第79話 谷の名前
夜明けの門の前に列ができていた。
鍋の列では、なかった。
背中に荷を負った列。槍を肩にかけた列。その真ん中に、荷車が、一台。ピムの鍋と、麦の袋と、マーサが乗っていた。
荷車の横にゴードンが立っていた。
「歩けなくなる、前に乗るのよ」
荷車の上から、マーサが言った。
「まだ門も出てねえ」
ゴードンは、言った。
ノエラが、門柱の横で帳面を開いていた。
炭筆が、列の端から端まで動いた。
「戦える人の頁から、百二十一」
平らな声だった。
「契約の頁から、十。帝国の靴の二人。数に、入っていない人が、一人。……帳面に、まだ、書かれていない人が、一人」
マーサが、荷車の上で小さく手を振った。
セラは、黙って木の棒を肩にかけ直した。
ノエラは、帳面を閉じた。
それから、帳面の破れた頁の跡を指でなぞった。
担架が、門柱の横に運ばれてきた。
ウルリクだった。横に杖をついたベック。その後ろに残る者たち。アガタ。ネリ。オット。カーラが、竈の陰で頬杖をついていた。
トマが、門柱の横に立っていた。
トマは、ハルトを見た。
列を見た。
それから、言った。
「言ってから、行け」
出ていく者に言う言葉だった。
ハルトは、一歩前に出た。
「行ってきます」
トマは、頷いた。
ハルトの後ろでユノが言った。
「行ってきます」
リュネが。ヤンが。ロブが。ピムが、鍋の柄杓を振りながら。サビナが、面倒くさそうに。セラが短く。
百二十一と十と二と一と一。
一人ずつ、言って、門柱の間をくぐった。
荷車が門を出る時、ゴードンが立ち止まった。
ウルリクの担架の前で。
「預けたぞ」
ゴードンが言った。
「預かった」
ウルリクが言った。
それだけだった。
最後に、ウルリクが、列の背中に声を投げた。
「帰ってくる時は、言わなくていい」
雪解けの道は、ぬかるんでいた。
荷車の車輪が二度泥に沈んだ。
二度目の時、ゴードンが、荷車の後ろに回ろうとした。
マーサがその袖をつかんだ。
「あなたは、乗る番」
「押すくらい」
「乗る番、よ」
ロブと、川下の村の若い男が、黙って車輪を押し上げた。
ゴードンは、荷車の縁に腰かけた。
腕を組んだ。
前を見ていた。
ハルトは、その横を歩いた。
(横に、いてください、って、言った)
だから、横を歩いた。
列の一番前には、帝国の靴の男がいた。
焼け跡の戦いで、壁の上から、名前を呼び続けた男。
道の分かれ目で迷わなかった。雪の残る斜面のどこが、ぬかるむかを知っていた。
でも、谷が近づくにつれて、足が遅くなった。
三日目の昼、道が下りになった。
木立が切れた。
谷が見えた。
細い川の両側に段になった畑。その上に、石を積んだ家が、二十と少し。
畑は、耕されていなかった。去年の麦の刈り株が、雪の下から黒くのぞいていた。
煙が二本上がっていた。
二十と少しの家の二本だけ。
ハルトの後ろで誰かが息を呑んだ。
東の谷の男たちだった。焼け跡の戦いの後で、門をくぐった、十九人のうちの十四人。
一人が走り出した。
もう一人が。また、一人が。
段々の畑を、転がるように、下りていった。
帝国の靴の男は、走らなかった。
谷の入口で止まっていた。
「……行かないんですか」
ハルトは、聞いた。
男は、谷を見ていた。
「俺は、あいつらを置いて、逃げた」
男は、言った。
焼け跡の壁の上で、言ったのと、同じ言葉だった。
男の横に、もう一人、立った。
東の谷の男だった。焼け跡の戦いで、壁の上から、最初に名前を呼ばれた男。
「行くぞ」
その男は、言った。
それだけだった。
帝国の靴の男は、動かなかった。
煙の上がっていた家の一つから、人が出てきた。
背の曲がった、年寄りの女だった。その後ろに、子供が、三人。
谷へ走った男の一人が、年寄りの女の前で膝をついていた。
年寄りの女は、男の頭を撫でた。
それから、顔を上げた。
谷の入口のほうを見た。
