第69話 番号の横
--- ゼノビア視点 ---
将軍の名前が、軍の名簿から消えた日、帝都には、雪が降っていなかった。
乾いた風が、北の工匠街の煙を、低く東へ流していた。
ゼノビアは、工房の回廊の窓から、それを見ていた。
手には、帳簿があった。
開いている頁は、二十日分の数字で、半分ほど、埋まっていた。
一番上に名前が一つ。
カイン。
二十日前の朝、ゼノビアは、宿の卓でハインツを待っていた。
答えは、夜のうちに、決めていた。
断れないことは、わかっていた。断れないなら、受け方を選ぶしかない。
選べるものは、一つだけだった。
ハインツは、約束の刻限より、少しだけ早く来た。
「おはよう、ゼノビア。……顔を見れば、答えは、わかるけれど」
「受けます」
ゼノビアは、言った。
「一つだけ、条件があります」
ハインツは、椅子を引いて、腰を下ろした。面白がっている顔だった。
「聞こう」
「工房の帳簿では、受け皿は、番号で書かれているはずです」
ハインツの指が卓の上で止まった。
「よく、知っているね」
「軍の帳簿に載らない施設の帳簿が、どう書かれているかくらいは、数えられます」
ゼノビアは、続けた。
「私の帳簿には、番号の横に、名前を書かせてください。……彼の代わりに払う人が、誰なのか。一人ずつ」
ハインツは、しばらく黙っていた。
それから、笑った。
「将軍の癖だね」
ゼノビアは、答えなかった。
春の終わりの捕虜交換で、将軍が反乱軍に渡した紙のことを、ゼノビアは、知っていた。牢で死んだ三人の、名前と、日付と、最後の言葉。
数えたなら、返すのが筋だ。
将軍は、浅瀬でそう言った。その紙を将軍に手渡したのは、ゼノビア自身だった。
「いいよ」
ハインツは、言った。
「工房の連中は、名前を嫌がるだろうけれど。……君の帳簿の中だけなら、誰も困らない」
ハインツは、立ち上がった。
「名前を書いたところで、何も変わらないことは、君が、一番よく、わかっていると思うけれど」
扉が閉まった。
ゼノビアは、その言葉を、帳簿には、書かなかった。
何も変わらないかどうかは、まだ数えていなかった。
工房の中は、外から見るより、静かだった。
炉の熱は、壁の向こうにあった。回廊は、冷たく、乾いていた。
部屋の扉には、数字が刻まれていた。
一から、四十まで。
その先は、まだ刻まれていなかった。
カインの部屋は、回廊の一番奥だった。扉に、数字は、なかった。
最初の日、ゼノビアは、その扉を二度叩いた。
返事は、なかった。
三度目を叩く前に、扉が、内側から、開いた。
若者は、窓のない部屋の寝台の端に座っていた。
銀灰色の髪は、館にいた頃より、少し伸びていた。目の下が黒かった。
右の腕は、肘まで灰色だった。
金色の目がゼノビアを見た。
「……将軍の館に来た人だな」
「ゼノビアです。今日から、あなたの帳簿をつけます」
「帳簿」
「何を食べたか。何を食べなかったか。どれだけ眠ったか。……灰色がどこまで来たか」
若者は、少しだけ目を細めた。
「数えて、どうする」
「覚えておきます」
ゼノビアは、言った。
「それが、私の仕事なので」
若者は、何も言わなかった。
ゼノビアは、帳簿を開いた。
一番上に、もう、名前は、書いてあった。
「一つ、お伝えしておくことがあります」
ゼノビアは、言った。
報告の義務は、なかった。伝えるなとも言われていなかった。
「秋の戦の後、川下の村の住民は、百四十一人、全員、村に帰りました」
若者の目が動かなかった。
「反乱軍の残りは、焼けた砦の跡で、冬を越しています。……灰色の腕の少年も、そこにいるそうです」
若者は、長いこと、黙っていた。
それから、短く言った。
「……そうか」
将軍と、同じ、言い方だった。
ゼノビアは、それを、帳簿には、書かなかった。
二十日分の数字は、少しも良くならなかった。
