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暁の盾 〜分け合う者と、背負う者〜  作者: 旬花祝桃
第四章 冬の門

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第69話 番号の横

--- ゼノビア視点 ---

将軍の名前が、軍の名簿から消えた日、帝都には、雪が降っていなかった。

乾いた風が、北の工匠街の煙を、低く東へ流していた。

ゼノビアは、工房の回廊の窓から、それを見ていた。

手には、帳簿があった。

開いている頁は、二十日分の数字で、半分ほど、埋まっていた。

一番上に名前が一つ。

カイン。


二十日前の朝、ゼノビアは、宿の卓でハインツを待っていた。

答えは、夜のうちに、決めていた。

断れないことは、わかっていた。断れないなら、受け方を選ぶしかない。

選べるものは、一つだけだった。

ハインツは、約束の刻限より、少しだけ早く来た。

「おはよう、ゼノビア。……顔を見れば、答えは、わかるけれど」

「受けます」

ゼノビアは、言った。

「一つだけ、条件があります」

ハインツは、椅子を引いて、腰を下ろした。面白がっている顔だった。

「聞こう」

「工房の帳簿では、受け皿は、番号で書かれているはずです」

ハインツの指が卓の上で止まった。

「よく、知っているね」

「軍の帳簿に載らない施設の帳簿が、どう書かれているかくらいは、数えられます」

ゼノビアは、続けた。

「私の帳簿には、番号の横に、名前を書かせてください。……彼の代わりに払う人が、誰なのか。一人ずつ」

ハインツは、しばらく黙っていた。

それから、笑った。

「将軍の癖だね」

ゼノビアは、答えなかった。

春の終わりの捕虜交換で、将軍が反乱軍に渡した紙のことを、ゼノビアは、知っていた。牢で死んだ三人の、名前と、日付と、最後の言葉。

数えたなら、返すのが筋だ。

将軍は、浅瀬でそう言った。その紙を将軍に手渡したのは、ゼノビア自身だった。

「いいよ」

ハインツは、言った。

「工房の連中は、名前を嫌がるだろうけれど。……君の帳簿の中だけなら、誰も困らない」

ハインツは、立ち上がった。

「名前を書いたところで、何も変わらないことは、君が、一番よく、わかっていると思うけれど」

扉が閉まった。

ゼノビアは、その言葉を、帳簿には、書かなかった。

何も変わらないかどうかは、まだ数えていなかった。


工房の中は、外から見るより、静かだった。

炉の熱は、壁の向こうにあった。回廊は、冷たく、乾いていた。

部屋の扉には、数字が刻まれていた。

一から、四十まで。

その先は、まだ刻まれていなかった。

カインの部屋は、回廊の一番奥だった。扉に、数字は、なかった。

最初の日、ゼノビアは、その扉を二度叩いた。

返事は、なかった。

三度目を叩く前に、扉が、内側から、開いた。

若者は、窓のない部屋の寝台の端に座っていた。

銀灰色の髪は、館にいた頃より、少し伸びていた。目の下が黒かった。

右の腕は、肘まで灰色だった。

金色の目がゼノビアを見た。

「……将軍の館に来た人だな」

「ゼノビアです。今日から、あなたの帳簿をつけます」

「帳簿」

「何を食べたか。何を食べなかったか。どれだけ眠ったか。……灰色がどこまで来たか」

若者は、少しだけ目を細めた。

「数えて、どうする」

「覚えておきます」

ゼノビアは、言った。

「それが、私の仕事なので」

若者は、何も言わなかった。

ゼノビアは、帳簿を開いた。

一番上に、もう、名前は、書いてあった。

「一つ、お伝えしておくことがあります」

ゼノビアは、言った。

報告の義務は、なかった。伝えるなとも言われていなかった。

「秋の戦の後、川下の村の住民は、百四十一人、全員、村に帰りました」

若者の目が動かなかった。

「反乱軍の残りは、焼けた砦の跡で、冬を越しています。……灰色の腕の少年も、そこにいるそうです」

若者は、長いこと、黙っていた。

それから、短く言った。

「……そうか」

将軍と、同じ、言い方だった。

ゼノビアは、それを、帳簿には、書かなかった。


