第71話 三十八
「鉄じゃないなら、何ですか」
ハルトは、聞いた。
竈の火は、もう小さくなっていた。鞴の音もやんでいた。
カーラは、指輪の手で、頬杖をついたまま、言った。
「名前」
「名前?」
「私の名前を、あの帳面に書いてもらうの」
カーラは、炉の向こうで、まだ帳面を開いているノエラを、顎で示した。
「軍師さんの帳面に。……それが、値段」
ハルトは、すぐには、わからなかった。
「それって、旗団に入るってことですか」
「さあ。どう、なのかしらね」
カーラは、笑った。
いつもの、からかう笑い方では、なかった。
「冬を越すだけの、つもりだったのよ。……でも、あの鞴の音を、聞いたら、ちょっと、気が変わったの」
カーラは、赤い革を乗せたハルトの左手を、指で軽く叩いた。
「安くないわよ。私の名前を書いたら、あんたたちは、私の分まで背負うことになる。私が、どこかで、誰かに、何かを売ったら。……それは、旗団の名前の売り物になる」
ハルトは、赤い革を握った。
左手だけで。
「みんなに、聞きます」
「知ってた」
カーラは、言った。
翌朝、鍋の列で、ハルトは、話した。
カーラの値段のこと。
それが、鉄より、高いかもしれないこと。
列のあちこちで低い声がした。
最初に、口を開いたのは、天幕から、杖をついて出てきたベックだった。
脇腹に、厚く、布を巻いていた。
「この女から、目は、離さん。……前にそう言った」
ベックは、言った。
「名前を、書いたら、目を離さなくて、よくなるのか」
「なりません」
ノエラが言った。
帳面を胸に抱えていた。
「名前を書いても、私は、数え続けます。……数えている人からは、誰も目を離しません」
ベックは、しばらくノエラを見ていた。
それから、鼻を鳴らした。
「……なら、いい。乗る」
ウルリクが担架の上で笑った。
「謝るな、と言いたいところだが。……あんた、謝る顔じゃないな」
カーラは、肩をすくめた。
ゴードンは、何も言わなかった。
ただ、外套の内側の小さな毛布に手を当てていた。
カーラが、最初に売った噂の最後の一つ。
赤いリボンが、片方だけの女の子。
ゴードンは、カーラを一度だけ見た。
それから、小さく頷いた。
決まった。
ノエラは、帳面の新しい頁を開いた。
戦える人の頁でも、門を出た人の頁でも、なかった。
「どの頁に書きますか」
ノエラは、聞いた。
「あんたが、決めて。軍師さん」
ノエラは、炭筆を指で一度だけ回した。
それから、頁の一番上に何かを書いた。
ハルトの位置からは、見えなかった。
その下に、カーラ、と、書いた。
カーラは、のぞきこまなかった。
「……受け取りました」
ノエラが言った。
カーラは、少しだけ目を丸くした。
それから、頷いた。
カーラは、鍋の列を見回した。
「この話は、高いの。だから、一回しか、話さない」
カーラは、言った。
「盾の坊やの三つ目の条件、だっけ。……いいわ。全員に聞かせてあげる」
焼け跡じゅうが静かになった。
ピムが匙を置いた。
マーサが、椀を、持ったまま、立っていた。
マーサは、あの夜、穀物蔵の地下にいた。ミアと一緒に。
梁が持ち上がった、ほんの短い間に外へ出た。
扉の内側に残った人たちの顔を、マーサは、知っている。
「剣を置いた騎士は、半年近く、一人で瓦礫を掘ったの」
カーラは、言った。
柔らかい声だった。からかう響きは、どこにも、なかった。
「最初は、一人。そのうち、若い兵が、一人、手伝いに来た。……でも、ほとんどは、一人」
「地下の扉は、春のうちに、見つかってたの。でも、上に、焼けた梁が、何本も折り重なってて。一本ずつ、どかすのに、冬までかかった」
カーラは、竈の火を見ていた。
「扉が、開いた日。中に、降りたのも、騎士が、一人」
誰も何も言わなかった。