食事は、朝と夕に運ばれた。若者が口にしたのは、毎回、半分のさらに半分だった。
眠りは、一晩に二刻と少し。
灰色は、肘から、動いていなかった。
工房の者たちは、日に二度、若者を別の部屋へ連れていった。腕の灰色を測った。脈を測った。金色の目に灯りを近づけた。
まだ何も流してはいなかった。
測るだけだった。
工房の技師が、帳簿の写しを取りに来た。
「数字だけでいい」
技師は、言った。
ゼノビアは、数字だけを、写して、渡した。
受け皿の欄は、まだ空いていた。
将軍の名前が、名簿から消えた日の昼に、古い書記が回廊に来た。
将軍の軍の書記だった。宿に写しを届けてくれた、あの書記だった。
「……今朝、です」
書記は、それだけ、言った。
ゼノビアは、頷いた。
書記は、袖の中から紙を一枚出した。
名簿の写しではなかった。
副将の陣に、下りた命令の写しだった。
工房の鉄、不足。
反乱軍の焼け跡に、鉄の延べ棒、推定二百余。帝国の荷車から奪われたもの。
雪解けの前に回収せよ。
ゼノビアは、紙を二度読んだ。
それから、数えた。
副将の陣から、焼け跡まで雪の道で何日か。
反乱軍の数は、写しの上では、推定二百前後。減少の傾向。
だが、その数字は、秋の終わりの斥候の数字だった。
冬の間に減り続ける軍もある。
減らない軍もある。
百四十一を、一人も欠かさずに数えた軍師がいる軍が、冬の間、何を数えているのか。
写しには、書いていなかった。
ゼノビアは、紙を書記に返した。
「……参謀殿は、何も、なさらないのですか」
書記が小さな声で言った。
ゼノビアは、窓の外の煙を見た。
「私は、待命の身です」
ゼノビアは、言った。
「それに、私が、どちらかに、何かを伝えれば。……その時点で、私の帳簿は、正しくなくなります」
書記は、黙って頭を下げた。
回廊を帰っていった。
夕刻、ゼノビアは、自分の帳簿の別の頁を開いた。
将軍の頁だった。
名前と、仕えた年と、秋の戦の日付が書いてあった。
その下に今日の日付を書いた。
名簿から、消えた日。
ゼノビアは、ペンを、持ったまま、少し考えた。
それから、名前の上に線を引かなかった。
遺体は、見つかっていない。
名簿は、遺体を必要としない。ハインツは、そう言った。
帳簿は、違う。
その夜、工房の技師がもう一度来た。
手に、薄い紙を、一枚、持っていた。
「明日の朝から、流す」
技師は、言った。
「受け皿の欄にこれを」
紙には、数字が、一つ、書いてあった。
十七。
扉に刻まれた、数字の一つだった。
ゼノビアは、帳簿の受け皿の欄に、十七、と、書いた。
それから、技師を見た。
「名前は」
技師は、眉をひそめた。
「必要ない」
「私の帳簿には、必要です。……ハインツ殿の、許しは、取ってあります」
技師は、舌打ちをして、紙の裏をめくった。
裏に、小さく、何か、書いてあった。
技師は、それを読み上げた。
ゼノビアは、番号の横にその名前を書いた。
北の砦の牢から来た男だった。
技師が出ていった後、回廊の奥の扉が開いた。
若者が戸口に立っていた。
聞いていたのだと、ゼノビアには、わかった。
「……その帳簿に」
若者は、言った。
「名前を書いたのか」
「書きました」
「誰の」
「明日、あなたの代わりに、払う人の」
若者は、灰色の右手を左の手でつかんだ。
長いこと、そうしていた。
それから、言った。
「読んでくれ」
ゼノビアは、帳簿を見下ろした。
「……一人ずつ、でいい。誰が払うのか。……俺が、知らないままで、いいはずがない」
ゼノビアは、帳簿を開いた。
受け皿の欄には、まだ、一つしか、書いていなかった。
番号と。
その横の名前と。
ゼノビアは、それを読み上げた。
若者は、目を、閉じて、聞いていた。
口の中で、その名前を一度だけ繰り返した。
窓のない回廊で、九本の煙突の音だけが、壁の向こうで低く鳴っていた。




