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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第四章 冬の門

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第77話 雪解け

軒の氷柱から、水が落ちていた。

一滴。また、一滴。

焼け跡の雪が、黒い土の色に、まだらに変わりはじめていた。

門の前の広場で、木の棒が打ち合う音がした。

「足が止まっている。止まったところを突かれる」

セラの声だった。

川下の村の若い男が、東の谷の男と、棒を構え直した。二人とも息が白かった。

セラは、その間に立って、自分の棒を一度だけ振って見せた。

速くは、なかった。でも、棒の先が、少しも、ぶれなかった。

棒を持つ左手は、まだ少し震えていた。

誰もそれを言わなかった。

セラももう隠さなかった。


「盾が近い」

セラがハルトの前に来た。

「腕に、くっつけすぎだ。受けた時に逃げ場がない。……拳一つ、離しなさい」

ハルトは、借り物の盾の革帯を少し緩めた。

セラの棒が盾を叩いた。

さっきより、痺れなかった。衝撃が、盾と腕の間で、一度、ほどけた。

「……ゴードンさんにも、同じことを言われました」

「そうか」

セラは、少しだけ広場の端を見た。

ゴードンが樽に腰かけていた。腕を組んで、黙って稽古を見ていた。

立ってはいなかった。

立って見るには、冬が長すぎた。

「なら、思い出したんだ」

セラは、言った。

「思い出すのも、稽古のうちだ」


炉のほうから、槌の音がしていた。

継ぎはぎの鞴(ふいご)が、ゆっくり息をしていた。取っ手を引いているのは、帝国の靴の男の一人だった。

鉄床の上に盾があった。

赤黒かった鉄の板は、冬のあいだに、丸く、反りを持っていた。表に、古い盾の破片が打ち込まれていた。木と、鉄の帯の黒い名残り。

「縁を、巻いたら、終わり」

ネリが言った。槌を置かずに。

「春には、間に合う」

ゴードンが、樽から、立ち上がって、炉の前まで来た。

何歩かで止まって、息を整えて、また歩いた。

盾の表に手を当てた。

古い破片の上に。

「……重いな」

「古い盾の分だよ」

ネリが言った。

ゴードンは、何も言わなかった。

ただ、もう一度盾の表を撫でた。

裏は、まだ何も張られていなかった。


昼過ぎ、川下の村から、人が来た。

村長の孫だという、若い女が一人。その後ろに、男が、四人。

「雪が、解けたら、行くって、決めてたんだ」

若い女が言った。

「秋に倉を守ってもらった。冬に麦を返してもらった。……それで、春にまだ家で寝てたら。じいちゃんに怒られる」

門柱の横でトマが言った。

「どこから来た」

「川下の村から」

「なら、入れ」

五人が、門柱の間をくぐった。

ノエラが帳面を開いた。

炭筆が少し止まった。

それから、動いた。

「……二百、一」

ノエラは、言った。

平らな声だった。

でも、帳面を閉じるのが、いつもより少しだけ遅かった。


その日の夕方、ハルトは、門柱の前に立った。

鍋の列が、門の前まで伸びていた。

「名前を言います」

ハルトは、言った。

「全員の」

ざわめきが止まった。

ハルトは、言いはじめた。

ゴードン。ウルリク。ベック。リュネ。ユノ。ヤン。ロブ。オット。ピム。

炭焼き小屋から戻った、四人。

川下の村の、六人と、今日の五人。

東の谷の十九人。

一人ずつ。顔を見て。

途中で、一度、詰まった。

東の谷の年寄りの隣にいた男。背中を撃たれて、アガタの天幕で眠っていた男。まだ、鍋の列で、ちゃんと、顔を見ていなかった。

男が、自分から、一歩前に出た。

名前を言った。

ハルトは、それを繰り返した。

覚えた。

続けた。

二百一。

それから、契約の頁を。

サビナ。九人。

それから、日付の書かれた、一つの名前。