長いこと、見ていた。
段々の畑をゆっくり上ってきた。杖も、つかずに。
帝国の靴の男の前で止まった。
「あんたかい」
年寄りの女は、言った。
「うちのが、帰ってきた時に言ってた。……弩の前で、壁の上から、名前を、呼んでくれた奴が、いたって。帝国の靴を履いてたって」
男は、何も言わなかった。
年寄りの女は、男の顔を見上げた。
皺の中の目が細くなった。
「……ラース」
女は、言った。
「ラースだね。粉屋のとこの」
男の肩が揺れた。
「……婆さん」
「徴発の時に連れていかれて。帝国の兵隊にされたって。……死んだって、聞いてたよ」
ラースは、うつむいた。
「死んでりゃ、よかった」
「ばかをお言い」
年寄りの女は、ラースの胸を叩いた。
軽い音がした。
「名前を呼んで、もらったって。うちのが、何べんも言うんだよ。……名前を呼んで、もらったって」
年寄りの女は、もう一度叩いた。
「おかえり、ラース」
ラースは、しばらく動かなかった。
それから、その場に膝をついた。
ハルトは、少し離れた。
名前は、冬のうちに、聞いていた。焼け跡の戦いの前の夜に。覚えていた。
でも、この谷でこの声で呼ばれる名前は。
それとは少し違う、重さがあった。
谷に残っていたのは、年寄りが六人と、子供が九人だった。
秋の徴発の時に、山の炭焼き小屋に隠れていた。冬は、そこで越した。雪が、解けはじめて、家に戻ってきたばかりだった。
それから、森から谷へ帰ってきた男たちが、八人。
焼け跡の戦いで、前の列から、森へ逃げた男たちだった。
ユノが、荷車から、ピムのパンを持ってきた。
子供たちが遠巻きに見ていた。
ユノは、一番小さな女の子の前に、しゃがんだ。
パンを二つに割った。
「半分こ、しよう」
女の子は、ユノの顔とパンを見比べた。
それから、半分を受け取った。
もう半分をユノが食べた。
女の子が、ユノの三つ編みの先を、そっとつかんだ。
ユノは、そのまましばらく、しゃがんでいた。
荷車の上で、マーサがそれを見ていた。
ゴードンも見ていた。
ゴードンの手が、外套の、内側の小さな毛布のあたりで止まっていた。
夕方、森から帰ってきた八人が、ハルトの前に並んだ。
「連れていって、くれ」
一番前の男が言った。
「春に、麦を、まいても。秋にまた持っていかれる。……男も」
男は、段々の畑を見た。
「だったら、持っていく奴らの、前に立つほうがいい」
ハルトは、八人を見た。
「みんなに、聞きます」
その夜、谷の一番大きな家の土間で、ハルトは、全員に聞いた。
谷の年寄りたちも、そこにいた。
決まったのは、こうだった。
八人は、東の砦へ一緒に行く。
焼け跡から来た、東の谷の十四人のうち、四人が谷に残る。畑を起こす。年寄りと、子供の横にいる。
「戻ったら、もう一度聞きます」
ハルトは、言った。
それから、八人に一人ずつ、名前を聞いた。
一人ずつ、顔を見て。
繰り返して。
覚えた。
ノエラが帳面に書いた。
「……百二十一から、四人が、残って。八人が、来て」
炭筆が止まった。
「百二十五」
土間の隅で、ラースが壁に背をつけて座っていた。
年寄りの女が、その横に座っていた。何も、言わずに。
夜更け、ヤンが戻ってきた。
谷の先を、一日、見てきたのだった。
片袖の外套が泥で重そうだった。
「盟主」
ヤンは、声を落とした。
「この先、二日で東の陣の横に出ます」
「……はい」
「陣の篝火が」
ヤンは、少し言葉を探した。
「冬に、焼け跡から、退いていった時より、ずっと多いです。……天幕が増えています」
ハルトは、谷の暗い先を見た。
土間の中から、子供の寝息が聞こえた。
ラースの名前を呼んだ年寄りの女の声が、まだ耳に残っていた。
おかえり、と。
ハルトは、右手首の白い組み紐を左手で押さえた。
(……誰も、置いていかない)
篝火は、ここからは、見えなかった。
でも、二日先に、それは、あった。




