第72話 十七
--- カイン視点 ---
その部屋には、窓が、一つだけ、あった。
高いところに。手の届かない、細い、窓だった。
冬の朝の光が、石の床に白い線を一本引いていた。
部屋の真ん中に石の台があった。台の上に、黒い鉄の板が、二枚、並んでいた。板の表には、細い溝が、何本も刻まれていた。
溝は、片方の板から、もう片方の板へ続いていた。
台の向こう側に男が座っていた。
痩せた、年寄りの男だった。頬骨が高かった。手首に、鉄の輪の跡が、赤く、残っていた。
扉に刻まれた数字の十七。
カインは、その名前を知っていた。
ゆうべ、回廊でゼノビアが読み上げた。
「右手をそちらの板に」
工房の技師が言った。
カインは、灰色の右手を鉄の板に置いた。
冷たいかどうかは、わからなかった。肘から先は、もう何も感じない。
台の向こうで、男も左手をもう一枚の板に置いた。
男の手は、ひび割れていた。土の色が、爪の間に残っていた。
畑の手だった。
「少しでいい」
技師が言った。
「何でもいい。……力を使ってみろ」
カインは、床の白い線を見た。
石の床だった。
ベルナの石橋を思い出した。
石の槍。石の棺。あの夜、自分の中から、溢れ出したもの。ユノの肩の傷を塞いだもの。
その全部の代わりに、灰色が来た。
半分は、ハルに。
(……少しで、いい)
金色が目の奥で灯った。
床の石が、音もなく、盛り上がった。
膝の高さまで。
細い、石の柱になった。
それだけだった。
いつもなら、ここで来る。
腕の奥を、冷たいものが這い上がってくる。灰色が、ほんの少し肘の上へにじむ。
来なかった。
かわりに、鉄の板の溝がかすかに光った。
光は、溝を伝って、台の向こうへ流れていった。
男の手の板へ。
男の指先が震えた。
ひび割れた指の先のほんの一節が。
灰色になった。
カインは、手を、板から、離した。
速すぎた、と思った。
技師が眉をひそめた。
「まだ測っている」
カインは、答えなかった。
男を見ていた。
男は、自分の指先を見ていた。
灰色の一節。
男は、それを、もう片方の手の指でつまんだ。
「……冷てえな」
男は、言った。
それから、カインを見た。
「若いの。今のは、あんたの分か」
カインは、頷いた。
声が出なかった。
男は、少しだけ首をかしげた。
「痛くは、ねえよ」
男は、言った。
「冷てえ、だけだ」
技師が、帳面に何かを書いた。
板の溝の光は、もう消えていた。
自分の部屋に戻された。
カインは、寝台の端に座った。
右腕を見た。
灰色は、肘で止まっていた。
さっきの石の柱の分は、ここには、来ていない。
あの男の指先に行った。
それなら。
(ハルには、行っていない)
その考えが来た。
先に来た。
男の指より、先に。
カインは、それに気づいた。
気づいて、目を閉じた。
紙を読んだ日から、ずっと、そのために、ここへ来た。
流れを断つために。
あいつの腕を、これ以上、灰色にしないために。
断てた。
断てた、のだと思う。
それなのに。
男の声が、耳の奥に残っていた。
冷てえ、だけだ。
昼過ぎ、技師が、もう一度扉を開けた。
「外の空気を、吸わせろと、上から、言われている」
回廊の先に、小さな、中庭があった。
四方を高い壁に囲まれていた。真ん中に枯れた花壇が一つ。
雪は、壁の上に少しだけ残っていた。
花壇の端に男が座っていた。
十七、だった。
鉄の輪は、外されていた。見張りが一人、壁際に立っていた。
カインは、花壇の前で足を止めた。
枯れた茎が何本も立っていた。手入れをする者は、いないようだった。
外套の内側に手を入れた。
小さな、鋏があった。
将軍の鋏だった。
薬草の庭に置かれたままだった鋏。錆を拭った鋏。
教えに行く。
将軍に。どこにいるのかも、わからない人に。
あの夜、薬草の庭で、そう、決めた。
カインは、膝をついた。
枯れた茎を、根元から、切ろうとした。
「よせ」
声がした。
十七の男だった。
「冬に、根元から、切っちゃ、だめだ」
男は、花壇の土を見ていた。
「枯れて見えても、根は、生きてる。……茎を残しとけ。雪から、根を守る」
カインは、鋏を止めた。
男は、灰色になった指先を、隠しもしないで、花壇の縁を指した。
「切るのは、春だ。芽が出てからだ」
カインは、男を見た。
「……あんたは」
「北の村で麦を作ってた」
男は、言った。
「砦の牢に入れられる前はな」
男は、枯れた茎を、一本、灰色ではない指でそっと撫でた。
「これは、何の花だ」
カインは、答えられなかった。
将軍が、最後まで、言えなかった名前があった。
カインが、ミアに教えた名前があった。
この花壇の花が、何なのかは、知らなかった。
「……わからない」
「そうか」
男は、それ以上、聞かなかった。
カインは、鋏を外套にしまった。
教えに行くはずだった。
教わったのは、自分だった。
夕方、食事が運ばれてきた。
麦の粥と、薄い汁と、黒いパン。
カインは、匙を取った。
一口。
二口。
気づいた時には、粥の半分が、なくなっていた。
半分の半分ではなかった。
半分、だった。
カインは、匙を置いた。
腹が減っていた。
いつから、だったのか。
扉の外で、ゼノビアのペンが、紙の上を走る音がした。
食事を数えている。
今日の数字は、きのうより、良い。
カインは、自分の右手を見た。
灰色の指は、何も感じない。
それでも、あの男の指先の色を思い出した。
ひび割れた、畑の指の。
一節だけの灰色。
その分だけ、自分は、軽くなった。
だから、腹が減った。
カインは、パンを手に取った。
ミアなら、半分こ、と言う。
ユノなら。
あいつなら。
カインは、パンを割らなかった。
そのまま、皿に戻した。
食器を、下げに来たのは、ゼノビアだった。
工房の者の仕事ではなかった。ゼノビアは、自分で盆を持ち上げた。
粥の椀の中を見た。
「半分」
ゼノビアは、言った。
「工房に来てから、初めてです」
カインは、答えなかった。
ゼノビアは、帳簿を開いた。ペンを取った。
「……書くなら」
カインは、言った。
自分の声が、ひどく、乾いていた。
「もう一つ、書いてくれ」
ゼノビアのペンが止まった。
「十七の指。……左の人差し指の先。一節だけ、灰色になった」
ゼノビアは、カインを見た。
長いこと、見ていた。
それから、帳簿に目を落とした。
カインの頁ではなかった。
受け皿の欄の十七の名前の横に。
ゼノビアは、ペンを走らせた。
「書きました」
ゼノビアは、言った。
「あなたが、半分、食べた日に。……誰のどこが灰色になったか」
カインは、目を閉じた。
「それで、いい」
それで、いいはずが、なかった。
その夜は、眠れた。
久しぶりに夢も見なかった。
目が覚めたのは、扉が叩かれた時だった。
窓のない部屋では、朝かどうかも、わからなかった。
技師だった。
手に薄い紙を持っていた。
「きのうの量は、少なすぎた」
技師は、言った。
「今日は、もう少し、使ってもらう。……受け皿は、二人だ」
紙に、数字が、二つ、書いてあった。
二十三。
三十一。
カインは、その紙を見ていた。
長いこと、見ていた。
それから、言った。
「……名前は」
技師が舌打ちした。
扉の向こう、回廊の暗がりで、帳簿の頁をめくる音がした。