二十日分の数字は、少しも良くならなかった。

食事は、朝と夕に運ばれた。若者が口にしたのは、毎回、半分のさらに半分だった。

眠りは、一晩に二刻と少し。

灰色は、肘から、動いていなかった。

工房の者たちは、日に二度、若者を別の部屋へ連れていった。腕の灰色を測った。脈を測った。金色の目に灯りを近づけた。

まだ何も流してはいなかった。

測るだけだった。

工房の技師が、帳簿の写しを取りに来た。

「数字だけでいい」

技師は、言った。

ゼノビアは、数字だけを、写して、渡した。

受け皿の欄は、まだ空いていた。


将軍の名前が、名簿から消えた日の昼に、古い書記が回廊に来た。

将軍の軍の書記だった。宿に写しを届けてくれた、あの書記だった。

「……今朝、です」

書記は、それだけ、言った。

ゼノビアは、頷いた。

書記は、袖の中から紙を一枚出した。

名簿の写しではなかった。

副将の陣に、下りた命令の写しだった。

工房の鉄、不足。

反乱軍の焼け跡に、鉄の延べ棒、推定二百余。帝国の荷車から奪われたもの。

雪解けの前に回収せよ。

ゼノビアは、紙を二度読んだ。

それから、数えた。

副将の陣から、焼け跡まで雪の道で何日か。

反乱軍の数は、写しの上では、推定二百前後。減少の傾向。

だが、その数字は、秋の終わりの斥候の数字だった。

冬の間に減り続ける軍もある。

減らない軍もある。

百四十一を、一人も欠かさずに数えた軍師がいる軍が、冬の間、何を数えているのか。

写しには、書いていなかった。

ゼノビアは、紙を書記に返した。

「……参謀殿は、何も、なさらないのですか」

書記が小さな声で言った。

ゼノビアは、窓の外の煙を見た。

「私は、待命の身です」

ゼノビアは、言った。

「それに、私が、どちらかに、何かを伝えれば。……その時点で、私の帳簿は、正しくなくなります」

書記は、黙って頭を下げた。

回廊を帰っていった。


夕刻、ゼノビアは、自分の帳簿の別の頁を開いた。

将軍の頁だった。

名前と、仕えた年と、秋の戦の日付が書いてあった。

その下に今日の日付を書いた。

名簿から、消えた日。

ゼノビアは、ペンを、持ったまま、少し考えた。

それから、名前の上に線を引かなかった。

遺体は、見つかっていない。

名簿は、遺体を必要としない。ハインツは、そう言った。

帳簿は、違う。


その夜、工房の技師がもう一度来た。

手に、薄い紙を、一枚、持っていた。

「明日の朝から、流す」

技師は、言った。

「受け皿の欄にこれを」

紙には、数字が、一つ、書いてあった。

十七。

扉に刻まれた、数字の一つだった。

ゼノビアは、帳簿の受け皿の欄に、十七、と、書いた。

それから、技師を見た。

「名前は」

技師は、眉をひそめた。

「必要ない」

「私の帳簿には、必要です。……ハインツ殿の、許しは、取ってあります」

技師は、舌打ちをして、紙の裏をめくった。

裏に、小さく、何か、書いてあった。

技師は、それを読み上げた。

ゼノビアは、番号の横にその名前を書いた。

北の砦の牢から来た男だった。


技師が出ていった後、回廊の奥の扉が開いた。

若者が戸口に立っていた。

聞いていたのだと、ゼノビアには、わかった。

「……その帳簿に」

若者は、言った。

「名前を書いたのか」

「書きました」

「誰の」

「明日、あなたの代わりに、払う人の」

若者は、灰色の右手を左の手でつかんだ。

長いこと、そうしていた。

それから、言った。

「読んでくれ」

ゼノビアは、帳簿を見下ろした。

「……一人ずつ、でいい。誰が払うのか。……俺が、知らないままで、いいはずがない」

ゼノビアは、帳簿を開いた。

受け皿の欄には、まだ、一つしか、書いていなかった。

番号と。

その横の名前と。

ゼノビアは、それを読み上げた。

若者は、目を、閉じて、聞いていた。

口の中で、その名前を一度だけ繰り返した。

窓のない回廊で、九本の煙突の音だけが、壁の向こうで低く鳴っていた。

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