第67話 誰の後ろに
焚き火の向こうの男は、頬に古い傷があった。
帝国の兵の靴。帝国の兵の外套。肩の記章だけが、むしり取られていた。
男の後ろで、帝国の靴を履いた男たちが、三人、立ち上がった。
それから、左の小屋の戸が、内側から、開いた。
二人。
右の小屋からも二人。
手に短い弩を持っていた。
(……十人前後、じゃない)
ハルトは、数えた。
帝国の靴が、八人。
焚き火の手前に、旗団の布を巻いた男たちが、六人。
その六人は、刃を抜かなかった。
ただ、焚き火と、ハルトの間で立ちすくんでいた。
「麦を返しに来ました」
ハルトは、言った。
背中の袋を雪の上に下ろした。
「川下の村の七つ分。……旗団の冬の分から、出しました」
頬傷の男が笑った。
「聞いたか。返しに来たんだと」
男は、焚き火の手前の六人を見た。
「おまえらの盟主様は、優しいな。……だから、負けたんだろうが」
六人の誰も何も言わなかった。
四人目の男は、ハルトを見ていた。
困った顔では、なかった。
何かを見極めようとする顔だった。
「将軍の軍にいた人たちですか」
ハルトは、頬傷の男に言った。
男の目が少し細くなった。
「秋のあの戦いの後に逃げた。……将軍がいなくなって、銀の鎖の連中が、俺たちの頭に座った。戻れば、逃げた罪で吊るされる」
男は、焚き火に薪を一本蹴り込んだ。
「だがな。手土産が、あれば、話は、別だ」
男の目が、ハルトの右腕に止まった。
借り物の盾に。
灰色の指に。
「将軍の剣を、折った、灰色の腕の小僧。……銀の鎖は、その首にいい値をつけてる」
ハルトの背中で、雪がかすかに鳴った。
木の陰のヤンたちだった。
頬傷の男は、気づいていた。
「後ろの連中も出てこいよ。……弩は、十歩なら、外さねえ」
ハルトは、焚き火の手前の六人を見た。
「村の倉に、布を巻いて、入ったのは」
ハルトは、言った。
「あなたたちが、言い出したんですか」
六人の中の一人が目を伏せた。
ベックの組にいた男だった。
「……巻いてけ、って、言われた」
男は、言った。
「旗団の仕業に、しとけば、村は、旗団を恨む。……そう、言われた」
四人目の男が、初めて、口を開いた。
「悪いな、って、言ったのは、俺だ」
低い、声だった。
「言わずに、いられなかった。……あの倉の前で、あんたらの隊長が、立ってたのを見てたからな」
ゴードンのことだった。
秋に、斧の柄を担いで、倉の扉の前に、自分の足で立っていた、ゴードン。
「腹は、減ってた」
四人目の男は、言った。
「言い訳は、しねえ。……だが、あの倉を、破った夜から、誰の後ろにも、並んでねえのが、よく、わかった」
頬傷の男が舌打ちした。
「しゃべりすぎだ」
弩が、一つ、四人目の男の背中に向いた。
その瞬間、ハルトは、走った。
雪が膝まであった。
速くは、走れなかった。
それでも、三歩で四人目の男の前に出た。
右腕を上げた。
借り物の盾に弩の矢が当たった。
腕の骨まで響いた。
革帯がきしんだ。盾は、割れなかった。
二本目。
三本目は、盾の縁を、かすめて、ハルトの左の頬を切った。
熱い、線が走った。
「盟主!」
ヤンの声と、弓の弦の音が同時だった。
右の小屋の前で、弩の男が、一人、膝をついた。
木の陰から、ベックが、槍を構えて、出てきた。ベックの組の五人が続いた。ロブが、雪を、蹴散らして、走ってきた。
ユノの短弓が鳴った。
リュネが、長杖を雪に突き立てた。
「足元、いくわよ」
足元の雪が、一瞬で、溶けて、また凍った。
左の小屋の前の二人の足が氷に取られた。
頬傷の男は、強かった。
逃げた兵の剣ではなかった。将軍の軍で、何年も振ってきた剣だった。
ハルトは、受けた。
受けた。
受けた。
崩せなかった。
手首が返らない。盾の向こうの剣を横へ流せない。
体当たりで半歩押した。
男は、半歩、下がって、すぐに半歩戻ってきた。
「受けるだけか、小僧!」
剣が、盾の上を、滑って、ハルトの肩口を裂いた。
焚き火の手前で、六人が、まだ立ちすくんでいた。
どちらにも行けずに。
その時、ハルトの背中で、何かがほどけるような感じがした。
光の糸だった。
あの夜以来、だった。
細い光の糸が、ハルトの背中から、肩から、伸びていった。
ベックへ。
ロブへ。
ユノへ。リュネへ。ヤンへ。
ベックの組の五人へ。
名前を知っている顔だった。焼け跡の鍋の列で、一人ずつ、呼んだ顔だった。
糸は、迷わずに、届いた。
ベックの槍の重さが、ハルトの左腕に流れ込んできた。ロブの踏み込みの強さが、足に。ユノの風の軽さが、背中に。
それから、糸は、焚き火の手前へ伸びようとした。
六人へ。
糸は、細かった。
震えていた。
顔は、見えていた。でも、名前が、顔と、繋がらなかった。
ベックの組にいた男の名前は、帳面の頁で読んだはずだった。でも、どの名前だったか。
(……わからない)
