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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第五章 空の館

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第78話 預ける

ほとんど、眠れなかった。

夜が白みはじめた頃、ハルトは天幕を出た。

軒の氷柱から、水が落ちていた。ゆうべより、落ちる間が短かった。

砦の裏の水場へ向かった。

焼けなかった、小さな流れ。秋に、ゴードンに、ミアのことを話した場所。

先に人がいた。

ゴードンが、流れの横の石に腰かけていた。顔を洗った後らしく、髭から水が垂れていた。

「早いな」

ゴードンが言った。

「……ゴードンさんも」

「年を取るとな。朝が勝手に来る」

ハルトは、流れの前に立った。

水が多かった。雪解けの水が、石の間で濁って速く流れていた。

「話があります」

ゴードンは、ハルトの顔を見た。

それから、黙って石の端に尻をずらした。

ハルトは、その横に座った。

「ゆうべ、カーラさんから、聞きました」

ハルトは、言った。

「東の砦に、帝都から、新しい主が来るそうです。……館の子供は、雪が、解けたら、帝都へ送られるって」

ゴードンは、何も言わなかった。

流れを見ていた。

長い間だった。

「……水が、多いな」

ゴードンは、言った。

それだけだった。

ハルトも流れを見た。

雪が、解けたら。

もう、解けはじめている。

「いつ、聞いた」

「夜更けです」

「で、最初に俺か」

「……はい」

ゴードンは、鼻から、息を吐いた。

笑ったのかも、しれなかった。

「寝てないな、おまえ」

ハルトは、答えなかった。

ゴードンは、膝に手をついた。

それから、立ち上がった。一度で。

少しだけ息が上がっていた。

「行く」

ゴードンは、言った。

「間に合わなくても、ですか」

「間に合わなかったら」

ゴードンは、流れのずっと先を見た。

「館が空なのを見に行く。……見なきゃ、待てん」

秋に、門の前で聞いた声と同じだった。

待てん。だが待つ。

今度は、その後ろがなかった。

「マーサには、俺が言う」

ゴードンは、言った。

「おまえは、みんなに、言え。……それが、おまえの決まりだろう」


朝の鍋の列で、ハルトは、全員に話した。

カーラから、聞いたこと。ゴードンに、最初に、話したこと。ゴードンが何と言ったか。

鍋の湯気が、ゆっくり上がっていた。

誰も椀に口をつけなかった。

「東の砦まで」

ハルトは、ノエラを見た。

ノエラは、もう帳面を開いていた。

「荷を引いて、十日。雪の残る道なら、もう少し」

平らな声だった。

「雪が、解けたら、という話が、本当なら。……間に合う、とは、言えません」

鍋の列が静かになった。

ハルトは、息を吸った。

「それでも、行きたいです」

ハルトは、言った。

「間に合わなかったら。……ミアが、どこへ、連れて行かれたかを、聞きに行きます。空なら、空なのを見に行きます」

ゴードンが腕を組んだ。

「みんなに、聞きます」

最初に口を開いたのは、ノエラだった。

「全員では、行けません」

ノエラは、帳面の頁をめくった。

「延べ棒が、二百三十四。炉。天幕で寝ている人。歩けない人。……それに、東の陣の副将は、生きています。焼け跡を、空にすれば、鉄は、今度こそ、持っていかれます」

ノエラは、少し黙った。

「戦える人の六割。百二十と少し。……それ以上は、焼け跡が守れません。それ以下は、帝国の中を歩けません」

担架の上で、ウルリクが鼻を鳴らした。

「なら、残る分は、俺が預かる」

全員がウルリクを見た。

「どうせ、この脚だ。歩いて、ついて行ったら、足手まといだ」

ウルリクは、担架の縁を叩いた。

「担架の上からでも、門は、見える。……トマもいる」

門柱の横でトマが小さく頷いた。

杖をついたベックが一歩前に出た。

「教わる側も置いていけ」

ベックは、言った。

「槍の持ち方も、まだの奴を、帝国の中に連れていくな。……俺がここで教える」

ハルトは、二人を見た。

(……預けて、いいのか)