「出てきた時、騎士は、数を言ったそうよ」
カーラは、言った。
「百八十六」
マーサの椀が傾いた。
粥が、雪の上に少しこぼれた。
ハルトは、息を止めていた。
百八十六。
カインが手を離した扉の内側の数。
「でもね」
カーラは、続けた。
「騎士は、その前に、もう一つ、数えてたの。……あの夜、穀物蔵に誰が入ったか。町じゅうを聞いて回って。半年かけて、一人ずつ、名前を集めてた」
カーラは、指を、二本、立てた。
それから、もう二本。
「梁の下から、外に出られた人を除いて。……扉の内側に残ったのは、二百二十四」
ハルトは、数えた。
声には、出さなかった。
二百二十四から、百八十六を引いた。
「……三十八」
ノエラが言った。
平らな声だった。
でも、炭筆を持つ指が止まっていた。
「三十八人、足りない」
「地下のいちばん奥に」
カーラは、言った。
「古い、水路があったの。穀物蔵ができるより、前の。……麦が湿らないように、水を外の運河へ逃がすための」
カーラは、両手で、狭い、四角を作った。
「大人が、這って、やっと通れるくらい。入口の鉄の格子が、内側から、曲げられてたって」
「格子の下の泥に」
カーラは、少しだけ声を落とした。
「小さな、手の跡が、いくつも残ってたそうよ」
マーサが口を手で押さえた。
ユノが、マーサの肩を抱いた。
「その三十八人が、どこへ行ったのか」
カーラは、言った。
「町には、戻ってない。運河の先は、西の壁の外。あの夜は、外にも魔物がいたわ」
カーラは、首を横に振った。
「そこから先は、私も知らない。……知らないものは、売らないの」
その日、ハルトは、ほとんど、何も食べられなかった。
百八十六。
その数を、思うたびに喉の奥が熱くなった。
涙は、出なかった。
あの夜、ハルトも扉の前にいた。
梁が、落ちるのを見ていた。
カインの手が、離れるのを見ていた。
(開けられたはずだ)
ずっと、そう、思ってきた。
カインに、そう、言った。
でも、その扉の奥で、誰かが格子を曲げていた。
小さな手を、引いて、泥の中を這っていった人がいた。
三十八人。
一人も欠けずに、どこかへ行ったのかは、わからない。
でも、扉の内側にいた人たちは、ただ閉じ込められて待っていただけでは、なかった。
ハルトは、灰色の右手を見た。
この数を、カインは、知らない。
帝都の工房のどこかで。
カインは、まだ、二百人以上を自分が閉じ込めたと思っているのかもしれない。
(……伝えたい)
そう、思った。
伝える方法は、どこにも、なかった。
夜、マーサが、竈の前で一人で座っていた。
ハルトは、その横に座った。
マーサは、しばらく何も言わなかった。
それから、言った。
「隣の家の坊やがね。いたのよ、あの中に」
ハルトは、頷いた。
「あの子、狭いところが好きでね。物置の棚の下とか、すぐ、潜りこむの」
マーサは、火を見ていた。
「……三十八の中に、いるといいわね」
「はい」
「いなくても」
マーサは、言った。
「数えてくれた人が、いたのは、よかった」
夜更けに、天幕へ戻る途中で、カーラが、門柱の陰に立っていた。
外套の襟を立てていた。
「さっきのは、全員への話」
カーラは、言った。
「これは、おまけ。……書いてもらった、名前の分の」
ハルトは、足を止めた。
「剣を置いた騎士はね。百八十六人を、町の人と、弔った後で。……ベルナを出たの」
「どこへ」
「水路の先を追ってるのよ。運河から、川へ。三十八人の跡を」
カーラは、門の外の暗い雪の道を見た。
「運河の水は、川に流れて。……川は、ずっと、下って、どこに着くと思う?」
ハルトは、答えなかった。
答えは、知っていた。
大河にぶつかる、渡し場。
その渡し場から、川を、半日、遡ったところに。
焼けた砦がある。




