第74話 呼ぶ声
三日目の朝は、雪がやんでいた。
空が低かった。灰色の雲が、尾根の上に、蓋のように、乗っていた。
門柱の前で、ハルトは、名前を言った。
ノエラの帳面の戦える人の頁を上から。
ゴードン。ウルリク。ベック。リュネ。ユノ。ヤン。ロブ。オット。ピム。
炭焼き小屋から戻った、四人。
川下の村の六人。
百七十七。
それから、契約の頁を。
サビナ。それから、十人。
ゆうべ、舟小屋から来た男たちの名前を一人ずつ聞いて、鍋の列で顔と繋いだ。
それから、どの頁の数にも、入っていない名前を。ネリ。帝国の靴の四人。
最後の一人の名前を言うと、サビナが鼻を鳴らした。
「……本当に覚えたのか」
「はい」
「雇い主に、名前を、覚えられたのは、初めてだ」
サビナは、斧槍を担ぎ直した。
「覚えられても、値段は、変わらないよ」
門の内側に、炭俵と焼けた梁と雪を固めた壁が、胸の高さまで積んであった。
壁の後ろで、ノエラが帳面を広げていた。
「前の列は、徴発された人たちです」
ノエラは、言った。
「弩は、後ろ。士官の子飼い。……前の列が門に取りつく。その間に、後ろから、弩でこちらの頭を押さえる。たぶん、そういう、形です」
ゆうべ雪の上で陣の内側を話した帝国の靴の男が、壁の端に立っていた。
「前の列に顔を知ってる奴がいる」
男は、言った。
「同じ、谷から、連れてこられた。……俺は、あいつらを、置いて、逃げた」
男の声は、平らだった。
「名前もわかる」
ハルトは、男を見た。
「呼べますか」
「……呼んで、どうする」
「行っていい、って」
ハルトは、言った。
「ここに来なくていい。戻らなくていい。……どこへでも、行っていいって」
男は、しばらく黙っていた。
「後ろから、撃たれる」
「はい」
「呼んだ俺も撃たれる」
「……はい」
ハルトは、灰色の右手を、借り物の盾の裏で、握れないまま当てていた。
「だから、俺も一緒に立ちます」
昼前に来た。
街道の雪の上を、黒い列が、ゆっくり上ってきた。
ヤンが門柱の上で数えた。
「前が、百と、少し。槍。……後ろに、弩が、六十か、七十。その後ろに、馬が、三騎」
一番後ろの馬の上に、銀の鎖が光っていた。
副将だった。
前の列が止まった。
槍の穂先が揃っていなかった。右へ左へばらばらに傾いていた。
後ろで角笛が鳴った。
前の列がまた動き出した。
足が重そうだった。
最初の弩は、門に届かなかった。
雪の上に、黒い矢が何本も突き立った。
二度目は、届いた。
壁の炭俵に、鈍い音を立てて、矢が刺さった。
川下の村の若い男が、一人、頭を上げかけて、ベックに襟首を引き戻された。
「上げるな。……数えてから、上げろ」
ベックは、杖で体を支えていた。槍は、振れない。でも、声は、出た。
「一、二、三。……今だ、投げろ」
壁の後ろから、石が飛んだ。
前の列の何人かが足を止めた。
止めた足の後ろで、また角笛が鳴った。
前の列が、門まで三十歩になった。
顔が見えた。
ハルトと同じくらいの子供がいた。髭の白い、年寄りがいた。槍を、鍬のように、持っている男がいた。
誰もハルトの知らない顔だった。
糸は、届かない。
名前を知らない。
ハルトは、壁の端の帝国の靴の男を見た。
男は、もう壁の上に立っていた。
雪の壁の上に、体を、全部、出して。
男は、名前を叫んだ。
ハルトの知らない名前だった。
前の列の一人が顔を上げた。
「俺だ! 谷の水車小屋の上の!」
前の列が揺れた。
男は、また別の名前を叫んだ。もう一つ。もう一つ。
「お前ら、いるんだろ!」
後ろで弩の弦が鳴った。
ハルトは、壁の上に上がった。
男の横に。
借り物の盾を男の側へ傾けた。
矢が盾を叩いた。腕が肩まで痺れた。
ハルトの背中で何かがほどけた。
光の糸だった。
糸は、まず、横の男へ届いた。
鍋の列で名前を聞いた。鞴を一緒に引いた。顔と、名前が繋がっていた。
それから、壁の後ろへ。
ベックへ。ネリへ。ヤンへ。ロブへ。川下の村の六人へ。帝国の靴の残りの三人へ。
それから、門の脇のサビナへ。
サビナの体が一瞬止まった。
「……何だ、これ」