サビナが、腕を組んだまま、横を向いた。

それから、どの頁の数にも、入っていない名前を。

アガタさん。マーサさん。ネリ。冬のあいだ、布を巻かずに薪を割り続けた、帝国の靴の四人。

「カーラさん」

竈の陰で、カーラが、指輪の手をひらひらと振った。

最後に、帳面のどこにも、まだ書かれていない名前を。

「セラさん」

セラは、黙って頷いた。

ハルトは、息を吐いた。

最後の名前を、言い終わった時、門柱の上で、ヤンが小さく手を叩いた。

誰も続かなかった。

でも、誰も笑わなかった。

ノエラが、帳面を胸に抱えていた。


鍋が、配られた後で、ハルトは、もう一度門柱の前に立った。

「秋に言いました」

ハルトは、言った。

「春に、ミアを迎えに行きたいって。……その時に、みんなに、聞くって」

ゴードンが、樽から、立ち上がった。

ゆっくりと。

マーサがその横に立った。

「今、聞きます」

ハルトは、言った。

「東の砦まで行きます。帝国の真ん中じゃないけど、帝国の中です。戦うかもしれない。……行っても、取り戻せないかも、しれない」

ハルトは、全員を見た。

「それでも、一緒に来てくれますか」

しばらく、誰も何も言わなかった。

最初に、手を、上げたのは、ピムだった。

鍋の柄杓を持ったまま。

「鍋は、持っていけるよ」

ピムは、言った。

それから、ロブが。オットが。杖をついたベックが、杖ごと。

担架の上で、ウルリクが鼻を鳴らした。

「数えるまでもねえ。……軍師、数えとけ」

ノエラは、もう数えていた。

リュネが、長杖ごと、手を上げた。

「行くわよ。……盟主の、右手の研究も途中だし」

ユノは、黙って上げた。ハルトのすぐ横で。

川下の村の若い女が上げた。東の谷の年寄りが上げた。帝国の靴の男たちが、顔を見合わせて、上げた。

サビナが、斧槍の石突きで地面を叩いた。

「契約は、冬の分だ」

サビナは、言った。

「春の分は、別料金だよ。雇い主」

「払います」

「……知ってる」

セラは、手を上げなかった。

ただ、ハルトを、見て、言った。

「稽古の、続きは、歩きながらでも、できる」

ゴードンが、何かを言おうとした。

言えなかった。

マーサがその手を握った。

ゴードンは、ハルトのほうへ、一度だけ頭を下げた。

深く。

ハルトは、どうしていいか、わからなかった。

ユノが、ハルトの灰色の右手にそっと触れた。

境目が少し温かかった。


夜更けに門柱の陰で声がした。

「盟主」

カーラだった。

外套の襟を立てていた。指輪が、焚き火の名残の光を拾っていた。

いつもの、笑い方では、なかった。

「ミアの続きよ」

ハルトは、立ち上がった。

「……値段は」

カーラは、少し黙った。

それから、首を振った。

「これは、売らない」

カーラは、言った。

「あの帳面に、名前を書かれちゃったからね。……私の分まで、背負わせてるんだから。これくらいは、ただであげるわ」

カーラは、焼け跡の東のほうを見た。

まだ、雪の残る、街道の先。

「東の砦に、帝都から、新しい主が来るそうよ。将軍が、戦死ってことに、なったから」

ハルトの胸の奥が冷えた。

「館の子供はね」

カーラは、続けた。

「雪が、解けたら。……帝都へ送られるって」

「帝都」

ハルトは、繰り返した。

工房のある街。

九本の煙突のある街。

カインのいる街。

「いつ」

「雪が、解けたら、よ」

カーラは、軒の氷柱を見上げた。

一滴、また、一滴、水が落ちていた。

「……もう、解けはじめてるわね」

ハルトは、何も言えなかった。

右手首の白い組み紐を左手で握った。

握れない右手の代わりに。

門の内側で誰かが寝返りを打った。二百一人と、九人と、帳面に書かれていない人たちの寝息が、焼け跡の冷たい夜の中に重なっていた。

春が来ようとしていた。

迎えに行く場所が、遠くなる、春が。

(第四章 冬の門 了)

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