩をすくめた。セラは、表情を変えなかった。リュネは、手帳に何かを書いていた。

ゴードンが顔を上げた。

「……軽い、な」

ゴードンは、言った。

荷車の縁から、立ち上がった。

一度で。

川べりまで歩いた。

二十歩。

止まらなかった。

三十歩。

四十歩で振り返った。

息が少し上がっていた。でも、立っていた。

マーサが口元を押さえた。

「……四十歩」

リュネが言った。

声が、少しだけ揺れていた。

「数えるな」

ゴードンが言った。

ハルトは、糸を見た。

ゴードンへの一番太い糸。

(……もっと、こっちに、来れば)

もっと、自分が、引き受ければ。

五十歩。百歩。焼け跡に帰る時には、歩いて門をくぐれるかもしれない。

ハルトは、糸を引いた。

重さが一度に来た。

膝が折れた。

石の上に手をついた。左手で。指先から、熱が抜けていった。息が白くなった。昼なのに。

「ハル!」

ユノの声だった。

「ばか!」

リュネの声だった。

糸がほどけた。

ほどいたのは、ハルトでは、なかった。

ユノが、ハルトの灰色の手を両手で握っていた。

境目が、熱いくらいに温かかった。


気がつくと、マーサの毛布に、くるまれていた。

焚き火の前だった。

ゴードンが、目の前に、しゃがんでいた。

しゃがむのも、つらいはずだった。

「盟主が」

ゴードンは、言った。

低い声だった。

「真っ先に倒れて、どうする」

「……すみません」

「謝るな」

ゴードンは、ハルトの額を指で弾いた。

軽く。

痛くは、なかった。

でも、子供の頃に守備隊の詰所で、同じことをされた気がした。

「分けるって、言い出したのは、おまえだろうが。……分けるってのはな。全員で少しずつだ。おまえ一人が、多く持ったら、それは、もう、分けてるんじゃ、ねえ」

リュネが、焚き火の向こうで手帳を閉じた。

「理論的にもそう。……一人が引っ張ったら、糸が偏る。偏ったら、その一人が潰れる。それだけ」

それから、ふん、と鼻を鳴らした。

「研究の邪魔しないで」

ハルトは、毛布の中で小さくなった。


日が傾いていた。

マーサが、鍋の横で芋を焼いていた。

灰の中に、皮ごと、埋めて。

「この人の好物なのよ」

マーサは、言った。

「皮が、焦げたところに塩をふって。……それだけ。安上がりな人」

ゴードンは、何も言わなかった。

でも、焚き火の前から、動かなかった。

マーサが、焼けた芋をハルトにも一つ渡した。

「あんたね」

マーサは、言った。

「焼け跡を出てから。……ううん、もっと前から。ずっと、盟主の顔、してるわね」

ハルトは、芋を持ったまま、マーサを見た。

「寝てても、盟主の顔」

「……そんな顔、してますか」

「してるわよ」

ゴードンが、芋の皮をむきながら言った。

「守備隊でもな。門番は、交代で立つ」

「……はい」

「一人で、ずっと立ってる門番はな。いざって時に居眠りする。……だから、交代する。休む番の奴は、休むのが仕事だ。立ってる番の奴に任せて」

ゴードンは、芋をかじった。

熱かったらしい。眉をしかめた。

「今は、おまえが休む番だ。……ここには、盟主は、要らん」

ハルトは、焚き火を見回した。

ユノがいた。リュネがいた。セラがいた。マーサとゴードンがいた。

ソーヌ村の頃から、知っている人たちと。途中で、一緒になった人たちと。

ここには、百三十四人の名前は、なかった。

六人分の顔だけがあった。


セラが鍋の番をしていた。

マーサに、頼まれたのだった。「かき混ぜてて」と。

セラは、木の匙を真っ直ぐに立てて、鍋の中を一定の速さで回していた。

一回。二回。三回。

棒の稽古と同じだった。

匙の先が、少しも、ぶれなかった。

「……セラさん」

ユノが言った。

「それ、ずっと同じ速さ?」

「乱れると、焦げる、と聞いた」

セラは、真顔で言った。

「なら、乱さない」

匙が回っていた。

一回。二回。

左手は、少し震えていた。でも、匙を持つ右手は、少しもぶれなかった。

リュネが、それをじっと見ていた。

それから、手帳を開いた。

「……セラ。鍋。毎回、同じ速さ」

書いた。

真顔で。

ハルトの喉の奥から、何かがこぼれた。

声だった。

自分でも、何の声か、わからなかった。

止まらなかった。

肩が揺れた。芋を、落としそうに、なった。

笑っていた。

焚き火の周りが静かになった。

全員がハルトを見ていた。

ハルトは、笑いながら、それに気づいた。

「……え」

リュネの炭筆が止まっていた。

「今の。……笑った?」

ユノが口を押さえていた。

目が濡れていた。

それから、ユノも笑った。

泣きそうな顔のまま、声を上げて。

マーサが、笑った。セラは、匙を回したまま、少しだけ口の端を上げた。リュネは、「なによ」と言いながら、耳まで赤かった。

ゴードンは、芋を持ったまま、ハルトを見ていた。

「……やっと、ガキの顔に戻ったな」

ゴードンは、言った。

マーサが、ゴードンの肩にもたれた。

「笑っていい時に笑えない子はね」

マーサは、言った。

「泣いていい時にも、泣けないのよ。……だから、笑いなさい。ちゃんと」

ハルトは、頷いた。

涙は、出なかった。

でも、喉の奥が熱かった。


夜更けに、ユノが、ハルトの隣に座った。

焚き火は、もう小さかった。

「ハル」

「なに、ユノ姉」

「……ずっと、見てたの」

ユノは、膝を抱えていた。

「ベルナの橋から。ハルの顔ばっかり。笑わないかな、泣かないかな、って。……盟主になってからは、もっと」

ユノは、焚き火を見た。

「見てるうちに、自分が、どんな顔してたか、忘れちゃった」

ハルトは、ユノを見た。

三つ編みが、少し、ほどけかけていた。

いつから、だったのか。

ユノが、髪を結び直さなくなったのは。

「笑っていいのかな、って。私が。……ずっと、思ってた」

ユノの声が少しだけ震えた。

「私、あの時、手を」

言いかけて、やめた。

ハルトは、何のことか、聞かなかった。

聞かなくていい気がした。

「半分こ、だろ」

ハルトは、言った。

「……ユノ姉が言ったんだ。ずっと」

ユノがハルトを見た。

それから、笑った。

昼間とは、違う、小さな笑い方で。

ユノは、自分の三つ編みをほどいた。

結び直した。

きつく。

焚き火の向こうで、ゴードンの寝息が聞こえた。

いつもより、深い寝息だった。


夜明け前にヤンが戻ってきた。

ハルトは、毛布から、起き上がった。

「盟主」

ヤンの顔を見た。

それから、ハルトは、言った。

「……ハルトでいいです。今は」

ヤンは、少しだけ目を丸くした。

それから、頷いた。

「ハルト」

ヤンは、言い直した。

「東の砦の門が開いています」

「……開いて」

「はい。見張りも旗もありません。門が、開いたまま、です」

ハルトは、東を見た。

空が白みはじめていた。

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