第73話 契約
ヤンが、二日ぶりに戻ってきた。
片方しかない外套の袖が、凍って、板のように、固くなっていた。
鍋の前で、ピムが、黙って椀を差し出した。ヤンは、立ったまま、それを飲み干した。
それから、言った。
「副将の陣が動きました」
竈の前に人が集まった。
ノエラ。ウルリク。杖をついたベック。ゴードン。ネリ。リュネと、ユノ。
竈の陰にカーラ。
それから、少し離れた雪の上に、帝国の靴の男が、一人。ベックの組の兵が、その横に立っていた。
「荷車が、二十台。空の荷車です」
ヤンは、言った。
「兵は、二百五十前後。弩が多い。……東の陣から、雪の街道を、こっちへ向かってます」
「空の荷車」
ノエラが繰り返した。
「鉄を積んで帰るための荷車です」
誰も何も言わなかった。
炉の横に延べ棒の山があった。
煤けた、黒い山。秋に、帝国の荷車から、奪った鉄。
ネリがその山を見ていた。
その手前に、まだ形にならない赤黒い鉄の板が、一枚置いてあった。
ゴードンの盾になるはずの鉄だった。
「いつ、着きますか」
ハルトは、聞いた。
ノエラは、炭筆を回した。
「荷車を引いて、雪の街道なら。……七日」
「七日」
「二百五十に弩。こちらは、百七十七」
ノエラは、平らな声で続けた。
「そのうち、戦い慣れているのは、百と少しです。村の若い人たちは、まだ、槍の持ち方を、ベックに教わっている途中です」
ベックが鼻を鳴らした。
「教わる側が多すぎる」
雪の上の帝国の靴の男が口を開いた。
「……副将の兵は、半分が徴発された農夫だ」
全員が男を見た。
男は、目を伏せなかった。
「銀の鎖の士官が、後ろから、見張ってる。前の連中は、逃げたくて、逃げられねえだけだ。……弩を持ってるのは、士官の子飼いだ」
ウルリクが、担架の上から、男を見た。
「なんで、それを言う」
男は、少し黙った。
それから、言った。
「鞴を引いたからだ」
その夜、鍋の列で、ハルトは、全員に聞いた。
鉄を渡すか。
守るか。
渡せば、戦わずに、済むかもしれない。
でも、渡せば、ネリの炉は、また冷える。春の鍬も鎌も打てない。ゴードンの盾も。
そして、帝国の工房の、九本の煙突にその鉄がくべられる。
話し合いは、長くかかった。
最後に、手を、上げたのは、川下の村から来た若い男だった。
「秋に、俺たちの倉を守ってくれた。……今度は、こっちが、守る番だって、言った」
それで、決まった。
守る。
決まった後で、ノエラが、帳面を閉じずに言った。
「守るなら、数が足りません」
「足りないなら、買えばいいじゃない」
竈の陰でカーラが言った。
指輪の手で頬杖をついていた。
「渡し場の舟小屋に、南から来た傭兵の一団が、冬を越してるわ。十一人。……雇い主が、秋の戦の後に逃げちゃったのよ」
「傭兵」
ハルトは、言った。
「腕は、確かよ。私の古い、知り合い」
カーラは、少しだけ笑った。
「値段は、もちろん、鉄」
ハルトは、炉の横の延べ棒の山を見た。
守ろうとしている鉄で。
守ってくれる人を雇う。
「……みんなに、聞きます」
カーラは、もう何も言わなかった。
ただ、肩をすくめた。
二日後、渡し場の舟小屋の前に、女が一人立っていた。
背が高かった。ハルトより、頭一つ、高かった。
灰色がかった金の髪を、短く刈っていた。左の頬から、首にかけて、古い火傷の跡があった。
袖を落とした、革の鎧。むき出しの腕に、寒さを気にするふうもなかった。腰に、橙と青の派手な布を巻いていた。
肩に長い柄の斧槍を担いでいた。
後ろの舟小屋の戸口から、男たちが何人も、こちらをのぞいていた。
「あんたが、雇い主?」
女は、言った。
ハルトを上から下まで見た。
右腕の借り物の盾。灰色の指。
「……子供じゃないか」
「十五です」
「子供だね」
カーラが、ハルトの後ろから、顔を出した。
「久しぶりね、サビナ」
女の目が、少しだけ細くなった。
