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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第五章 空の館

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第81話 刈り入れの前

東の陣の篝火は、尾根の上から、よく見えた。

谷を一つ埋めるほどだった。

ハルトは、木立の陰に伏せていた。横でヤンが指を折っていた。

「冬より、天幕が、四十は、多いです」

ヤンは、声を落とした。

「旗が、二種類。……副将の旗ともう一つ。銀の鎖の紋」

「帝都から、来た兵ですか」

「たぶん」

ハルトは、篝火の数を数えようとして、やめた。

数えるのは、ノエラの仕事だった。

ラースが、尾根の下を指さした。

「道は、陣の北の外れを通る。篝火から、矢の届かない、ぎりぎりだ」

指の先に小さな灯りが三つあった。

「それと、村が一つ。陣に麦を出させられてる村だ」


月のない夜だった。

百二十五と十と二と一と一。荷車が、一台。

車輪に布を巻いた。鍋に藁を詰めた。誰も喋らなかった。

荷車の上で、ゴードンが、古い槍を膝に置いていた。マーサが、その横でピムの鍋を抱えていた。

陣の篝火が、左手の谷の底に並んでいた。

半分を過ぎた頃だった。

前のほうでラースが止まった。

村の灯りが近かった。

灯りの下で人が動いていた。

荷車が、四台。馬が、二頭。

麦の袋を積んでいた。

積んでいるのは、村の男たちだった。年寄りと、子供くらいの背の者も、混じっていた。

その周りに、槍を持った兵が、十五、六。馬の上に一人。胸に細い銀の鎖。

「……種麦だ」

ラースが言った。

低い声だった。

「あの口の縛り方は、種麦の袋だ。春にまく分だ」

ハルトは、袋を見た。

荷車の横で、年寄りの男が袋にしがみついていた。

兵が、槍の石突きでその男の肩を打った。

男が泥の中に倒れた。

子供が声を上げた。

セラが、ハルトの横に来ていた。

いつの間にか。

「見過ごせば、誰にも気づかれずに、抜けられる」

セラは、言った。

平らな声だった。

「止めれば、陣に知られる。……君が決めなさい」

ハルトは、振り返った。

暗がりの中に百何十の顔があった。

ノエラがいた。サビナがいた。荷車の上で、ゴードンがこちらを見ていた。

みんなに、聞く時間は、なかった。

(……一人では、決めない)

