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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第四章 冬の門

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第70話 鞴(ふいご)

「革が要るの」

朝の鍋の列のいちばん前でネリが言った。

椀を持っていなかった。かわりに、煤けた紙を、一枚、持っていた。

ハルトは、紙をのぞきこんだ。

炭で絵が描いてあった。

蛇腹の袋。片方に細い口。もう片方に取っ手が二つ。

「鞴(ふいご)?」

「鞴(ふいご)」

ネリは、頷いた。

「炉も鉄床もある。延べ棒もある。……でも、風がないと、鉄は、赤くならない」

ネリは、紙の蛇腹のところを指で叩いた。

「ここに革が要る。牛一頭ぶん、くらい」

ピムが、鍋の向こうで匙を止めた。

「牛は、いません」

「知ってる」

「冬なので、来年までいません」

「知ってるってば」

列の後ろでロブが笑った。

ハルトは、少し考えた。

それから、言った。

「みんなに、聞きます」


昼過ぎ、ネリの石の炉の前に、革が集まり始めた。

最初に来たのは、ロブだった。

古い、片方だけの長靴をぶら下げていた。

「去年、川で、片っぽ、流した。……捨てられなくて、取っといた」

ネリは、長靴を受け取った。

ひっくり返して、底を見た。

「穴、あいてるよ」

「だから、片っぽ、流したんだろうが」

それから、オットが、杖代わりの梁を脇に挟んだまま、擦り切れた革帯を持ってきた。

ベックの組の誰かが、鞘の古い革の覆いを。

川下の村から来た若い男たちが、ほつれた手袋を六つ。

マーサが、昔の前掛けの革の胸当てを。

アガタが薬草の袋を一つ。

「中身は、出したぞ。……匂いは、残っとるがの」

ウルリクは、担架の上から、膝の古い添え木の革紐をほどいて寄越した。

「七年、巻いてた。……もう、要らん」

ネリは、一つずつ、受け取った。

受け取るたびに、少しだけ手を止めた。

ロブの長靴の時。

ウルリクの革紐の時。

ネリは、何も言わなかった。

ただ、ハルトにだけ、わかった。

ネリは、革の向こうに何かを聞いていた。

(……繋がってる、って、言ってたっけ)

