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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第四章 冬の門

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第71話 三十八

「鉄じゃないなら、何ですか」

ハルトは、聞いた。

竈の火は、もう小さくなっていた。鞴(ふいご)の音もやんでいた。

カーラは、指輪の手で、頬杖をついたまま、言った。

「名前」

「名前?」

「私の名前を、あの帳面に書いてもらうの」

カーラは、炉の向こうで、まだ帳面を開いているノエラを、顎で示した。

「軍師さんの帳面に。……それが、値段」

ハルトは、すぐには、わからなかった。

「それって、旗団に入るってことですか」

「さあ。どう、なのかしらね」

カーラは、笑った。

いつもの、からかう笑い方では、なかった。

「冬を越すだけの、つもりだったのよ。……でも、あの鞴(ふいご)の音を、聞いたら、ちょっと、気が変わったの」

カーラは、赤い革を乗せたハルトの左手を、指で軽く叩いた。

「安くないわよ。私の名前を書いたら、あんたたちは、私の分まで背負うことになる。私が、どこかで、誰かに、何かを売ったら。……それは、旗団の名前の売り物になる」

ハルトは、赤い革を握った。

左手だけで。

「みんなに、聞きます」

「知ってた」

カーラは、言った。


翌朝、鍋の列で、ハルトは、話した。

カーラの値段のこと。

それが、鉄より、高いかもしれないこと。

列のあちこちで低い声がした。

最初に、口を開いたのは、天幕から、杖をついて出てきたベックだった。

脇腹に、厚く、布を巻いていた。

「この女から、目は、離さん。……前にそう言った」

ベックは、言った。

「名前を、書いたら、目を離さなくて、よくなるのか」

「なりません」

ノエラが言った。

帳面を胸に抱えていた。

「名前を書いても、私は、数え続けます。……数えている人からは、誰も目を離しません」

ベックは、しばらくノエラを見ていた。

それから、鼻を鳴らした。

「……なら、いい。乗る」

ウルリクが担架の上で笑った。

「謝るな、と言いたいところだが。……あんた、謝る顔じゃないな」

カーラは、肩をすくめた。

ゴードンは、何も言わなかった。

ただ、外套の内側の小さな毛布に手を当てていた。

カーラが、最初に売った噂の最後の一つ。

赤いリボンが、片方だけの女の子。

ゴードンは、カーラを一度だけ見た。

それから、小さく頷いた。

決まった。


ノエラは、帳面の新しい頁を開いた。

戦える人の頁でも、門を出た人の頁でも、なかった。

「どの頁に書きますか」

ノエラは、聞いた。

「あんたが、決めて。軍師さん」

ノエラは、炭筆を指で一度だけ回した。

それから、頁の一番上に何かを書いた。

ハルトの位置からは、見えなかった。

その下に、カーラ、と、書いた。

カーラは、のぞきこまなかった。

「……受け取りました」

ノエラが言った。

カーラは、少しだけ目を丸くした。

それから、頷いた。

カーラは、鍋の列を見回した。

「この話は、高いの。だから、一回しか、話さない」

カーラは、言った。

「盾の坊やの三つ目の条件、だっけ。……いいわ。全員に聞かせてあげる」


焼け跡じゅうが静かになった。

ピムが匙を置いた。

マーサが、椀を、持ったまま、立っていた。

マーサは、あの夜、穀物蔵の地下にいた。ミアと一緒に。

梁が持ち上がった、ほんの短い間に外へ出た。

扉の内側に残った人たちの顔を、マーサは、知っている。

「剣を置いた騎士は、半年近く、一人で瓦礫を掘ったの」

カーラは、言った。

柔らかい声だった。からかう響きは、どこにも、なかった。

「最初は、一人。そのうち、若い兵が、一人、手伝いに来た。……でも、ほとんどは、一人」

「地下の扉は、春のうちに、見つかってたの。でも、上に、焼けた梁が、何本も折り重なってて。一本ずつ、どかすのに、冬までかかった」