ハルトは、セラを見た。

「セラさんなら、どうしますか」

「止める」

「ノエラさんは」

ノエラは、もう篝火を数えていた。

「陣から、ここまで馬で四半刻。……四半刻のうちなら」

サビナが、斧槍を肩から下ろした。

「種麦を、取られた村は、秋に死ぬよ」

それだけ、言った。

ハルトは、頷いた。

「止めます」


リュネが長杖を上げた。

ハルトの右手の灰色の奥で何かがほどけた。

糸が伸びた。

リュネへ。セラへ。サビナと九人へ。ロブへ。ヤンへ。ラースへ。

名前と顔が、繋がった、全員へ。

村の男たちには、届かなかった。

名前を知らなかった。

「霧、いくわよ」

リュネが言った。

村の前のぬかるみから、白いものが立ち上がった。

灯りが滲んだ。

兵が、振り返った時には、もう霧の中だった。

「右から、回れ!」

セラの声だった。

サビナの団が霧の右へ消えた。

ハルトは、まっすぐ前に出た。

借り物の盾を、拳一つ腕から離して。

霧の中から、槍が来た。

受けた。

衝撃が、盾と、腕の間で一度ほどけた。

二本目。

受けた。

崩せなかった。

止めた。

止めたところに、ロブの槍が横から入った。

兵が膝をついた。

霧が薄くなった。

リュネが、もう一度杖を振った。

また、白くなった。

三度目。四度目。

ハルトの指先が、少しずつ冷えていった。

でも、凍えは、しなかった。

冷えは、糸の全部に少しずつ分かれていた。


馬の上の男が何かを叫んだ。

角笛を口に当てようとしていた。

その腕に短い矢が刺さった。

ユノだった。

荷車の陰から、短弓を引いていた。

二本目は、要らなかった。男は、角笛を落とした。

馬の首を返した。

陣のほうへ。

「逃がすな!」

誰かが叫んだ。

ラースが走った。

でも、馬には、追いつけなかった。

もう一頭の馬も、兵を一人乗せて、霧の外へ抜けていった。

蹄の音が、陣の篝火のほうへ遠ざかっていった。

残った兵は、槍を捨てた。

十一人だった。


戦いは、それで、終わりだった。

死んだ者は、いなかった。

サビナの団の一人が、腕を浅く切られた。村の年寄りの男は、肩の骨にひびが入っていた。

荷車の横にゴードンが立っていた。

いつ降りたのか、ハルトは見ていなかった。古い槍を、杖のように、地面に突いていた。荷車とマーサの前に。

肩が、大きく上下していた。

槍は、一度も振っていなかった。

「……乗る番、でしょう」

荷車の上から、マーサが言った。

声が、少しだけ震えていた。

「霧の中だ」

ゴードンは、言った。息の合間に。

「誰が、来るか、わからん。……前に、立つくらいは、できる」

マーサは、何も言わなかった。

ゴードンの外套の背を握っていた。

リュネが、荷車の縁に腰かけていた。唇が少しだけ青かった。

「……五回」

リュネは、言った。

「数えたわよ、今日は。……一人なら、二回で歯が鳴ってた」

ハルトの右手を見た。

「あんたは」

「指が、少し冷たいだけ」

リュネは、ふん、と鼻を鳴らした。

懐から、手帳を出した。暗い中で何かを書いた。

ユノが、ハルトの灰色の右手を両手で包んだ。

境目が少し温かかった。

ユノは、何も言わなかった。

ただ、さっき弓を引いた指が、まだ少し震えていた。


村の男たちが、麦の袋を荷車から下ろしていた。

一つずつ。

肩にひびの入った年寄りが、泥の中に座ったまま、それを見ていた。

ハルトは、年寄りの前にしゃがんだ。

「名前を教えてください」

年寄りは、ハルトを見た。

灰色の右手を見た。

背中の剣を見た。

「……あんたが焼け跡の盟主か」

「はい」

「将軍の剣を、折った、灰色の腕の小僧」

年寄りは、言った。

「陣の兵が、そう、言ってた。……首に、値が、ついてるって」

ハルトは、頷いた。

年寄りは、長いこと、黙っていた。

それから、名前を言った。

ハルトは、それを繰り返した。

覚えた。


夜明け前に決まった。

みんなに、聞いた。村の者たちにも聞いた。

陣に知られた村は、もう、ここにはいられなかった。

年寄りと、女と子供は、東の谷へ行く。二日、戻る道だった。谷には、畑を起こす四人がいる。ラースの谷だった。

ラースが、谷への道を村の若い女に教えた。

戦える男が、九人。

旗団と、一緒に東の砦へ行く。

ハルトは、九人に一人ずつ、名前を聞いた。

覚えた。

槍を捨てた十一人の兵は、縛って、村の倉に残した。

「殺さないの」

村の若い女が言った。

「殺さないです」

ハルトは、言った。

「……でも、種麦は、返してもらいました」

女は、何か言いかけて、やめた。

ノエラが帳面を閉じた。

「百三十四」

平らな声だった。

それから、陣のほうを見た。

「来ません」

ノエラは、言った。

篝火は、さっきと、同じ数で並んでいた。

角笛は、一度鳴った。

それきり、だった。

「四半刻をとうに過ぎています。……追ってこない」

ハルトは、ノエラを見た。

「どうして、ですか」

「追う必要がないからです」

ノエラは、言った。

「東の砦へ、行く道は、二つ。帰る道も二つ。……私たちが、どちらかを通って、戻ってくるのを待てばいい」

尾根の向こうが白みはじめていた。

篝火が、一つずつ、消えていった。

消えた後の谷の底に天幕が並んでいた。

数えきれないほど。

ハルトは、右手首の白い組み紐を左手で押さえた。

まだ指先が少し冷たかった。

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