サビナの斧槍の重さが、ハルトの左腕に流れ込んできた。
ゆうべ、名前を覚えた。十人の男たちへも。
糸は、震えなかった。
まっすぐ届いた。
ハルトは、叫んだ。
「行っていい!」
声が、雪の斜面に跳ね返った。
「ここに、来なくていい! どこへでも、行っていい!」
前の列の子供がハルトを見た。
槍の穂先が下がった。
横の男がまた叫んだ。
「行け! 森へ! 谷へ帰れ!」
最初に、名前を、呼ばれた男が、槍を雪の上に落とした。
一歩横へ出た。
もう一歩。
それから、走った。
街道の脇の森のほうへ。
誰かが後に続いた。
二人。五人。十人。
前の列が、ほどけていった。
後ろで角笛が長く鳴った。
弩の矢が、ほどけていく前の列の背中に飛んだ。
逃げる男が、一人、雪の上に倒れた。
もう一人。
ハルトは、声を出せなかった。
糸の向こうでベックの声がした。
「……止まるな。止まったら、全部、撃たれる」
ハルトは、叫んだ。
「行って! 振り返らないで!」
横の男が名前を叫び続けた。
叫びながら、肩に矢を受けた。
男の体が壁の上で傾いた。
ハルトは、盾ごと、男に体を寄せた。糸の向こうから、ロブの足の強さが来た。踏みとどまった。
男は、まだ名前を呼んでいた。
声がかすれていた。
「……行け」
門の前に、残ったのは、二十人もいなかった。
逃げ遅れた者。どちらにも、行けずに、立ちすくんでいる者。
その中から、七人が、槍を捨てて、門のほうへ歩いてきた。
両手を上げて。
「撃つな!」
ハルトは、壁の後ろへ叫んだ。
門柱の横にトマが立っていた。
矢が、飛んでいるのに、そこに立っていた。
七人の先頭の年寄りに、トマは、言った。
「どこから来た」
年寄りは、震える声で言った。
「……東の谷から」
「なら、入れ」
トマは、半歩どいた。
七人が、門柱の間をくぐった。
最後の一人が、くぐる時、背中に矢が立った。
年寄りの隣にいた、若い男だった。
門の内側で膝をついた。
リュネが走った。
前の列は、もうなかった。
街道の上に、弩の列が、むき出しになっていた。
六十か、七十。
その後ろに三騎の馬。
弩の列が、ゆっくりと弦を引き直していた。
慌ててはいなかった。
最初から、前の列を、当てにしていなかったように。
ハルトは、壁の上で息を吐いた。
息が白かった。さっきより、少しだけ。
体の内側から、熱が、抜けていく感じがあった。
でも、炭焼き小屋の時とは、違った。
糸の数が多かった。百七十七と、十一。そのぶん、一人から抜けていく熱は、細かった。
指先が、かじかむくらい。肩が少しすくむくらい。
糸の向こうで、川下の村の若い男たちが、手に息を吹きかけていた。それだけだった。
ユノが、壁をよじ登ってきた。
ハルトの灰色の右手を両手で包んだ。
境目が、少しだけ温かかった。
「ハルト。もう、いいよ。前の人たち、行ったよ」
ユノが言った。
「……うん」
ハルトは、糸をほどいた。
ほどいた瞬間、横の男の体が重くなった。
ロブが、下から、男の体を抱き取った。
サビナが、壁の後ろから、顔を出した。
街道の弩の列を見ていた。
それから、ハルトを見た。
「前の百を、戦わずに、どかした」
サビナは、言った。
「……あれは、払われた分より、多く、働いたね。雇い主」
「サビナさんの分も使いました」
「知ってる」
サビナは、自分の腕をさすった。
「ちょっと、冷えるね、あれ。……悪くない」
それから、斧槍を担ぎ直した。
「ここからが本番だよ。あれは、逃げない。……逃げられない連中じゃない。逃げないで、撃つのが仕事の連中だ」
街道の上で銀の鎖が光った。
副将の馬が一歩前に出た。
その時、ヤンが、門柱の上で身じろぎした。
「盟主」
ヤンは、北の尾根を見ていた。
「尾根の上に、誰か、います」
ハルトは、顔を上げた。
低い雲の下。雪の尾根の木立の切れ目。
人影が、一つ、立っていた。
遠すぎて、顔は、見えなかった。
弩の列からも、旗団からも、同じくらい、離れたところに。
ただ、立って、こちらを見ていた。
街道の上で角笛が鳴った。
弩の弦が一斉に鳴った。