「カーラ。……あんたが、噛んでるなら、高くつきそうだ」
「今回は、私は、ただの紹介役よ」
「それが、一番、高くつくんだよ」
サビナは、斧槍の石突きを雪に突き立てた。
「条件を聞こうか。雇い主」
ハルトは、話した。
焼け跡のこと。延べ棒のこと。副将の荷車が二十台と、兵が二百五十。七日。
サビナは、黙って聞いていた。
聞き終わってから、言った。
「延べ棒で払うんだね」
「はい」
「その延べ棒を守るために」
「……はい」
サビナは、短く笑った。
「面白い。……守る鉄で守り手を雇う。一冬で、守る鉄が少しずつ減っていく」
サビナは、指を折った。
「団の者は、一人、一冬、二本。私は、四本。十一人で二十四本」
後ろでヤンが息を呑んだ。
二百五十七本から、二十四本。
ハルトは、ノエラの顔を思い出した。出がけに、ノエラは、言った。
二十五本までなら、数えて、出せます。
「払います」
ハルトは、言った。
「でも、もう一つ、聞かせてください」
「何」
「サビナさんたちは、払った分、働く人たちですか」
サビナの眉が上がった。
「払われた分は、働く。払われてない分は、働かない。……それが傭兵だ」
「じゃあ」
ハルトは、言った。
「うちの決まりも、一つ、払ってもらえますか」
「決まり?」
「出ていく時は、言ってから、行ってください」
サビナは、ハルトを見下ろした。
「傭兵は、負ける戦からは、黙って逃げるもんだよ」
「逃げてもいいです」
ハルトは、言った。
「でも、言ってから、逃げてください。……そうしたら、誰が、どこにいないのか、わかるので。わかれば、その穴を誰かが埋められます」
サビナは、しばらく黙っていた。
舟小屋の戸口の男たちも黙っていた。
カーラが、横を向いて、笑いを、こらえていた。
「……変な、雇い主だ」
サビナは、言った。
どこかで聞いた言葉だった。
それから、サビナは、腰の布の間から、小さな紙を出した。
炭の欠片で何かを書きつけた。
「契約に書いとく」
サビナは、紙をハルトに見せた。
読みにくい、字だった。
でも、読めた。
逃げる時は、言ってから。
「これで二十四本」
サビナは、言った。
「一本、まけてやる。……その決まりの分」
焼け跡の門の前で、トマが、門柱の横に立っていた。
十一人の傭兵の一団。
その先頭の背の高い女。
「どこから来た」
トマは、言った。
サビナは、斧槍を、肩から、下ろした。
「南から。……雇われて、来た」
「雇われて、来たのか」
トマは、少し考えた。
それから、半歩どいた。
「なら、入れ」
サビナは、門柱の間を抜けた。
通り過ぎる時、焦げた門柱を、ちらりと、見た。
それから、焼け跡の中を見回した。
鍋の湯気。炉の火。継ぎはぎの鞴。担架の上の髭の男。杖をついた片目の男。雪の上で、薪を割っている、帝国の靴の男たち。
「……思ってたより、ぐちゃぐちゃだね」
サビナは、言った。
ハルトは、少し考えた。
それから、言った。
「全員の、名前は、知ってます」
サビナは、振り返った。
ハルトを見た。
「私の団のも?」
「今から、覚えます」
夜、ノエラが帳面を開いた。
延べ棒の数を書き直した。
二百五十七から、二十三を引いて。
二百三十四。
「戦える人の頁に入れますか」
ノエラは、サビナに聞いた。
サビナは、首を振った。
「入れなくていい。契約の頁にしな」
ノエラは、少し考えた。
それから、また新しい頁を開いた。
「百七十七と、十一」
ノエラは、言った。
「……数えて、守ります」
その時、門のほうで足音がした。
ヤンだった。
さっき、また斥候に出たばかりのはずだった。
息が切れていた。
「荷車が」
ヤンは、言った。
「荷車を置いてきています。……副将の兵、荷車を途中の村に置いて。兵だけで、速く、こっちへ」
ノエラの炭筆が止まった。
「何日」
「……三日です」




