第75話 尾根
--- セラ視点 ---
声が聞こえた。
「行っていい!」
雪の斜面に跳ね返って、尾根の上まで届いた。
セラは、木立の切れ目で足を止めた。
谷底に焼けた砦があった。崩れた石の壁。焦げた門柱が二本。その間に炭俵と雪を積んだ低い壁。
壁の上に、小さな影が二つ立っていた。
一つは、片腕に盾を構えていた。
その背中から、細い光が、何本も後ろへ伸びていた。
糸のようだった。壁の内側の一人一人へ。門の脇の背の高い影へ。数えきれないほどの、細い光。
瞬きをする間に、それは見えなくなった。
遠すぎて、顔は見えなかった。
それでも、セラには、わかった。
盾の少年だった。
ベルナの避難所で、三日眠り続けて、目を覚ました少年。何か言いたそうな顔をして、何も言わずに立ち去った少年。
西門で、最後に、セラさんがいたから、と言った少年。
ベルナを出て、二十日になる。
穀物蔵の地下の古い水路の先。運河。川。泥の上の小さな手の跡は、運河に出たところで消えていた。それでも、川を下った。三十八人が、もし生きて、どこかへ行ったのなら、水の流れる方へ行く気がした。
渡し場で渡し守に聞いた。子供を連れた一団を見なかったか。
老人は、首を振った。
それから、言った。
――川を半日遡ると、焼けた砦がある。舟小屋にいた南の傭兵どもも、二、三日前にそっちへ行った。秋から、変な連中が住みついとる。橙と藍の布を巻いた連中だ。子供みたいな盟主が、来る者の名前を、一人ずつ、覚えとるそうだ。
その盟主の名前を聞いて、セラは、渡し場を発った。
三十八人の跡とは、別の方角だった。
谷底で前の列がほどけていった。
槍を捨てた者たちが、森へ走っていく。百と少し。戦わずに。
その背中に弩の矢が飛んだ。
何人かが雪の上に倒れた。
セラの左手が、外套の下で柄を探した。
柄はなかった。
剣は、ベルナの西門の詰所に置いてきた。
左手は、空のまま、震えていた。
あの子は、数えたのか。
逃がせば、撃たれる者が出る。それでも、逃がした。逃がさなければ、門の前でもっと死んだ。
セラには、その計算がわかった。
わかって、それでも、三百人を一つの蔵に入れた自分が、ここに立っていた。
弩の列が、むき出しになっていた。
六十か、七十。その後ろに馬が三騎。真ん中の馬の上で銀の鎖が光った。
角笛が鳴った。
弦が一斉に鳴った。
矢の雨が、門の低い壁に降った。
壁の後ろで、誰かが、頭を下げさせている。杖をついた男だった。声だけが、時々、谷を渡ってきた。
一、二、三。
その数に合わせて、壁の後ろから、石が飛んだ。届かない。弩の列は、石の届かない距離を知っていた。
二度目の矢の雨。
三度目。
弩の列は、急いでいなかった。壁の上に頭が出るのを待っている。出たところを撃つ。
いい兵だ、とセラは思った。
いい兵は、時間を味方にする。
時間は、壁の内側の味方ではなかった。
壁の真ん中で、長い杖が、一本、上がった。
小柄な影だった。ローブの袖が、風にあおられていた。
盾の少年の背中から、またあの光が伸びた。さっきより、細く多く。壁の内側の一人一人へ。それから、杖の影へ。
杖の先が雪を突いた。
壁と弩の列のあいだの雪が、白く煙った。
霧だった。
溶けた雪が、そのまま湯気になって立ち上がり、谷底の低いところを這って、弩の列のほうへ流れていった。
四度目の矢の雨は、壁に届かなかった。霧の中のどこかの雪に落ちた。
弩の列が止まった。
霧が薄れると、杖の先がまた雪を突いた。
霧がまた立った。
セラは、数えた。三度。四度。五度。
ベルナにも魔導兵はいた。あの広さを一人で煙らせれば、二度目で膝をつく。三度目には、担がれていく。
杖の影は、立っていた。
光の糸は、もう見えなかった。それでも、セラには、わかった。
あの冷えを、一人で払っているのではない。
その時、セラの足元で何かが動いた。
尾根の下。北の斜面の木立の中。
人だった。
十人と少し。雪の中を、腰をかがめて、斜面を横に進んでいる。炭焼きの道だろう。木を切り出した跡が、細く斜面を縫っていた。
先頭に背の高い女がいた。長い柄の斧槍。腰に派手な色の布。
その後ろに片袖のない外套の男。帝国の靴を履いた男が、二人。
弩の列の横へ回り込もうとしていた。
セラは、息を詰めた。