覚醒の夜の後に、ネリがそう言っていた。


夕方、炊事場の外れで、四人の帝国の靴の男たちが、薪を割っていた。

ベックの組の若い兵が、一人、横で斧の柄を肩に担いでいた。

四人のうちの一人が、薪を割る手を止めた。

外套を脱いだ。

肩の革の当て布を、小刀で、糸ごと、切り取った。

それを、黙ってハルトの前に差し出した。

帝国の兵の外套の肩の革だった。

記章を、むしり取った跡の穴が、二つ、あいていた。

「……布は、巻いてねえが」

男は、言った。

「革なら、出せる」

ハルトは、受け取った。

その革は、冷たかった。

「ありがとうございます」

男は、何も、言わずに、斧に戻った。


炉の横で、ノエラが帳面を開いていた。

集まった革を、一つずつ、数えていた。

「革まで数えるんですか」

ハルトが聞いた。

「誰が、何を、出したかは、数えておきます」

ノエラは、炭筆を回した。

「受け取ったものの欄なので」

それから、少しだけ声を低くした。

「麦は、村長が、三つ、返してくれました。……冬の終わりに足りないのは、十日分から、四日分になりました」

「四日分」

「四日分は、まだ、私が、どこかから、数えて、持ってきます」

ノエラは、帳面を閉じた。

「鞴(ふいご)が、できたら。……ネリは、鍬と、鎌も打てますか」

ハルトは、炉の前で、革を、ひっくり返しているネリを見た。

「聞いてみます」

「お願いします。春に、畑を、起こせる人が、増えたので」


日が落ちてから、炉の前に革を並べた。

長靴。革帯。鞘の覆い。手袋が六つ。前掛けの胸当て。薬草の袋。添え木の革紐。帝国の外套の肩の革。

ほかにも、いろいろ。

色も、厚さも、ばらばらだった。

「……牛一頭ぶん、には、ならないね」

ネリは、言った。

それから、少しだけ笑った。

「でも、混ぜれば、足りる」

マーサと、ユノと、アガタが、針と糸を持ってきた。

リュネが、ネリの紙を、横から、のぞいた。

「理論的には、蛇腹は、八段。継ぎ目は、ずらして、重ねないと、風が漏れる」

「知ってる」

「あと、取っ手の位置が、二指ぶん、低い。そこだと、引く人の腰が先に壊れる」

ネリは、黙って紙の上の線を炭で直した。

マーサが笑った。

それから、焚き火の明かりの中で、革が、縫い合わされていった。

ロブの長靴の横に、帝国の肩の革が並んだ。

ウルリクの革紐が、マーサの胸当ての端を縛った。

ネリの縫い目は、太くて、不揃いだった。マーサの縫い目は、細かくて、まっすぐだった。ユノの縫い目は、その間くらいだった。

ハルトは、左手で革を押さえる係だった。

右手は、使えなかった。

灰色の指で、革の端を、ただ上から押さえていた。

それでも、押さえる手が一つ増えるだけで、マーサの針は速くなった。


夜更けに鞴(ふいご)ができた。

継ぎはぎの蛇腹だった。

色が八段とも違った。

ネリは、それを炉の口につないだ。

炭を入れた。

火打ち石を打った。

小さな火が炭の上で震えた。

「誰か、引いて」

ネリが言った。

最初に、取っ手を、握ったのは、ゴードンだった。

ゴードンは、両手で取っ手を引いた。

押した。

引いた。

蛇腹が、ふくらんで、しぼんだ。

炭の上の小さな火が低い音を立てた。

赤く、なった。

ゴードンは、引いて、押した。

十回。

二十回。

三十回めのあたりで。

ゴードンの肩が上下した。

息が上がっていた。

ほんの少しだけ。

ハルトは、それを見ていた。

秋の前のゴードンなら、三十回で、息など、上がらなかった。

ゴードンは、何も言わなかった。

引いて、押した。

それから、取っ手から、手を離した。

「……交代だ」

それだけ、言った。

ロブが取っ手を握った。

ハルトは、ゴードンの顔を見なかった。

見たら、ゴードンが気づく気がした。

(隊長)

喉の奥で、言いかけて、やめた。


炉の中で炭が橙色に燃えていた。

ロブの次は、オット。オットの次は、ピム。ピムの次は、川下の村の若い男。その次は、帝国の靴の男の一人。

誰も順番を決めなかった。

疲れた者が、手を離すと、隣にいた者が握った。

「鞴(ふいご)は、一人じゃ、回らないの」

ネリが言った。

延べ棒を一本、火箸でつかんで、炭の中に差し入れた。

祖父の印の一本では、なかった。普通の煤けた、一本だった。

鉄が、赤くなっていくのを、全員が黙って見ていた。

鍋の湯気よりも熱い色だった。

ネリは、赤い鉄を鉄床の上に置いた。

祖父の槌を持ち上げた。

振り下ろした。

かん、と。

高い、音がした。

焼け跡じゅうにその音が響いた。

門柱の横でトマが振り返った。

天幕の中で、ベックが片方の目を開けた。

雪の上で誰かが笑った。

ネリは、もう一度槌を振り下ろした。

かん。

「新しい、盾の」

ネリは、言った。

汗が、煤の上を流れていた。

「最初の一打ち」

ネリは、振り返った。

鞴(ふいご)の横にゴードンが座っていた。まだ少し肩で息をしていた。

「ゴードンの盾だよ」

ネリは、言った。

ゴードンが顔を上げた。

「……俺の?」

「あんた、剣は、あるけど。盾、ないでしょ」

「俺は、いい」

「よくない」

ネリは、外套の内側から、布の包みを出した。

ハルトは、その包みを知っていた。

砕けた、古い盾の破片だった。

「春までには、打つ。……これも入れる」

ネリは、包みを鉄床の横に置いた。

「もとは、ゴードンの盾だったんだから」

ゴードンは、包みを見ていた。

それから、ハルトの右腕の借り物の盾を見た。

ハルトは、頷いた。

声が、うまく、出なかった。

あの盾は、ソーヌ村を出る日に、ゴードンから、渡された。重いほうが、頼りになる、と。

砕けて、破片になって、ネリの外套の中で、ずっと眠っていた。

それが、ゴードンのところへ帰っていく。

ゴードンは、長いこと、黙っていた。

「……勝手にしろ」

それだけ、言った。

ネリは、少しだけ笑った。

「ねえ。盾の裏に、何か、入れたいもの、ある?」

「裏に?」

「爺ちゃんの里では、盾の裏に、持ち主の何かを入れるの。……あたしは、まだ、やったこと、ないけど」

ゴードンの手が、外套の内側に動いた。

小さな毛布の、あるあたりだった。

手は、そこで止まった。

「……考えておく」

「うん」

ネリは、また槌を振り上げた。


炉の火が、落ち着いた頃。

ハルトが、天幕へ戻ろうとすると、竈の陰から、声がした。

「いい音ね」

カーラだった。

外套の膝の上に、小さな、赤い革の切れ端を乗せていた。

「これ、あの子に渡しといて。鞴(ふいご)の取っ手の巻きに」

上等な革だった。南の自由都市の色だった。

「……お代は」

ハルトが聞いた。

カーラは、笑った。

「貸しよ。……利子は、つけないであげる」

カーラは、赤い革をハルトの左手に乗せた。

それから、指輪の手で頬杖をついた。

「そろそろ、聞く気になった? 扉の中の話」

ハルトは、足を止めた。

カーラの目は、からかってはいなかった。

「値段、決めたわよ。盾の坊や」

カーラは、言った。

「鉄じゃ、ないの」

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