レオニスさんが、いた頃から、ここにいる人。七年前のあの夜から。

その人に焼け跡を預けて、自分は、出ていく。

「ウルリクさん」

「なんだ」

「……お願いします」

「頭を下げるな」

ウルリクは、言った。

「預かるだけだ。……返すまでが、預かる、ってことだ」

それから、ゴードンのほうを見た。

「あんたは、どうする」

鍋の列がまた静かになった。

アガタが、何か、言いかけた。

ゴードンが先に言った。

「行く」

「二十歩で息が上がる男がか」

「二十歩ごとに休む」

ゴードンは、言った。

「一番前には、立たん。……後ろから、ついていく」

ハルトは、首を振った。

「後ろは、いやです」

ゴードンが眉を上げた。

「横にいてください。……休む時は、みんなで休みます」

ゴードンは、しばらくハルトを見ていた。

それから、横を向いた。

マーサが、その腕を軽く叩いた。

「私も行くわよ」

マーサは、杖を地面に突いた。

「あの子の髪を、結べるのは、私だけなんだから」

ピムが、鍋の横で手を上げた。

「荷車に、鍋とマーサさんは、乗るよ」

マーサがゴードンを見た。

「この人も乗るわ」

「……俺は、歩ける」

「二十歩ずつ、でしょう」

マーサは、言った。

「十日も、二十歩ずつ、休んでたら。着く頃には、あの子が、お嫁に行っちゃうわよ」

誰かが小さく吹き出した。

ゴードンは、何か言い返そうとして、やめた。

「……荷車の横を歩く。歩けなくなったら、乗る」

「歩けなくなる、前に乗るのよ」

ゴードンは、もう何も言わなかった。

ネリは、炉の前で槌を置かなかった。

「あたしは、残るよ。……縁を、巻かなきゃ、いけないから」

アガタも、天幕と残ると言った。オットは、戻らない脚を叩いて、「留守番は、得意だ」と笑った。

鍋の湯気の向こうで、リュネが長杖を抱え直した。

「魔導兵は、行くわよ。……糸の多いほうが軽いの。理論的には」

ハルトは、全員にもう一度聞いた。

手が上がった。

ノエラが、帳面に線を一本引いた。

人の名前にではなかった。頁の真ん中に。行く者と残る者の間に。


昼過ぎ、門柱の前に帝国の靴の四人が来た。

一番前に立っていたのは、焼け跡の戦いで、壁の上で名前を呼び続けた男だった。肩の傷は、もう、ふさがっていた。

トマが四人を見た。

何も言わなかった。

入ってくる者に言う言葉。出ていく者に言う言葉。どちらを言えばいいのか、まだわからないのだと、ハルトは思った。

「春に自分で言う。……そういう、約束だった」

男は、言った。

「残る。四人とも」

ハルトは、頷いた。

男は、少し黙った。

それから、続けた。

「東の砦へ行くなら。……道を知ってる」

ハルトは、顔を上げた。

「将軍の軍にいた頃。館まで荷を運んだことがある。二度」

男は、目を伏せなかった。

「それと、通り道に東の谷がある。……俺の谷だ」

男の後ろで、三人が黙って立っていた。

「布を、くれとは、言わない」

男は、言った。

「巻いていいかどうかは、そっちが決めることだ。……ただ、連れていけ」

その夜、鍋の列で、ハルトは、また全員に聞いた。

担架の上で、ウルリクが長いこと黙っていた。

「……鞴(ふいご)を引いた奴らだ」

ウルリクは、それだけ、言った。

四人のうち、名前を呼び続けた男ともう一人が、東の砦へ行くことになった。残る二人は、焼け跡でウルリクの横につく。

布は、まだ巻かなかった。

「戻ったら、もう一度聞きます」

ハルトは、言った。

男は、頷いた。


サビナは、焚き火の前で、斧槍の刃を研いでいた。

「春の分だ」

ハルトが来るのを、待っていたように言った。

「冬の分とは、違う。帝国の中に入る」

刃に指を当てた。

「一人三本。頭は、五本。……三十二本」

ノエラが帳面に書いた。

「二百三十四から、三十二。……二百、二」

サビナは、懐から、紙を出した。

冬の契約の紙だった。下のほうに、少し崩れた字で、一行書き足してあった。

逃げる時は、言ってから。

サビナは、新しい紙を出して、炭で契約を書いた。

人数。本数。日付。

それから、一番下に自分で書いた。

逃げる時は、言ってから。

ハルトは、それを見た。

「……今度は、まけないんですか」

「まけないよ」

サビナは、言った。

「書いたのは、こっちだ。……ただで書いた」

焚き火の向こうで、セラが、木の棒を膝に置いていた。

「律儀な傭兵だ」

セラが言った。

サビナは、鼻を鳴らした。

「あんたほどじゃ、ないよ。騎士様」


夜更けに、ハルトは、門柱の前に立った。

焚き火の横に、ウルリクの担架があった。トマが、その横に立っていた。

ノエラが、帳面の頁を一枚破って、ウルリクに渡した。

線のこちら側。残る者の名前だった。

「写しです」

「数えるまでもねえ、って、言ったがな」

ウルリクは、紙を火にかざした。

「俺は、数えるのが下手だ。……もらっとく」

ノエラは、何も言わなかった。

ただ、帳面を、閉じるのが少しだけ遅かった。

ハルトは、二人から、少し離れた。

門の外は、暗かった。雪の残る、街道の先。東。

足音がした。

帝国の靴の男だった。

「盟主」

男は、低い声で言った。

「さっき、言わなかったことが、ある」

ハルトは、男を見た。

「館へ、行く道は、二つある。遠い道と近い道」

男は、東の暗がりを見た。

「十日で、着きたいなら、近い道だ。……近い道は、東の陣のすぐ横を通る」

東の陣。

銀の鎖の副将の陣。

焼け跡の門の前から、弩の列をまとめて、退いていった男の。

ハルトの右手首で、白い組み紐が、夜風に少しだけ揺れた。

握れない右手の代わりに、左手でそれを押さえた。

(……みんなに、聞く)

明日の朝に。

軒の氷柱から、また一滴、水が落ちた。

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