悪くない。弩は、前に構えている。横から、近い間合いで入られたら、弦を引き直す暇がない。
ただ。
弩の列の端。
三人ほどが、構えを解いて、北の斜面を見ていた。
気づいている。
斜面の一団は、まだ気づいていない。木立の切れ目まであと二十歩。そこを抜けたら、弩の正面に体が出る。
セラは、口を開いた。
声が出るか、わからなかった。
ベルナの城壁の上で、最後に号令を出してから、一度も、大きな声を出していなかった。
「右だ!」
声は、出た。
出てしまえば、昔の声だった。
城壁の上で、門の前で何百回と出した声。休めと言われても、出し続けた声。
「右の端! 三人、構えている! 木立の切れ目で止まれ!」
斜面の一団が止まった。
背の高い女が尾根を見上げた。
一瞬だけ。
それから、女は、手で何か合図をした。一団が二つに分かれた。
セラの左手が震えていた。さっきより、ひどく。
声を出したのは、セラだった。止まれと言ったのも。分かれたのは、あの女の判断だ。それでも、止まった一団の中で誰かが撃たれたら、それは、セラの声のせいだった。
号令とは、そういうものだった。
それを、知っていて、セラは、叫んだ。
弩が、斜面に向かって、鳴った。
木の幹に矢が突き立った。
分かれた一団の片方が、木立の切れ目を迂回した。もう片方が、背の高い女と一緒に、まっすぐ切れ目を抜けた。
三人の弩は、もう引き直す暇がなかった。
女の斧槍が横に払われた。
弩の列の端が崩れた。
その時、門の壁の上に盾が上がった。
盾の少年だった。
壁の上に、体を全部出して、盾を構えていた。弩の列の正面が、一瞬そちらに向いた。
横で崩れ、正面に盾。弩の列は、どちらを撃つか、迷った。
弩の列の足元が白く光った。
雪が、一面、凍っていた。弦を引き直そうと踏ん張った足が、滑った。
壁の上で杖の影がまだ立っていた。
迷った間に門が開いた。
壁の後ろから、人が出てきた。
槍を持った者。鍬を持った者。帝国の靴を履いた者。杖をついた男が、門柱の横で何かを叫んでいた。
大柄な男がいた。盾は持っていなかった。それでも、一番前を歩いていた。
どこかで見た背中だった。ベルナの避難所で、驢馬の荷車を引いてきた男に、似ていた。
足が遅かった。二十歩も行かないうちに、肩で息をしていた。
すぐに、若い者たちが、髭の男を追い越していった。
弩の列は、崩れた。
崩れ方は、整っていた。いい兵は、崩れる時もまとまって退く。
角笛が長く二度鳴った。
真ん中の馬が向きを変えた。銀の鎖が、街道の向こうへ遠ざかっていった。
弩の列は、倒れた者を何人か残して、東へ退いた。
門から出た者たちは、追わなかった。
追うな、と誰かが言ったのだろう。盾の少年が、両手を広げて、前に立っていた。
セラは、尾根の上に立っていた。
谷底で、人が、一か所に集まっていった。
北の斜面の木立の切れ目だった。
背の高い女が、雪の上に膝をついていた。
その前に誰かが倒れていた。
迂回した側か。まっすぐ抜けた側か。セラの声が、間に合わなかった誰か。
盾の少年が、斜面を駆け上がっていった。
倒れた者の横にしゃがんだ。
何かを言った。
遠すぎて、聞こえなかった。
でも、口の形が短かった。
名前だ、とセラは思った。
名前を呼んでいる。
背の高い女が立ち上がった。少年の肩に手を置いた。少年は、動かなかった。
その周りに人が増えていった。
杖の男。片袖の外套の男。大柄な男が、遅れて、斜面を登ってきた。何度も立ち止まりながら。小さな影が二つ、少年の両側にしゃがんだ。
誰も少年を一人にしなかった。
セラは、自分の左手を見た。
まだ震えていた。
剣のない手だった。
ベルナの城壁の上で、セラは、一人で立っていた。私が休めば、この門は誰が見る。そう言って、誰にも門を渡さなかった。
渡さなかった門は、破られた。
谷底の門は、焦げていた。壁は、炭俵と雪でできていた。守っていたのは、農夫と、子供と、帝国の靴を履いた者と、金で雇われた者だった。
それでも、門は、破られなかった。
一人で、見ていなかったからだ。
谷底で盾の少年が立ち上がった。
尾根を見上げた。
遠すぎて、顔は見えなかった。
でも、こちらを見ていた。
さっきの声の主を探していた。
セラは、外套の前を合わせた。
震える左手を、外套の下にしまわずに、外に出したまま。
尾根を下りはじめた。