糸は、届かなかった。
ただ、一本だけ。
四人目の男へ伸びた糸だけが、細いまま、切れずに、揺れていた。
あの夜、門柱の間で目が合ったからか。
ハルトには、わからなかった。
頬傷の男の剣がまた来た。
受けた。
崩せない。
崩せないなら。
「名前は!」
ハルトは、叫んだ。
背中の四人目の男に。
「あなたの名前は!」
一瞬の間があった。
それから、男は、名前を言った。
ハルトは、それを聞いた。
覚えた。
糸が太くなった。
ハルトは、受けた。
盾で、頬傷の男の剣を、まっすぐ受け止めた。
崩さなかった。
崩せないから、止めた。
ベックの槍の重さで。ロブの足で。
止めて、叫んだ。
その男の名前を。
四人目の男が、ハルトの横を抜けた。
剣は、持っていなかった。
焚き火の薪を、一本、つかんでいた。
止まった剣の下へ潜り込んだ。
頬傷の男の膝を、薪で、横から、払った。
男の体が傾いた。
受けて、繋いだ。
崩したのは、ハルトでは、なかった。
頬傷の男は、雪の上を転がった。
すぐに起き上がった。
剣を拾わなかった。
「退け!」
弩の男が一人、焚き火の向こうへ矢を放った。
狙いは、ハルトでは、なかった。
焚き火の手前のベックの組にいた男だった。
ベックが動いた。
槍を捨てて。
自分の体をその男の前に入れた。
鈍い、音がした。
ベックの脇腹に短い矢が深く立っていた。
「ベック!」
ロブが叫んだ。
ベックは、倒れなかった。
片方の目で、ベックの組にいた男を見た。
「……言ってから、行けと、言われただろう」
ベックは、言った。
「……戻る時も勝手に死ぬな」
それから、膝をついた。
頬傷の男と、弩の男が一人、北の斜面の森の中へ消えた。
四人が、雪の上に剣を捨てた。
二人が、倒れて、動かなくなっていた。
リュネが、膝をついたベックの横に、滑り込んだ。
「抜かないで。……抜いたら、血が止まらない」
リュネは、長杖をベックの脇腹に当てた。
「動かないで。……凍らせる」
矢の周りの血が、薄く、凍った。
リュネの唇が、青く、なった。
ハルトは、立っていられなかった。
雪の上に座り込んだ。
寒かった。
寒い、という言葉では、足りなかった。
体の内側から、熱が抜けていく。指の先から、足の先から、腹の底から。
光の糸は、もう、どこにも、なかった。
ユノが、ハルトの前に膝をついた。
ハルトの顔を両手で挟んだ。
「……冷たい」
ユノは、言った。
ユノの手も冷たかった。ロブも、ヤンも、ベックの組の五人も、雪の上で肩を抱いて震えていた。
糸を通して、みんなの熱を使った。
みんなの分を少しずつ。
それでも、いちばん多く、抜けていったのは、ハルトの熱だった。
灰色の右手を見た。
灰色は、肘のすぐ下で止まっていた。
進んでは、いなかった。
その代わり、肌の灰色でないところまで、白く冷えていた。
その夜は、炭焼き小屋で火を焚いた。
ベックは、小屋のいちばん奥に寝かせた。矢は、まだ抜いていない。焼け跡のアガタのところまで、もたせなければ、ならなかった。
ベックの組にいた男が、ベックの横にずっと座っていた。
焚き火の手前にいた六人のうち、四人が小屋の中にいた。
二人は、夜になる前にハルトの前に来た。
「北へ行く」
一人が言った。
「山の向こうに知り合いがいる。……旗団には、戻らねえ」
ハルトは、二人の顔を見た。
名前は、知らなかった。
「名前を教えてください」
二人は、顔を見合わせた。
それから、名前を言った。
ハルトは、覚えた。
「……言ったぞ」
男は、言った。
「ちゃんと、言ってから、行くぞ」
「はい」
ハルトは、頷いた。
二人は、雪の中へ出ていった。
振り返らなかった。
夜更け。
ハルトは、焚き火の前で、ユノに右手を包まれていた。
体は、まだ冷えていた。歯の根が合わなかった。
それでも、灰色と肌の境目だけが、ほんの少し温かかった。
戸口に四人目の男が座っていた。
外を見張っていた。
しばらくして、男が口を開いた。
「……あんたの後ろに」
男は、外を、見たまま、言った。
「並んでいいか」
ハルトは、少し考えた。
レオニスさんの背中を思った。
みんなが、並んでいた、あの背中を。
「後ろは、いやです」
ハルトは、言った。
男がこちらを見た。
「俺、崩せないので」
ハルトは、灰色の手を少しだけ持ち上げた。
「横にいてください。……今日、みたいに」
男は、しばらく黙っていた。
それから、喉の奥で短く笑った。
「……変な、盟主だ」
戸口の外で雪を踏む音がした。
ヤンだった。北の斜面から、戻ってきた。
肩の雪を、払いもしないで、言った。
「足跡を追いました。二人分」
ヤンの顔は、寒さで白かった。
でも、白いのは、寒さのせいだけでは、なかった。
「北じゃ、ありません。東へ向かってます」
ハルトは、顔を上げた。
「……銀の鎖の、副将の陣のほうです」