カーラは、竈の火を見ていた。

「扉が、開いた日。中に、降りたのも、騎士が、一人」

誰も何も言わなかった。

「出てきた時、騎士は、数を言ったそうよ」

カーラは、言った。

「百八十六」

マーサの椀が傾いた。

粥が、雪の上に少しこぼれた。

ハルトは、息を止めていた。

百八十六。

カインが手を離した扉の内側の数。

「でもね」

カーラは、続けた。

「騎士は、その前に、もう一つ、数えてたの。……あの夜、穀物蔵に誰が入ったか。町じゅうを聞いて回って。半年かけて、一人ずつ、名前を集めてた」

カーラは、指を、二本、立てた。

それから、もう二本。

「梁の下から、外に出られた人を除いて。……扉の内側に残ったのは、二百二十四」

ハルトは、数えた。

声には、出さなかった。

二百二十四から、百八十六を引いた。

「……三十八」

ノエラが言った。

平らな声だった。

でも、炭筆を持つ指が止まっていた。

「三十八人、足りない」


「地下のいちばん奥に」

カーラは、言った。

「古い、水路があったの。穀物蔵ができるより、前の。……麦が湿らないように、水を外の運河へ逃がすための」

カーラは、両手で、狭い、四角を作った。

「大人が、這って、やっと通れるくらい。入口の鉄の格子が、内側から、曲げられてたって」

「格子の下の泥に」

カーラは、少しだけ声を落とした。

「小さな、手の跡が、いくつも残ってたそうよ」

マーサが口を手で押さえた。

ユノが、マーサの肩を抱いた。

「その三十八人が、どこへ行ったのか」

カーラは、言った。

「町には、戻ってない。運河の先は、西の壁の外。あの夜は、外にも魔物がいたわ」

カーラは、首を横に振った。

「そこから先は、私も知らない。……知らないものは、売らないの」


その日、ハルトは、ほとんど、何も食べられなかった。

百八十六。

その数を、思うたびに喉の奥が熱くなった。

涙は、出なかった。

あの夜、ハルトも扉の前にいた。

梁が、落ちるのを見ていた。

カインの手が、離れるのを見ていた。

(開けられたはずだ)

ずっと、そう、思ってきた。

カインに、そう、言った。

でも、その扉の奥で、誰かが格子を曲げていた。

小さな手を、引いて、泥の中を這っていった人がいた。

三十八人。

一人も欠けずに、どこかへ行ったのかは、わからない。

でも、扉の内側にいた人たちは、ただ閉じ込められて待っていただけでは、なかった。

ハルトは、灰色の右手を見た。

この数を、カインは、知らない。

帝都の工房のどこかで。

カインは、まだ、二百人以上を自分が閉じ込めたと思っているのかもしれない。

(……伝えたい)

そう、思った。

伝える方法は、どこにも、なかった。


夜、マーサが、竈の前で一人で座っていた。

ハルトは、その横に座った。

マーサは、しばらく何も言わなかった。

それから、言った。

「隣の家の坊やがね。いたのよ、あの中に」

ハルトは、頷いた。

「あの子、狭いところが好きでね。物置の棚の下とか、すぐ、潜りこむの」

マーサは、火を見ていた。

「……三十八の中に、いるといいわね」

「はい」

「いなくても」

マーサは、言った。

「数えてくれた人が、いたのは、よかった」


夜更けに、天幕へ戻る途中で、カーラが、門柱の陰に立っていた。

外套の襟を立てていた。

「さっきのは、全員への話」

カーラは、言った。

「これは、おまけ。……書いてもらった、名前の分の」

ハルトは、足を止めた。

「剣を置いた騎士はね。百八十六人を、町の人と、弔った後で。……ベルナを出たの」

「どこへ」

「水路の先を追ってるのよ。運河から、川へ。三十八人の跡を」

カーラは、門の外の暗い雪の道を見た。

「運河の水は、川に流れて。……川は、ずっと、下って、どこに着くと思う?」

ハルトは、答えなかった。

答えは、知っていた。

大河にぶつかる、渡し場。

その渡し場から、川を、半日、遡ったところに。

焼けた砦がある。

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