第80話 首輪
--- カイン視点 ---
中庭の花壇に芽が出ていた。
枯れた茎の根元から。緑とも、白ともつかない、小さな芽が。
十七の男が、花壇の縁に膝をついていた。
小さな鋏で、枯れた茎を一本ずつ切っていた。
ガルドの鋏だった。
カインが貸した。
「春だ」
男は、言った。
「芽が、出たら、切っていい。……言ったろ」
男の左手の人差し指は、もう一節ではなかった。
二節目の半ばまで。灰色がのぼっていた。
カインは、それを見た。
見て、目を、そらさなかった。
そらさないことだけが、自分にできることだと思っていた。
冬の終わりから、流す日が増えた。
三日に一度が、二日に一度になった。受け皿は、二人が三人になり、四人になった。
扉の数字は、増えた。
夜ごとに、回廊の暗がりで、ゼノビアが名前を読んだ。
カインは、一つずつ、聞いた。
覚えようとした。
全部は、覚えられなかった。
その代わりに、腹が減るようになった。
粥を、半分、食べる日が続いた。眠れる夜が続いた。
灰色は、肘で止まったままだった。
(……ハルには、行っていない)
その考えは、もう先に来ても、驚かなくなっていた。
その朝、中庭へ下りる回廊の窓の前で、カインは足を止めた。
回廊で、ただ一つ、外の見える窓だった。工房の門が見下ろせた。
門の前に馬車が止まっていた。
黒い外套の男が二人降りた。胸に細い銀の鎖。
その後ろから、小さな影が一つ降りてきた。
栗色の髪を二つに結んでいた。
右の結び目にだけ、赤いリボンがあった。
左は、紐だけだった。
女の子は、門を見上げた。
九本の煙突を。
それから、男の一人に背中を押されて、門の中へ入っていった。
カインは、窓枠をつかんでいた。
左手で。
指の関節が白くなっていた。
金色が、目の奥で灯りかけていた。
石に、何かを、させる前に。カインは、手を離した。
技師は、止めなかった。
止められないのだと、わかっていたのだと思う。回廊の先の扉の前で、黒い外套の男が一人待っていた。
違った。
黒い外套では、なかった。
柔らかい色の上着だった。胸に、鎖は、なかった。
「やあ」
男は、言った。
穏やかな声だった。
「君が来ると思っていた。……ハインツだ。会うのは、初めてだね」
「約束が違う」
カインは、言った。
前置きは、しなかった。
「あの子は、館に置く。そういう、取引だった」
ハインツは、少しだけ首をかしげた。
「そうだね。館に、置く、という約束だった」
ハインツは、言った。
「でも、館には、もう新しい主がいる。将軍は、名簿から、消えた。……将軍の館は、もう、どこにも、ないんだよ」
カインは、何も言えなかった。
「館が、館であるうちの約束だった。……僕は、そう、読んでいる」
ハインツは、窓のほうを見た。
「新しい主は、子供の扱いを知らない人でね。放っておけば、あの子は、もっと、悪いところへ行った」
「……どこへ」
「それは、もう考えなくていい」
ハインツは、微笑んだ。
「君のそばに置こう。中庭の見える、部屋に。食事も、眠る場所も僕が用意する。……誰にも、手は、出させない」
カインは、待った。
その後に何が来るのか。
わかっていた。
「その代わり」
ハインツは、言った。
「流す量を増やしてほしい。技師の言う量の倍を。……君の灰色は、増えない。それは、もう、わかっているだろう?」
カインは、ハインツを見た。
ハインツは、目を、そらさなかった。
穏やかな目だった。値踏みする目では、なかった。
もっと、悪かった。
わかっている、目だった。
カインが、何と答えるかを。
(……一人で、決めるな)
誰の声だったのか。
ガルドか。イゾルデか。
それとも、もっと、ずっと昔の。
カインは、その声を聞いた。
聞いて、それでも。
「……わかった」
カインは、言った。
ハインツは、頷いた。
「ありがとう。……会うのは、今日、流した後に。それから、流した日に一度ずつ」
ハインツは、歩き出しかけて、振り返った。
「優しい人と取引をするのは、気が楽だよ。……約束を守ってくれるから」
その日、流す部屋の石の台の向こうに、四人が座っていた。
カインは、灰色の右手を鉄の板に置いた。
技師が、いつもの、倍の数字を読み上げた。
床の石が盛り上がった。
柱になった。もう一本。もう一本。
溝が光った。
光は、四つに分かれて、流れていった。
カインには、何も来なかった。
冷たさも。痛みも。
何も。
台の向こうで、誰かが短く息を呑んだ。
カインは、顔を上げなかった。
上げたら、止まる、と思った。
止まったら、あの子は、どこへ行くのか。
部屋に戻された。
昼の食事が運ばれてきた。麦の粥と、薄い汁と黒いパン。
カインは、匙を取った。
気づいた時には、椀の底が見えていた。
半分では、なかった。
全部、だった。
カインは、空の椀を見た。
体が軽かった。冬のあいだずっと背中に乗っていたものが、どこかへ消えたように。
消えたのでは、ない。
あの四人のところへ行ったのだ。
わかっていた。
わかっているのに、体は、軽かった。
扉が叩かれた。
ゼノビアだった。帳簿を胸に抱えていた。
「読みますか」
カインは、頷いた。
ゼノビアは、扉の前に立ったまま、四つの名前を読んだ。
一つ目。二つ目。
三つ目の途中で、カインは、気づいた。
聞いていなかった。
門の前の馬車を思い出していた。片方だけの赤いリボンを。
「……もう一度」
カインは、言った。
ゼノビアは、何も聞かなかった。
最初から、もう一度読んだ。
四つ目の名前を読み終えた後、ゼノビアは、帳簿を閉じなかった。
空の椀を見ていた。
「館の子供が来たそうですね」
ゼノビアは、言った。
カインは、答えなかった。
ゼノビアは、少しだけ黙った。
それから、帳簿を閉じた。
扉が閉まった。
回廊でペンの音がした。
いつもより、長く。
夕方の中庭は、壁の影で半分暗かった。
花壇の前に小さな背中があった。
十七の男が、その横に、しゃがんでいた。芽を指さして、何かを話していた。
女の子が振り返った。
「……カインお兄ちゃん」
ミアだった。
背が少し伸びていた。頬のそばかすは、そのままだった。
ミアは、走らなかった。
ゆっくり歩いてきた。
カインの前で止まった。
見上げた。
カインは、膝をついた。
「……ミア」
「イゾルデおねえちゃんが、ね」
ミアは、言った。
「さいごまで、いっしょに、いてくれたの。……でも、ここには、こられなかったの」
「そうか」
ミアは、外套の内側から、何かを出した。
小さな包み。黒いパンのかけら。
馬車の中でもらったのだと、ミアは言った。
ミアは、それを二つに割った。
小さいほうを、自分に。
大きいほうを、カインに。
「はんぶんこ」
カインは、それを受け取った。
食べた。
味は、よく、わからなかった。
それでも、全部、食べた。
ミアは、それを見ていた。
それから、カインの後ろを見た。
花壇の縁に十七の男が座っていた。
鋏を、持った、左手。
二節目まで灰色の指。
ミアの目が、その指から、カインの右腕へ動いた。
肘までの灰色へ。
もう一度男の指へ。
ミアは、何も言わなかった。
ただ、カインの外套の端を小さな手でつかんだ。
見ていた。
ずっと見ていた。
カインは、ミアの目を見られなかった。
壁の上の空で、九本の煙突の煙が、夕焼けに溶けていた。




